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0028レトロPCガール

 マンション3階の我が家へ到着し、ドアに鍵を差し込む。開錠し、中に入った。途端に裕兄貴の怒声が響き渡った。


「いい加減にしろ!」


 リビングからだ。俺は無視するべきかどうか迷ったが、文奈に告白して気が大きくなっていたらしく、気が付けばあえて踏み込んでいた。


 ソファに両親と兄貴が座っていた。いや、兄貴はちょうど立ち上がったところだ。外出用の服で、そういえば兄貴は休みの日は塾に通っていたのだと思い出した。


「俺はあなたたちの玩具じゃない。なんでテストの点が少し落ちたぐらいで説教されなきゃならないんだ?」


 常日頃、うやうやしく両親に接している兄貴が、今夜はぶち切れていた。言葉使いまで乱暴になっている。感情をセーブできていないようだった。


 お袋はおろおろしている。あまり見たくない姿だった。


「裕、裕。そんなに怒らないで。私たちはいつもあなたのためを思っているのよ」


 親父は吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。


「どうした、裕。いつものお前なら黙って俺の言うことに唯々諾々(いいだくだく)と従うくせに、どうして今日はそう反抗的なんだ?」


 そこで親父は、戸口に立っている俺に気が付いた。まるで犬を追い払うかのように手を振る。


「おい、お前。見世物じゃないぞ。引っ込んでいろ」


「来るんだ、敏之。構わないから」


 ほぼ同時に真逆の言葉を投げかけられ、俺はどうしたものか迷った。しかしそれも一瞬で、俺はリビングに入った。親父が渋面になる。


「おい裕、どういう風の吹き回しだ。馬鹿がうつるぞ」


 酷い言いぐさだ。兄貴が俺に、自分の隣に座るよう身振りで示したが、さすがにそれは遠慮した。兄貴はこだわらず、改めて両親に向き直る。


「とにかく。俺は成績、成績の生活にうんざりしてるんだ」


 したたるような毒を含む声だった。


「小さい頃から塾だ試験だ、毎日毎日勉強をやらされて……。少しでも点が悪いと叱りつけられた。本当に毎日毎日だ! 気の休まる日は1日だってありはしなかった」


 普段、温厚篤実(おんこうとくじつ)な人柄の兄貴が、今夜はまるで人が違ったように怒り狂っている。それも、この家の絶対的な支配者である親父に向かって。


「それでも俺は勉学に励んだ。なぜなら、敏之のように『見捨てられる』ことが恐ろしかったからだ。中学試験に失敗したというだけで、敏之はまるでこの家の家族じゃなかったかのように、あんたらから見捨てられた。成功した俺を心から称え、ミスした敏之を心から無視した。俺はそれに恐怖した。あんたらを失望させることのないよう、俺は言われたことはきちんと守り、常に優等生であろうとした。来る日も来る日も、血反吐を吐くような思いで机に向かった。そして超難関の戸三井高校を受験し、見事合格した……」


 親父がなだめた。


「そう、お前は立派に成し遂げたのだ。俺と母さんの期待を裏切らず、そこの馬鹿のようなへまはせず、有名私立校に入学した。お前は成功したのだ。我々の教育方針は間違ってはいなかったのだ――」


「いつまでそんなことを言うつもりだ!」


 兄貴が腹の底から怒鳴った。堤防が決壊したような激しさだ。


「俺はあんたらの悲願を叶え、戸三井高校に入学した。俺はやった、やったんだ。入学式では誇りに満ちて生徒の列に加わった。これでもう俺の役目は終わった。これからは勉強にがんじがらめにされることなく、楽しい3年間を満喫できる――と、俺はそう思っていたんだ」


 不意に口を閉ざした。こうべを垂れて肩を震わせる。ひび割れた声を出した。


「なのに、なのに……! 戸三井高校に合格しても、まだあんたらは物足りないのか? 結局何も変わらなかった。あんたらは今度は大学受験に頑張れ、という。目指すは有名大学だ、そのためには塾だ勉強だ。それでテストの点が落ちたら、一転非難轟々(ひなんごうごう)だ――もう一度聞く、まだあんたらは物足りないのか?」


 張り詰めた空気はガラス細工のように、彼の言葉で滅茶苦茶に壊されていく。兄貴の口調が悲哀に濡れた。その目に涙さえ浮かべている。


「俺も他の同級生たちと同じように、部活に恋に、楽しく遊びたいんだ。それを一切断ち切り、自分たちの願望のために俺を操る。そんなことが許されるのか?」


 お袋が腰を浮かしてそっと兄貴に近寄り、その腕に頬ずりした。


「まあ、可哀想な裕。私の裕。今はただ迷って、私たちを信じられないだけなのよ。私たちの言うことをよくお聞きなさい。戸三井高校に合格したように、今度は東大にだって合格できるのよ、私たちのすすめに従ったなら。あと3年間、じっと我慢して頑張りなさい。ねえ、裕……」


 兄貴はお袋を振り払った。お袋が意外そうな、傷ついた顔をして後ずさる。


「いい加減にしろ、と何度言ったら分かる。俺はもう我慢する気も頑張る気もないんだ。テストの得点が落ちたならいっそいい機会だ。俺は二度と塾になんか行かないし、部活だって好きにやらせてもらう」


 親父が立ち上がる。握り拳を固め、顔面を憤怒に紅潮させていた。


「ふざけるな。俺たちの言うことが聞けないんだったら、お前もそこの馬鹿と同じ……」


「敏之を馬鹿呼ばわりするな!」


 兄貴が俺のために怒号した。


「あんたらの息子だろう! いつもいつもむごい目に遭わせて……。恥を知れ、恥を!」


「貴様、誰に向かって口を利いている!」


 次の瞬間、鈍い音が弾けた。親父の拳が兄貴のほおげたを殴り飛ばしたのだ。


「……っ!」


 空手の有段者である親父の一撃だ。兄貴は立っていられずその場にうずくまった。声を出さないのは痛くなかったからではなく、逆に痛過ぎてうめき声さえ吐き出せなかったかららしい。


 親父が肩で息をしている。ふと目を見開いた。自分の凶行に今ようやく気が付いた、といった感じだ。ぶち込んだ正拳をもう一方の手で押さえた。


「おい、そこの!」


 親父が俺に顎をしゃくる。いまいましそうだった。


「部屋に行って手当てしてやれ」


 兄貴はほっぺたを押さえていた。鮮血が口の端から蛇のように下へと這っている。口の中を切ったらしかった。俺は彼を助け起こすと、無言でリビングから出て行った。




 兄貴は俺の差し出した冷たいタオルを受け取ると、負傷箇所にあてがって呻吟した。


「いてて……」


 ここは俺の部屋だ。兄貴は絨毯にあぐらをかいて、いまだ治まらぬ興奮にか細く震えていた。


「酷い目に遭ったな、兄貴」


「まあね。あれだけ言えば、これぐらいの怪我はさせられて当然かもしれない。それにしても親父は酷いな。俺の甘いマスクが台無しだよ」


「軽口を叩けるようなら大丈夫だ」


 俺たち二人は含み笑いし、その後盛大に笑った。


「それにしても兄貴、学校で何かあったのか? 今日は特別反発していたようだけど……。成績が悪くてあの二人に怒られるのって、そんな珍しいことでもないだろうに」


「別に何かあったわけじゃない」


 兄貴は天井を見上げた。


「ただ部活に入らず、彼女も作らず、このまま両親のために机にかじりついて……まるで操り人形みたいに生きていかなくちゃいけないのかな、そう思ってさ。そうしたら沸々(ふつふつ)と怒りがこみ上げてきたんだよ。俺はもう一人前の人間なんだ。好き勝手とはいかないまでも、したいことをして何が悪いんだ、ってね」


 俺に顔を向ける。しみじみと目を細めた。


「実は、前から(うらや)ましかったんだ、敏之のことが」


 それは意外な本音だった。俺は兄貴を凝視し、馬鹿みたいに繰り返した。

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