第1話「はじまり」
「あなたの笑顔、絶対に引き出してみせるよ! 負けないんだから!」
ある日の放課後。人もまばらな教室。窓の向こうに見える薄曇りの空。
この春、高校二年になったばかりのひまりは、目の前に立っている男子生徒にぴっと指を突きつけ、そう宣言した。
男子生徒は長い前髪をいじりながら、そっけなく答える。
「……まあ、好きにしたら?」
男子生徒の顔には、何の感情も浮かんでいない。ひまりはぐっと拳を握ると、やる気に満ちた瞳をきらめかせた。
*
時は少し遡って、今朝のこと。騒がしい教室で、ひまりは親友の舞ちゃんから興味深い話を聞いた。
「え? いつも無表情だっていうの、その人?」
「そうなの。私も何回か会ったことがあるんだけど、本当に表情がないというか、感情が薄いというか……」
「へえ! そんな人いるんだ! うわぁ、ちょっと見てみたい!」
ひまりは目をきらきらさせながら、身を乗り出した。舞ちゃんは困ったように笑って、ひまりの肩をぽんぽんと叩く。落ち着け、とでも言うような仕草だった。
親友の舞ちゃんは、クラスで一番の美少女。さらさらとしたストレートの黒髪、長い睫毛、ぱっちりとした大きな瞳。おまけに、長くて綺麗なモデル並みの脚。
くせっ毛でちびっこなひまりとは全然違う。
その上、この親友ときたら明るくて優しくて、中身も最高なのである。もちろん、素敵な彼氏もいる。たまに、なんでこんな美少女が自分の親友なんかやっているのだろう、と疑問に思うことさえあるくらいだ。
そんな最高の親友が教えてくれたのが、「無表情の人」の話だったのである。
「その人ね、彼の友達なんだけど。話し掛けても無表情のままで……なんだかすごく恐いの。彼の友達だから仲良くした方が良いのかなって思うんだけど、なかなか上手くいかなくて。嫌われてるのかな、私……」
「舞ちゃんのこと嫌いな人なんていないよ! 私は舞ちゃんのこと、大好きだもん! よーし、私、その人のこと調べてみるよ。それで、舞ちゃんの素晴らしさを説いてくる!」
「え、そこまでしなくても良いよ……って、ひまりちゃん?」
席に座ったままの舞ちゃんを置いて、ひまりは教室を飛び出した。目指すは隣の教室。その「無表情の人」というのは隣のクラスにいると聞いたので。
開いているドアから教室の中を窺うと、背の高い男子生徒と目が合った。その男子生徒はにこりと微笑むと、ひまりに近付いてくる。
「どうしたの、ひまりちゃん?」
舞の彼氏、黒田くんだ。スポーツ万能のイケメンさんである。笑顔が眩しいので、ひまりはちょっとだけこの人が苦手だ。良い人ではあるのだけど。
「えっと、舞ちゃんから『無表情の人』がいるって聞いて。気になるから、ちょっと観察しに来たの」
「『無表情の人』……? 亀井のことかな」
黒田くんの指した先に、ひとりの男子生徒がいた。猫背になって俯いているその男子生徒は、どこにでもいそうな容姿をしていた。
長く伸びた重そうな前髪。地味な眼鏡。ひょろりとした体格。残念ながら、顔はよく見えない。もう少し顔を上げてくれれば良いのに。
「うーん、よく分からないなあ……」
ひまりはしばらく様子を窺ってみた。が、予鈴が鳴ったので、ひとまず観察を中断する。
そして、その日一日、休み時間のたびに隣のクラスに行っては観察を続けた。
「うん! 本当に顔が変わらない! すごい!」
放課後、ひまりは感嘆の声をあげた。そんなひまりを、舞ちゃんと黒田くんは呆れ顔で見つめていた。
「ひまりちゃんの興味の向く先が意味不明だよ……」
「休み時間のたびに、ドアから半分だけ顔を出して覗いてくるの、ちょっと不気味だったな……」
遠い目をする二人の言葉を特に気にすることもなく、ひまりは勢いよく立ち上がり、駆け出した。そのままの勢いで、隣の教室にいる「無表情の人」へと突撃する。
「こんにちは! ずっとあなたのこと、見てました!」
「えっ」
その男子生徒は驚いたような声を出したけれど、表情は変わらない。さすがである。
「本当に表情が変わらないんだね! 私、ちょっと感動した! まるで鉄仮面だね! 仮面くんだね!」
「え、何? きみ、誰?」
「私はひまり! えっと、黒田くんの彼女の舞ちゃんの親友!」
「……はあ?」
思いきり怪しまれている。けど、やはり表情は変わらない。顔の筋肉が凝り固まっているのだろうか。とても興味深い。
ぐっと顔を近付けて、観察をしてみる。
男子生徒はすいっと目を逸らした。
「……あの、近いんですけど。恐いんですけど」
「恐いって顔じゃないよね。ものすごく平然とした顔だよね。あ、質問! 仮面くんは『喜怒哀楽』ってあるの?」
「あるよ……。というか、仮面くんってなに……」
「あなたの愛称!」
にこっと笑ってみせると、仮面くんはくるりと背を向けた。これでは表情が見えやしない。ひまりは仮面くんの顔を見ようと、ささっと移動する。
でも、仮面くんは両手で顔を覆ってしまう。ひまりは小さく唸り、その手を引き剥がそうと手を伸ばした。
「ひまりちゃん、ストップ! 暴走しすぎ!」
横から舞ちゃんが現れて、ひまりの手を捕まえた。舞ちゃんは困り顔でひまりを見つめた後、仮面くんに向かって申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんね、亀井くん。この子、私の親友なんだけど、興味のあることを見つけたら周りが見えなくなるみたいで……。驚いたでしょう?」
「ああ、うん。驚いた……」
そう答える仮面くんの顔は、やはり無表情だった。ひまりはますます興味が引かれ、うずうずしてきてしまう。
この人が表情を変えるところを見てみたい。特に笑顔。どんな顔で笑うのだろう。
仮面くんは無表情のまま鞄を手に持ち、帰ろうと背を向ける。その背中に、ひまりは慌てて声を掛けた。
「待って、仮面くん!」
ひまりは振り返った仮面くんに、ぴっと指を突きつけた。
「あなたの笑顔、絶対に引き出してみせるよ! 負けないんだから!」
仮面くんは前髪をいじりながら、そっけなく答える。
「……まあ、好きにしたら?」
その声は呆れを含んでいるようだった。
そんなわけで、ひまりと仮面くんの『喜怒哀楽』を巡る勝負が幕を開けたのである――。