0005レトロPCガール
真っ暗な液晶テレビの画面に、不意に白い英語の文字列が現れた。
「何か出てきたぞ」
彼女はベテランのマジシャンが最新の手品を披露したように声を上ずらせる。
「凄いでしょ、河野さん。動くんですよ。33年たった今でも」
33年か。確かに恐るべき寿命の長さだ。しかもこの起動の速さ。俺は感心しながら画面を見やった。1秒……5秒……15秒……30秒……。画面は最後の文字が点滅するだけで、何の変化もない。
「あのさ、根津さん……。これ、何も起きないんだけど」
文奈は微笑んでこちらを見返す。
「それはそうですよ。マイコンと呼ばれた国産パソコンの多くは、ROMにあるBASIC言語の立ち上げだけで起動プロセスは終了ですから。この機種もご多分に漏れず、これで終わりです。後は全て使用者に託されるんですよ」
俺はめまいを覚えて額を押さえた。綺麗な壁紙を背景に、アイコンの数々が出現して、マウスで基本操作を行なう――そんなパソコンを予想していたので、これは軽い衝撃だった。
「ソフトはないのか? これじゃ何もできないだろ」
「ソフトならありますよ。ドラバスやります?」
「ドラバス?」
彼女は俺の落胆に気付かず、元気よく身軽に椅子を離れた。
「座って待っててください」
ベッドの下の引き出しを引っ張り出す。大小様々な箱がぎゅうぎゅうに詰まっていた。どうやらゲームソフトらしい。俺は理解可能な情景に少し気を取り直した。
「根津さんってゲーマーなのか? 知らなかったな」
文奈は幸せそうな顔で中身を漁る。質問が嬉しかったようだ。
「8ビットFMシリーズに限ってはゲーマーですね、完全に。ええと、ドラバスドラバス……。あ、あった」
彼女が取り出したやや小さめの箱には『ドラゴンバスター』の題名が堂々と載っていた。『ドラバス』とはこの略だったらしい。電波新聞社とやらの商品のようだ。新聞社なのにゲームを出していたのか?
「さあさあ、椅子に座ってください、河野さん」
俺は言われるがままに座った。傍らについた文奈が箱を開け、中から何かを摘まみあげる。プラスチックの四角いカードのようなものだが、それにしてはずいぶん大きい。
「何だそれ?」
文奈は俺がさもおかしい冗談を言ったかのように噴き出した。
「何おっしゃってるんですか河野さん、3.5インチ2Dのフロッピーディスクじゃないですか」
ディスクという割には、CDやBDのように丸くない。どちらかというとMDに近いと言えるだろう。MDなんてもう時代遅れの代物だが。
彼女はおもむろにパソコンの前面のスロットにそれを差し込んだ。ディスクがすっぽり飲み込まれるさまは何か芸術的である。
リセットボタンを押した。すると画面が暗転し、パソコンから物が壊れるような異音がこぼれ出てきた。
「おいおい大丈夫なのか、このパソコン」
「フロッピーのような磁気ディスクは、シャッターを開閉するので音がするんです。まあ見ていてください。……ほら、ジョイパッド」
文奈に強引に小型のコントローラーを持たされる。十字キーが一つ、ボタンが2つ。やけにシンプルな構成だ。おまけに薄い。黒地にオレンジ色で『MSX』と書かれている。平べったいおにぎりのような外観だった。
「ほら、タイトル画面が出ましたよ!」
彼女は感極まったように画面を指差した。黒い背景にドラゴンバスターのロゴが光っている。俺はボタンを押してみた。するとまた画面は暗転。やがてファンファーレと共に、マップのようなものが映し出された。
「ほら、主人公のクロービスを操作して、好きなルートを移動してください」
俺は十字キーを押して、とりあえず手近なアイコンに移動させた。すると画面が変化し、大きな洞窟が映し出され、中央に緑色の服を着た剣士が現れた……
10分後、俺はゲームオーバーの画面を前に、コントローラーを静かに置いた。主人公を動かして剣を振り、敵を倒して、ドラゴンの待つ山を目指す。そんなファンタジックな内容だったが、案外面白かった。
文奈はこのゲームがお気に入りらしい。俺の感想を耳にして、きらきらと両目を輝かせた。まるでテストの点数を褒められた小学生だ。
「お爺様がFM77AVの最高傑作とまでおっしゃってましたからね。アーケード版に比較して秒間30枚――約2分の1の画面更新速度なんですが、欠点はそれだけです。これは、このソフトは、他機種ユーザーにも胸を張って自慢できる完成度なんですよ!」
「他機種ユーザー?」
彼女は次のソフトを出そうとしながら応じた。
「X1とかPC-8801mk2SRとかのユーザーですね。当時は凄いシェア争いが繰り広げられていたんですよ、パソコン業界は。携帯で言うiOSとAndroidの抗争、今のパソコンで言うWINとMacの抗争、みたいなものです」
そんなことがあったのか。それにしても、お爺様、か。
「両親が共働きなのは分かったけど……。そのお爺ちゃんは今どこにいるんだ? 1階か?」
文奈は手を止め、遠くを見るような目つきになった。
「根津英斗お爺様は亡くなりました。1年前、72歳の時、病気で」
俺は息を呑んだ。てっきり生きていて、この後対面の機会でもあるかと思っていたんだが。
「そうか。悪い」
「いいえ」
彼女は立ち上がって長いスカートの裾を舞わせた。こちらへ振り向いて、やや寂しそうに、でも透き通るような笑いを閃かせる。
「……我が家にはまだまだ色々なFM-7があるんです。この家の物置ではFM-77D2やFM-77AV2とかの、FM-7派生パソコンが数多く眠っているんです。そしてそれら全ての機種の開発に、私のお爺様は関わっていました」
俺は呆然とまばたきした。
「富士通とやらの社員だったのか?」
文奈は誇らしげに答える。懐かしそうに頬を綻ばせながら。
「はい。英斗お爺様は1982年、35歳の時に富士通でFM-7の開発に携わりました。そして1989年に退社し、以後はタクシードライバーの職で両親や私を養ってくれました」
いとおしそうに愛機を撫でる。祖父の忘れ形見なのだと、俺は気付いた。
「お爺様はそれはそれはFM8ビットパソコンシリーズ――FM-7シリーズを大切にしていました。熱血漢で野心家だったらしく、日本電気ことNECやシャープなどを相手にしてなお意気軒昂に、必ずFM-7を日本一のパソコンにしてみせる、との執念を燃やしていました。……少なくとも両親からはそう聞かされています」
でも、と続ける彼女の口調が不安定になる。言葉の端々にもろさが露呈した。
「でも、お爺様の、富士通のFM-7はシェア争いで後塵を拝したんです。X1やPC88にはとうとう追いつけませんでした。そしてFM-7は最終機種のFM77AV40SXを最後に、市場から姿を消したのです。あ、あれほど……」
文奈はぐっと何かをこらえるかのように拳を唇に当てた。感情の高ぶりを抑え切れぬ風だ。俺もつい引き込まれる。
「あれほどFM-7シリーズを愛し、そのために頑張ってきたのに……お爺様は競争の世界で敗者となってしまったのです。富士通を退社し、タクシードライバーに転身したのもそのショックのせいでした。もちろん私はその時代に生きていません。全ては両親の話とお爺様が戯れに聞かせてくださった昔話から推量しています。しかしそれだけでも、お爺様の日頃見せる笑顔の裏に、立ち直れないほどの敗北が隠されていたのだと思うと……」