0029レトロPCガール
「羨ましい?」
「ああ。あの二人に無視され、傷つけられるのは辛いだろうけど、でもその分放任主義というかさ。俺とは比べ物にならないほど自由じゃないか」
心底嘆いて溜め息を漏らす。
「いいなあ、俺も勉強なんかうっちゃって、思いっきり遊びたいなあ……なんて、いつも羨望の眼差しを向けていたよ。気付かなかったか?」
「気付くも何も……」
俺は頬を掻いた。
「俺は、兄貴が好きで勉強やってるのかと思っていたよ。それこそ羨ましかったさ。俺と違って心身ともに抜きん出て優秀だったじゃないか。俺は中学受験失敗からすっかり諦めていたよ。ああ、もうこの三人の世界からつまみ出されたんだな、ってうじうじしてな。それこそ馬鹿みたいに」
「なら……」
兄貴の瞳に真摯な光が宿る。
「なら、諦めずに頑張ればいい。それは何も勉強じゃなくていいんだ。あの二人をあっと言わせるような何かを積み上げてみせればいい。そのための自由が、敏之にはあるはずだ」
俺は口をつぐんだ。あの二人を驚かせる、だって? 俺にその発想はなかった。俺はこの先ずっと、両親との間に深い、転落したら死は免れないような深い溝を横たえられていくのだと思っていた。だが兄貴はそれを飛び越えろという。それこそ天地がひっくり返ってもできない話だ。
兄貴は頬に当てていたタオルを洗面器の水に浸した。
「そんなことできない、と思ってるだろ? 諦めてるだろ? ……それじゃ駄目だ。大事なのは腐らず立ち向かうことだ」
タオルを絞って水を切ると、再び赤黒く変色した頬にあてがう。
「俺は高校生活を楽しみたい。まだまだ諦めず、父さんや母さんに理解してもらうため、これから何回も話してみるつもりだ。敏之、お前も頑張れよ」
諦めずに頑張る、か。俺は中学受験失敗からの自分を振り返った。軽蔑と侮蔑のないまぜとなった視線を両親から浴びる日々。俺はその凍土で、火を起こそうと試みることさえ放棄してきたように思う。そのことに気付いた俺は、なぜ自分が根津文奈に一目惚れしたのか、その理由に気がついた。無意識的に、俺は大海で藁を探す彼女に、自分にないものを――『純然たる努力』というものを――見出していたのだ。
中学受験にも高校受験にも失敗した。だが、それは本当に、無垢に真摯に頑張った結果だったろうか? 俺は真実、全力を尽くしていただろうか?
月曜日も火曜日も、文奈は登校しなかった。2年C組の慧夢是先輩に聞くと、慧玖珠もこの二日間は休みを取っているらしい。「勝負」のために自宅で缶詰になっているだろうことは楽々推察できた。
なら八覇もそうかと思って1年B組を覗いてみると、彼女は普通に登校していた。
「何か用か、敏之」
「いや、別に」
「いよいよ明々後日の金曜日が決戦やな。FM-7同好会推しの敏之なら、きっと文奈の進捗具合も熟知しとるんやろ?」
俺は肩をすくめて首を振った。
「いいや、さっぱり分からん。というか、分かってても教えないよ」
「ふうん。そうか」
八覇は両腕を垂直に掲げて伸びをした。大きなあくびをし、目尻に涙を溜める。
「あたしも最近は勝負の準備で睡眠不足や。中途半端にやったら失礼やし」
大儀そうに肩をひねった。関節からポキポキいう音が鳴る。
「ま、楽しみにしとるからの。後の二人には頑張れって言うといてや」
「余裕だな」
八覇は歯を剥き出しにした。いかにも楽しげだ。
「そうでもないで。日々試行錯誤の連続や。偉大な88の最高機種で戦うんやから、半端なことはできんしの」
俺はその言い草に思わず失笑した。
「おいおい、話が大きくなってるぞ。ただの同好会の主導権を懸けた勝負だろ? その言い方じゃ持ち機種の全ユーザー代表みたいじゃないか」
八覇は笑わなかった。すっと表情を固め、生真面目にうなずく。真剣な輝きがその大きな眼に宿っていた。
「そうや。持ち機種の全ユーザー代表や。多分あたしだけでなく、文奈や慧玖珠も同じ心境やろうな」
俺は彼女の曇りなき瞳に確かな決意を見て取った。茶化す心が引いていく。知らず喉が渇いてきた。
「……文奈も慧玖珠も、それだけ懸けていると?」
「そうや。当たり前やろ。8ビットマイコン戦国時代では、あたしのPC-88が勝利した。その悔しさは文奈も慧玖珠も恨み骨髄に徹しているはずや。二人とも、それだけ自分の愛機種にのめり込んでいると見た」
凄愴な顔で口端を吊り上げる。そこには決意を固めたものだけが獲得出来る色彩がうごめいていた。
「だから、全力で仕掛けてくる。意地でも負けられない。今度こそ、8ビットの世界で勝利を収めようとする。多分あの二人も、もちろんあたしも、それだけの覚悟を持っているはずや。だからこそ楽しいんやないか」
俺を指差し、ここでようやくにっこり微笑んだ。
「ちゅうわけで、敏之には見届けてもらうからな。あたしらの本気も本気、くそ真面目な戦いの結末を……」
俺は知らず、鳥肌を立てていた。
俺はゴールデンウィークで学校が休みとなった水曜日も、木曜日も、ただ待つしかできなかった。告白してしまった手前、文奈にメールや電話をする気にはなれなかった。彼女は多分今も、FM-7でデモンストレーションを作成している最中のはずだ。FM-7が大事だという文奈の奮闘を、これ以上邪魔することはためらわれた。
そんなとき、親友の早坂浩次から電話がかかってきた。俺は家の自室で学校の予習に励んでいたところだ。ちょうど良い気休めとばかり、しばらく彼の報告に付き合うことにした。
「おい河野、大変だ。俺、真理奈先輩と付き合うことになった」
マジかよ。確かにあの土曜日のダブルデートでは、仲睦まじく二人で話し込んでいたっけ。
「おめでとう。参考にしたいと言うか何と言うか、どっちから告白したんだ?」
「俺からだ」
ほう、早坂らしからぬ行動だ。
「真理奈先輩のこと、好きじゃないんじゃなかったのか?」
膝を叩いたような音が聞こえてきた。我が意を得たり、といった具合だ。
「それなんだけどな。彼女の映画解説が絶妙過ぎて、俺はついついそれにはまっちまったんだ。それでレンタルDVDショップへ通うようになってな。映画を片っ端から見まくり出した。およそ真理奈先輩に知らない映画はないみたいで、どんな作品を借りてきても必ず解説してくれるんだ。『あの車の意味は……』とか『この作品は今のアメリカの窮状を訴えている……』とか『邦画らしい深みある人物描写が……』とか」
凄えな、真理奈先輩。
「そうなると毎日俺の教室に通ってくる彼女が愛おしくなってきてな。日々の楽しみになっちまった。そこまでしてくれる女子って、今後巡り合うかどうか分かんないだろ」
まあそうだな。
「最近じゃサッカー部の終わりを見計らって、LINEで『頑張ったね』とか一言くれるし。それがストーカーチックに大量にならないのは、自分で自分の心を抑えているからだ、と分かったとき、俺の中で急激に真理奈先輩が大きくなってきたんだ。これには参ったね」
「それで、自分から告白を?」