0008レトロPCガール
「敏之。ちょっといいか」
ドアをノックする硬質な音に、半ば薄れかけていた意識がつつかれる。兄貴の声だ。俺は本をどかし、「いいよ」と答えた。ドアが開かれる。
「大丈夫か?」
兄貴は缶コーヒーを2つ持っていた。片方を俺に放り投げる。俺は片手でキャッチした。乾いた表面から生温かさが発散されている。
「何が?」
俺はそう応じながら缶の蓋を開いた。兄貴はドアを背に寄りかかり、自分のコーヒーを両手でもてあそんだ。
「あまり気にするなよ。あの二人は……そうだな……少し変わってるんだ」
「だから、何が?」
兄貴はふっと笑った。
「それならいいんだが」
出しっぱなしの文奈の本を見咎める。
「それは何だ?」
俺は糖分の少ないコーヒーをあおった。やたらと苦く感じる。
「友達から借りてきたんだ。一応『FM-7同好会』とやらの資料さ」
「もう友達ができたのか」
兄貴がその端整な顔を緩めた。自身のコーヒーを開ける。
「それは良かった。そうだよな、敏之は人付き合いが上手いほうだもんな。それでどんな同好会なんだ? エフエムセブン? それはFMラジオか何かか?」
「兄貴」
「同好会ってことは部活じゃないんだな? 何人でできるんだ? 募集しているのか?」
「兄貴」
俺はさっさと飲み干した空き缶を学習机の上に置いた。気の抜けた金属音が鳴り響く。
「無理にフォローしてくれなくていいよ」
兄貴は顔を強張らせた。その舌がぎこちなく回転する。
「いや、俺は別にフォローだなんて……」
俺はあえて突っ張った。別に兄貴と喧嘩したいわけじゃない。ただ、彼の限りなく純粋無垢な優しさが、今の俺には精神的出血をもたらす刃なのだ。
「話はそれだけかい? ならもういいよ」
俺は再びベッドに寝転がった。腕で目元をかばい、視界を閉ざす。
「兄貴、勉強があるだろ。俺にかまってくれなくていいから、そっち頑張りなよ」
兄貴は俺のやんわりとした拒絶に、しばし何も言わなかった。
「そうか。寝ているところ悪かった、敏之。おやすみ」
絞り出すようにそう告げる。ドアが開閉する音が聞こえ、室内は再び俺一人になった。
ごめんな、兄貴。
俺は壁際に寝返りを打ち、叫びだしたい衝動と戦いながら、眠りに落ちる瞬間を待ちわびた。
翌朝、俺は自分で弁当を作ると、「行ってきます」と口にして返事を期待せず玄関を出た。もちろん誰の声も返ってこない。裕兄貴は早くも部活動――剣道部の練習で忙しかったのだ。
ふと見ると、マンション隣の一軒家の少年が、サッカーボールのリフティングを練習していた。しかしどうにも下手糞ですぐ失敗する。見ていられず、俺は足早に登校した。
それから一週間ほど、俺と文奈は同好会設立のための活動にいそしんだ。朝は早くから昇降口前に立ち、登校してくる生徒たちを勧誘する。昼は校内の掲示板に貼ってある同好会のチラシを交換する。夕は彼女の家でFM-7の学習。俺たちは懸命に動き続けた。
しかし、数十年前の化石のようなパソコンを扱う同好会など、人気が出るわけもなかった。悪いことにこの藤之石高校にはもともと『パソコン部』が存在しており、そこではそれなりに新しいWINパソコンを用いて、プログラミングを始めとする各種活動を行なっていたのだ。
そんなわけで、FM-7同好会はパソコン部の門前で立ち往生することになった。FM-7のプログラミング言語を覚えたところで、将来社会に出た時それが役立つかというと、残念ながらノーと言わざるを得ない。同じパソコンを扱うならパソコン部に入るのがベストだ――誰もがそう考えて不思議ではない。パソコン部が着々と部員を増やし続ける中、FM-7同好会にはただの一人も入会希望者が現れなかった。
「溜め息しか出ませんね……」
昼休み、俺と文奈は教室で昼食を摂りつつ、作戦会議を行なっていた。賑やかな室内で、俺は幸せを噛み締めていた。好きな女の子と二人きりで食事ができるなんて望外の喜びだ。ただ、話の内容はあくまでFM-7同好会やFM-7実機に関するものばかりだったが。
文奈は意気消沈していて、ろくに箸も進まない。俺は自作のノリ弁を咀嚼しつつ、気落ちする彼女を励ました。
「なに、まだ一週間だ。そのうち入会希望者が現れるって」
「だといいんですけど」
卵焼きを口に運ぶ。味がしないのか、ほとんど飲むように食べた。俺はお茶のペットボトルの蓋を回しつつ思いつきを口にする。
「そうだな、やっぱりFM-7の魅力を人に伝えるには、本体を学校へ持ってこないといけないな。で、ドラゴンバスターとかのゲームを走らせて、人目を惹く、と」
文奈はようやく乗ってきた。
「ですよね。でもFM-7って重いんですよ。液晶モニターと併せて運ぶのはかなり大変です。それに保管場所を見つけないと。誰かに盗まれてもいけませんし」
「FM-7のような物故パソコンを盗もうなんて奴いないって。どうせ売っても1000円ぐらいにしかならないんだろ?」
彼女は口を尖らせて誤りを指摘した。
「違いますよ河野さん。ヤフオクとかのネットオークションだと1万円を超えることもあるんですよ。ディスクドライブのついたFM-77以降なら数万円ぐらいになります。ビンテージものなんですよ、8ビットパソコンは」
そうなのか。それは知らなかった。それなら迂闊に学校には持って来れないな。
と思っていると……
「でも使うだけならタダだけどね」
いきなり話しかけてきたのは、タブレット使いの優男、宇院銅豆だった。髪の毛を掻き回し、今日も眠そうな半眼である。薄笑いを浮かべて宙に浮くように歩いてきた。
「エミュやればいいじゃん。エミュ」
「エミュ?」
俺は問いかけた。文奈が気分を害したのか、きつい眼差しを銅豆にぶつける。
「エミュなんて犯罪です。あっち行っててください」
俺はちんぷんかんぷんで、今度は彼女に質問した。
「エミュって何だ?」
「エミュレータのことです」
銅豆がタブレットを差し出した。その画面で、なんと俺が文奈の家で遊んだ『ドラゴンバスター』が動作している。
「ドラバス? なんだこれ?」
文奈宅ではでかい図体のモニターとパソコンとコントローラが必要だった。それなのに、今銅豆が誇示する小さなタブレットには、そのどれをも必要とせず単体でソフトが動作している。
銅豆がさもおかしげに嘲笑した。
「FM-7同好会なんてくだらないよ。最先端の技術さえあれば、このタブレットPCひとつでFM-7の全てをまかなえる」
俺は文奈を見た。
「そうなのか?」
彼女は悔しげに銅豆のタブレットを睨みつけていたが、不承不承うなずいた。
「はい。エミュレータはパソコン内でゲーム機や旧式パソコンをコピーして動かすソフトです。FM-7もそれに漏れず、BIOSやディスクイメージがあれば、すぐにWINパソコンで動かすことができます」
何だ、えらい便利だな。じゃあ別にFM-7や液晶モニターを学校に持ってくる必要もなく、銅豆のタブレットを使えばいいじゃないか。