0026レトロPCガール
「くぅ……」
そちらを見れば、事態は一目瞭然だった。文奈は寝ていた。これ以上ないほど幸せそうな顔で、椅子に頭をもたげ、気持ちよさそうに睡眠をむさぼっていたのだ。
「根津さん……」
俺は声をかけようとしてやめた。文奈は疲れているのだ。そっとしておいてやろう。それに文奈のあどけない寝顔は、劇場の暗い世界の中で、そこだけ花が咲いたように綺麗だった。俺は映画と文奈と、交互に視線をめぐらしながら、特殊かつ素晴らしいこの環境を一人で楽しんだ。
一方の早坂はというと、真理奈先輩に手を握られていた。先輩、文字通り手が早い。
「本当にすみませんでした」
文奈は落胆していた。映画が終わって起こしてやると、彼女は時間をかけて状況を理解し、寝落ちという自分の失態を悔いたのだった。
「せっかく誘っていただいたのに」
「いいよ、いいよ。勝負前の忙しい時期に声をかけた俺が悪かったんだ」
先行する早坂は、今観終えた映画の論評を真理奈先輩にぶつけていた。結構熱くなっている。真理奈先輩もさすがに映画通なところを見せて、監督の過去作と比較しながら重層的な感想を述べていた。
「ああ、だからあのシーンは本来なら観客が盛り上がらなきゃいけなかったんですね」
「そうそう。あんまり静かだから、みんな寝ているのかと思ったわ。誰かさんみたいに、ね」
意地悪な目を文奈に向けて苦笑する。文奈は赤面して小さくなった。
デパートのレストランフロアで昼食を取ることにして、俺たちは手頃な店に入った。周りは家族連れが多い。室内の明かりは若干意図的に暗めに設定してあるようだ。壁は擬似レンガ造りである。
メニューを選んでウエイターに注文した。俺と文奈は早坂と真理奈先輩に、テーブルを挟んで向かい合っている状況だ。文奈はコップの水を半分ほど飲んだ。
「みなさん、この後どうします? 私、時間的には全然大丈夫ですが」
真理奈先輩が腕時計を確かめる。
「そうね、みんなでカラオケはどう? 私の歌唱力を披露したいわ」
へえ、彼女は美声なのか。俺はお手拭きで両手を拭いながら追従した。
「そうですね、俺も聴きたいです。最新の曲には疎いですが」
早坂が腕組みして首を縦に振る。参加する気満々らしい。俺はパートナーに尋ねた。
「根津さんはどうする? 本当に帰らなくて問題ないの?」
文奈が眉間に皺を寄せる。
「河野さん、どういう意味ですか」
俺は苦笑いを浮かべた。
「だって、根津さんには勝負があるから。あまり俺やみんなのために時間を割いてもらうわけにはいかないさ。映画館で寝ちまうほど疲れてるんだろ?」
「本当にすみませんでした」
彼女は自嘲的に繰り返す。
「でも、私は大丈夫です。それに映画で失敗した分はお返ししないと気がすみません。行きましょう、どこかへ。みなさんにも今日は楽しかったと思ってもらうために」
「無理しないでいいよ」
「いえ、無理はしていません。遠慮なさらずに」
なかなか意固地だ。俺は思わず素で笑ってしまった。
そうこうしているうちにハンバーグ定食が届いた。俺は割り箸を裂きながら言った。
「じゃ、カラオケに4人で! 決まりってことで」
「はい!」
文奈は喜色満面に賛同した。
その後、俺たちは映画談義に花を咲かせながら、遅い昼食を満喫した。
デパートの外にあるカラオケ屋は、時間が時間だけに空いていた。学生料金適用が嬉しい。
それから4人で散々歌った。みんなは実に気楽にマイクを取り合った。FM-7同好会設立運動当初は、毎日放課後に文奈の家で指導を受けてきたのだ。俺は彼女が身近にいる幸福にむしろ落ち着いて、エグザイルやポルノグラフィティを歌った。
「河野さん、上手いというより独特な雰囲気がありますね」
「そうね、味があるわね」
文奈と真理奈先輩はそう言って笑った。遠回しに下手だと指摘されているような気がしたが、俺はまるでめげなかった。早坂が微苦笑する。
「そういうとこだぞ、河野」
しかしそうした彼も真理奈先輩にデュエット曲をせがまれて困惑したりした。
文奈も歌に関しては大したことなく、ただ80年代パソコン好きの影響からか、古い曲――135やレベッカなど――を熱唱していた。
コンピュータの採点では全員低得点で、現代の評価技術の確かさに4人で大笑いした。
「そういえば巷では、マイコンをカラオケ店に持ち込んで爆音で鳴らす、というおじさんがたもおられるようですね。私たちも、今度はFM77AV40EXを持ち込んで、『イース』や『JESUS』のBGMを大音量で聴いてみたいですね」
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。やがて夕方になり、俺たちは店を出た。
「今日は面白かったわ」
真理奈先輩が暮れなずむ景色の中、素朴に感想を口にした。早坂の袖をつまむ。
「でも今度は二人きりで遊びたいなあ。ね、浩次君」
「そうですね」
早坂も満更でもない。案外このカップル、成立するかもしれない。俺は微笑ましくその光景を眺めやった。
駅で早坂と真理奈先輩とはお別れだ。俺と文奈はまたの再会を誓うと、電車に乗った彼らを見送った。
俺たちも数分後、帰りの電車に乗る。椅子には座れず立ちっぱなしだ。珍しく文奈はFM-7のことを語らず、映画の失態を再び嘆いてみせたり、忘れていて歌えなかった曲を数え上げたりしていた。俺が彼女の話に相槌を打っていたところ、不意に肩を叩かれる。
「奇遇ですね……、お二人さん……」
振り返ってみると、なんとそこには慧夢是先輩が野暮ったい私服で立っていた。俺たちは揺れる電車の中、揃って頭を下げる。
「本当に奇遇ですね、中川先輩」
文奈が嬉しそうに声を弾ませる。しかし敵情視察もすかさず行なった。
「あの、中川先輩……慧玖珠さんはご一緒じゃないんですか?」
「慧玖珠なら家にこもって……、キーボードを叩いていますよ……」
頬に平手を添え、斜め上の宙に思考を投げかける。
「よっぽど……、負けたくないんでしょうね……」
文奈の両目に炎が燃え盛った。先ほどまでの映画、食事、カラオケという楽しみの余韻が、一辺に吹き飛んだらしかった。
「私も負けてられません。頑張らないと」
慧夢是先輩はにこにこと人のいい笑顔で問いかけた。
「お二人はデートの帰りですか……?」
俺は頭を掻いた。照れるなあ。
「いやあ、その……」
「いえ、ただ映画を観に行っただけですよ。あと昼食を摂って、カラオケで数時間歌っただけです。しかも4人で」
文奈が淀みなくすらすら口にした。そうですか……。俺はしょんぼりしてくる。
しかし、慧夢是先輩はさとすように言った。
「でも男の人と女の人が2人ずつカップルだったんでしょう……? それでそういうことをしたなら……、それは立派なデートですよ……」
「えっ……」
文奈は数秒、彫像のように動かなかった。いや、動けなくなったといった方が正しい。
「私と河野さんが、デート……?」
紡ぎ出される声は、この時張りを失った。
「河野さん……」
助け舟を求めるように、文奈が俺を見上げる。俺は何と言っていいか分からず、ただ黙って見返した。それが答えだと悟ったのだろう、文奈は急に赤くなり、うつむいてしまった。