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0007レトロPCガール

「お邪魔しました。そろそろ帰るよ」


「そうですね」


 本当はもう少し長居したかったが、文奈の両親が帰ってくると何となく気まずくなりそうだ。今日はお近づきになれただけで満足するとしよう。


 俺は笑顔の文奈に見送られながら根津邸を辞去した。彼女はこちらにすっかり気を許しているようだ。しかしそれは恋人同士の甘いものではなく、単にマイコン仲間としてのものである。それは少し――というか、かなり――残念ではあった。


 電車の中では、会社帰りのサラリーマンやアルバイターらが窮屈に吊り革に掴まっている。俺は教材が収められた重たい紙袋を――指が千切れそうだ――引っ提げ、すっかり暮れた窓外の風景に視線をさまよわせた。慌ただしかった一日が終わりに近づいている。


 今日は色々あった。そういえば兄貴も戸三井(とみい)高校入学式だったっけ。俺は家が近づくにつれ沈み込んでいくおのれを鼻で笑った。


 駅から徒歩5分、瀟洒(しょうしゃ)なマンション。土地といい建物といい一等であり、少なくとも経済的に裕福な人々が住んでいる。その3階に俺の家があった。鍵を差し込んで解錠し、ドアを開く。


「ただいま」


 誰にともなく言った。聞きなれた優しい声がキッチンの方から返ってくる。


「おかえり、敏之。そろそろ夕食だぞ」


 兄貴の(ゆう)だった。兄貴といっても、双子で数分早く俺より先に生まれてきただけで、年齢差があるわけではない。


「分かった。すぐ行く」


 俺はまず自室に戻り、鞄と紙袋を置いた。制服を脱ぎ捨て部屋着に着替える。鏡を見ると平凡極まりない自分が映っていた。そう、平凡。取り立てて美男でもなければ、かといって不細工でもない。もう少し兄貴のように整っていたら良かったんだけど。双子なのに差がついたのはいただけなかった。


 俺はキッチンに向かった。45歳の父・浩二郎(こうじろう)、44歳の母・直子(なおこ)、15歳の双子の兄・裕の三人が食卓についている。両親は俺を待つこともなく既に夕食を食べ始めていた。俺は空いている席に座った。「しょうがなく」晩飯が用意されている。ビーフシチューだった。


「敏之、一緒に食べよう」


 兄貴はそう言って、俺と一緒に「いただきます」を唱和する。親父は晩酌(ばんしゃく)が回ってきたのか、にこやかな笑顔で兄貴に話を振った。


「今日の入学式はどうだった。名門・戸三井高校ならさぞかし賑やかだったことだろう」


「ええ、素晴らしかったです。お二人にもぜひご覧になっていただきたかった。仕事があったことが悔やまれます。何なら明日も入学式をやってくださればいいのですが」


 親父とお袋がさも愉快そうに、心からの笑いを弾けさせた。


「そういうわけにもいかんだろう。どうだ、3年間やっていけそうか?」


 兄貴は大きく首肯した。自信に満ち溢れている。


「はい。文武両道で邁進まいしんしていきたいと思います」


 親父は上機嫌で酒をあける。


「お前を育てるのに俺たちは苦労したものだ。お前は我が河野家の未来だ。宝物だ。これからも精進し、俺たちの期待に応えるのだぞ。いいな」


「はい」


 お袋がいかにも嬉しそうに微笑んだ。


「まあ、たのもしいこと。裕、どこかの落ちこぼれみたいに河野家に恥をかかせるんじゃありませんよ」


 一瞬、氷河のような視線が俺の面上を通り過ぎた。俺は気付いてませんとばかり、黙って食事を続ける。


 耐えかねたように兄貴が俺の肩をどやしつけた。


「敏之も入学式だったんだよな。父さん、母さん、敏之の話を聞こうじゃないですか」


 それまで三人が作り上げてきたなごやかな空気が、一瞬にして崩れ去った。後に残ったのは気まずい沈黙。両親は顔を見合わせた。兄貴が声を励ます。


「なあ敏之、お前の高校はどうだったんだ、入学式」


 いいって。いらないって。


「どんな印象だった、藤之石高校。楽しそうだったか?」


 兄貴、頼む。頼むから無理に話を振らないでくれ。


「ねえ父さん、敏之の話も聞きましょう……」


「くだらん」


 親父は冷徹に兄貴の言葉を遮った。眉間に深い縦皺が寄っている。陽気な気分はどこへ消えたか、親父はまずそうにグラスを傾けた。


「こやつの話など聞きたくないわ。時間の無駄だ。ただでさえ偏差値の低い熱句高校にすら落ちて、底辺の高校に進学したような馬鹿の話などはな」


 食卓が凍りつくような冷たさ。俺は胸にナイフを打ち込まれたような痛みに耐えた。親父の言うことは正しくもあり間違ってもいる。熱句は戸三井ほどではないが、それなりに偏差値が高いのだ。そして藤之石もそんなに愚かな高校ではない。


 兄貴が俺をかばうべく居住まいを正した。いいんだよ兄貴、無駄なことはしないでくれ。だが彼は言った。


「そんな、そんな言い方はないじゃないですか」


 お袋が厳しく割り込んだ。


「裕。お父さんに口答えする気?」


 兄貴の言葉は枯渇した。俺はスプーンでスープをすくいながら、静寂に満ちた寒々しい世界を見て見ぬ振りをした。


 親父が酔ってしまえとばかり酒をあおる。


「前から言っておるだろう、裕。出来損ないのこやつにかける情けなどないわ。小さい頃からあれほど情熱を傾け、愛情を注いできたのに、こやつは勉強も体育もまるで平均点に及ばない。だから俺らは見捨てたのだ。……どうだ、お前、何か文句があるか」


 親父が俺を睨みつける。俺は返事をせず目をそらせて、冷めたスープを口へ運んだ。視界の端で、親父はパンを野獣のように食いちぎる。


「ふん、無視か。いいか裕、この欠陥品の弟にはなるなよ。常に反面教師として、話しかけたりせず、この家にいないものだと思って無視するのだ。それが我が河野家のためなのだ。いいな」


 親父は一家の大黒柱として、その尊大な教育方針をひけらかした。俺に対する一片の愛情も存在しない。


 俺は別に嘆き悲しんだりしなかった。3年前の中学受験失敗からこっち、両親は俺を諦めているのだ。そして俺は彼らの酷薄な態度を甘んじて受け止めていた。自分が落ちこぼれの屑であり、裕兄貴とは比較にならないほどの馬鹿であることは疑いがなかったからだ。


 お袋は兄貴を言葉の鞭で殴打した。


「ほら、しっかりしなさい、裕。かけがえのない私たちの裕。おかわりがいるならいつでも言って」


「……ありがとうございます」


 兄貴は両親と俺との仲を取り持つことを断念したらしく、以後は唯々諾々(いいだくだく)と指示に従った。俺がそこにいるにもかかわらず、誰もが俺を失念したかのようにお喋りを楽しむ。物理的な距離は近くても、精神的なそれは何万光年もの隔たりがあった。


「ごちそうさまでした」


 俺は皿を空にした。誰に指図されるまでもなく流しへと持っていく。兄と両親との会話は、邪魔者がいなくなってせいせいしたといわんばかりに、いよいよ盛り上がっていた。


 俺はにぎわいを背に自室へ引き上げると、後ろ手にドアを閉めた。教科書とプリントで膨れ上がった鞄には目もくれず、文奈の渡してくれた紙袋に手をつける。中身の本を数冊取り出し、改めて目を通した。苦笑が漏れる。


「こんなの覚えられんな」


 俺は独語すると、そのデータだらけの本を閉じた。だいたいFM-7本体もなしで覚えようというのが非効率的だ。五人集まって同好会ができたら、本体と書籍を学校に持ち込んで、大っぴらに学習できる。まずは文奈と共にあと三人募るしかない。俺はベッドに横たわると、開いた本を顔に被せ、四肢を開放的に伸ばした。何にしても疲れた……

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