0003レトロPCガール
「じゃあこれから毎日よろしく。明日からは日直の仕事だが、今日は俺が締める。起立。礼」
森田先生は担当の生徒たちが揃って頭を下げた姿に満足し、気楽そうに教室を後にした。たちまちかすかな喧騒が立ち昇る。早くも仲良くなった者たちが談笑しているのだ。しかしそれは過半を占めず、初日独特の疎外感をまとって帰宅の準備をする者も結構いた。
俺はまだ高い太陽特有の強い光線の中、席を立ち、思い切って文奈に話しかけた。
「根津さん、今朝の話の続きを聞きたいんですが……」
文奈はこちらを見上げると、花が咲いたような顔になった。
「河野さんですね。同じクラスだなんてお互い運がいいですね。今準備するから待っててください」
プリントを整理し、膝の上に載せた鞄に次々詰め込んでいく。今朝持っていた白紙の束を机に置き、その横にボールペンを添えた。
「はい、お待たせしました。本当はもっと多くの方が集まると思ってたのですが、河野さん一人だけですね。仕方ありません。適当に腰掛けてください」
俺は言われたとおりに手頃な椅子を見つけると、そこに腰掛けた。文奈は心持ち前傾姿勢になり、俺の目を純真な瞳で見つめてくる。はあ、可愛い。心の暖炉に火がついた気分だった。
俺はとりあえず、分かりやすい質問から始めることにした。
「とりあえず、まずは教えてくれ……ください」
「敬語じゃなくていいですよ」
「そうかい? なら……。根津さん、初っ端聞きたいのは、『エフエムセ部』って名前の意味は何だ? ってこと」
文奈はくすりと笑った。春風がその髪を優しく撫でる。優しい季節がたゆたっていた。
「簡単ですよ。富士通の名機『FM-7』から取ったんです。FM-7をこよなく愛し、その普及に全力を傾ける。そんな男らしい目標を掲げるなら、その部の名前もそれにふさわしいものでなければなりません。で、『エフエムセ部』と命名しました。いい名前でしょう?」
まあ、『FM-7』――エフエムセブン――と言っていたから、分かりきってたことではあるが。
「FM-7、FM-7と繰り返してるけど、そのFM-7って何なんだ? 新手のFMラジオ局か?」
彼女はこの問いかけにやや沈んだ表情を浮かべた。
「まずはそこから、ですかね、やっぱり」
気を取り直したように微笑む。
「FM-7は富士通が1982年11月8日に発売したマイコンです」
「マイコン?」
文奈は口を指で隠した。
「失礼しました。マイコンとは当時のパソコンの呼び方です。マイクロコンピュータ、だからマイコン。マイコンピュータとも言われますが」
やり直し、とばかり説明を再開する。市役所の事務員のような口調だった。
「FM-7は前身となる『FM-8』の後継機種です。FM-8はビジネスユーザー向けに開発されましたが、商業的には失敗しました。そこで翌年、1982年に、バブルメモリを廃止し8オクターブ3重和音のPSGを搭載した、『FM-7』を発売したのです。ホビーユーザー向けに舵を切り替えたわけですね。これは低価格も相まって、爆発的に売れました。単一モデルで22万台も普及したんです。こうして富士通はパソコン御三家に仲間入りできたのでした」
ううむ……。いまいち分からないが、ともかくFM-7は1982年当時メジャーだったらしい。何十年前の話だよ。俺の困惑に気付くことなく、彼女は説明を続行する。
「その後、富士通は3.5インチディスクドライブを搭載したFM-77、4096色発色可能なFM77AV、26万色表示可能なFM77AV40とマイナーチェンジしていき、最後にFM77AV40SXを出して、FM-7シリーズを完結させました。お分かりいただけましたか?」
完結ってことは、今はもう続きの機種は出ていないのか。それにしても……
「1982年って、38年も前じゃないか。その頃からパソコンはあったのか?」
「はい。今とは違って、パソコンの中に色んなソフトが入っていたわけではありませんでしたが」
いつの間にか教室はがらんとしていた。片隅で銅豆がイヤホンをつけてタブレットを操っている以外、俺と文奈しかいない。
「じゃあFM-7とやらもソフトは入っていないんだな」
「ええ、そうです。BASICという言語入力プログラムだけが立ち上がります。その代わり起動はほぼ一瞬で済みますけれどね。今のパソコンは起動に数分とかかかりますが、私から言わせれば、よく皆さんあんなに待っていられるな、という感じですね」
「そんな速いのか。じゃあFM-7は今でも通用するのか?」
彼女は唇を引き結んだ。若干悔しそうである。
「いいえ。残念ながら、起動以外の性能では今のパソコンの方が断然上です。神と虫けらみたいなものです」
全然駄目じゃん。俺はここまでの説明を整理した。
「ええと、つまり『エフエムセ部』ってのは、昔のパソコン『FM-7』を使ったり、他人に勧めたりする部活動ってことで合ってるか?」
文奈は肘を曲げ、両拳を固めて大きくうなずいた。その目が歓喜に輝く。
「そう、そう、そういうことです! さすが河野さん、飲み込みが速い!」
意外なところで褒められて、俺は悪い気はしなかった。鼻をこすって照れを抑える。出来のいい生徒を見る教師然とした彼女に、俺は尋ねた。
「でも、何でそんな古いパソコンにこだわるんだ? 何か理由でもあるのか?」
文奈はやや力なく、少しうつむく。赤い髪を微風にあおられ、勢いに乏しい声を出した。
「絆、ですよ」
「え?」
彼女は何かの憂いを断ち切るように、明るい目色で白紙とボールペンを差し出してきた。
「河野さん、一緒に『エフエムセ部』をやっていきましょう! ここに一筆お願いします!」
どうやらとにかく部員になってから、ということか。もとより、俺が好きな人の誘いを断る訳もなし。
「よし、やろう」
俺はそれらを受け取ると、机の上に広げた。後で悪用されないだろうな、と疑念を抱きつつ、でも彼女が可愛いから自然と名前を書いてしまった。将来悪徳業者にころりと騙されるであろうほど無警戒な自分が、ちょっと面白く感じられる。
「それにしても実際のところ、部活動としてやっていくにはもっと人を集めなくちゃならないんじゃないか? そこのところはどうなんだ? というか、今部員って俺と根津さんだけ?」
文奈の相貌に影が差した。若干声音が弱まる。
「今のところ、賛同者は私と河野さんの二人だけです」
しかしすぐに笑顔になり、白く輝く歯を見せた。
「でも見ていてください。必ずや部活動として成り立たせてみせます!」
「根津さん、分かってないだろ、部活の条件とか」
「はい?」
俺は傷一つない真新しい生徒手帳をポケットから取り出した。部活動の規約を読み上げる。
「部活動を設立するには10人以上の生徒と、担当する顧問、活動する部屋ないしグラウンドが必要で、さらに生徒会の承認と校長の判子が必要、だとさ」
彼女の顔が真っ青になった。
「じゅ、10人?」
「根津さんは朝、色んな生徒を部活動に勧誘した。それだけじゃなく、この1年A組でも募集をかけた。でもやってきたのは俺一人……」