0023レトロPCガール
決戦の日取りが決まってから、文奈は目に見えて興奮していた。FM-7を愛する心が沸き立ち、抑えきれないといわんばかりだ。授業中、休み時間問わず、神経質にノートへ計算式を書き込んだり、遠くを見るような目で小声で何やらつぶやいていた。
昼休みも上の空だった。持参した弁当に箸をつけず、物思いにふけり、俺の問いかけにも返事ははかばかしくなかった。
「根津さん、聞いてる?」
俺が定期的にそう質問すると、返って来る言葉は決まって、
「すみません、聞いてませんでした!」
だった。
文奈は明らかに浮き足立っていた。あと10日余りで、FM-7シリーズ最高のデモンストレーションプログラムを作らねばならないのだ――X1やPC88に勝つために。文奈はそのことばかり念じていて、他人の声は耳に入らないようだった。
放課後、文奈の家でFM-7シリーズの勉強をすることも、最近は絶えて久しかった。文奈が「デモ制作があるので、すみませんが……」と、俺の訪問を断わっていたからだ。
慧玖珠の様子はどうか。俺は慧夢是先輩に尋ねた。彼女は人差し指をほっぺたに当てて記憶を辿った。
「そうですね……学校から帰ったら部屋着に着替えて……、後はX1turboZ3に向かってデモのプログラミングに没頭しています……。1分1秒でも惜しい……、そんな感じです……」
状況は文奈と変わらないらしい。啖呵を切った手前、後には引けないのだろう。
では八覇はどうか。
「あたしは8ビット最強のPC-8801MCやし。他の二人と比べて大きなアドバンテージがあるしな。余裕たっぷりやで」
こちらは自信に満ちている。御三家の筆頭とはかくも悠然としていられるものなのか。
俺は当然ながら、三つ巴の戦いにも変わらず文奈を応援した。何とか『FM-7同好会』を立ち上げさせてやりたい。でも俺には相変わらずマイコンはちんぷんかんぷんで、手助け出来ることは何もなかった。
残り1週間となった金曜日の帰り道。桜がすっかり散って、木々は緑に茂り始めた。俺と文奈は言葉少なく、駅までの共通の通学路を並んで歩いていた。同じ電車通学の生徒たちが三々五々下校している。
俺は文奈に尋ねてみた。
「どこまで出来上がったんだ、デモの方は」
彼女は作業の方が一段落したのか、やや元気を取り戻していた。
「私のFM77AV40EXだと26万色の画像を表示できるんです。ただ読み込みの長さと使用容量の関係で、今はそれより少ない色数で絵を描いているところですね」
何しろ時間がありません、と彼女は乾いた声で漏らした。
「8ビットパソコンの処理速度では、リアルタイムに描ける絵にも限界があります。多少手の込んだCGというだけで、マシン語を使っても1枚描くのに何分もかかったりします。ですから、そのような絵を使う場合は、あらかじめ計算して出力した絵をディスクに保存し、それをタイミングよく読み込んで表示したほうが得策です。エミュは禁止ですから、今は複数のFM77AVを起動させて事前計算を実行しているところです。ブレーカーが落ちなければ良いのですが」
よく分からないが、FM-7を何台も、今現在も自宅で起動し続けているということか。大掛かりになってきたな。
「そんなに何時間もかかるものなのか、CGって」
「何時間じゃありません。何日、です」
時単位じゃなくて日単位? 気の遠くなるような遅さだ。
「それでCGは何枚出来上がるんだ?」
「え? 1枚ですよ」
今の優れたテレビゲームのCGが秒間60枚なのに、何日単位でたった1枚か……。それでふと思い当たった。
「ひょっとして、メインで使ってるFM77AV40EXも計算中なのか?」
文奈はさも自然にうなずいた。
「はい。今はどの77AVもCG計算を実行中です」
「じゃあ、しばらく暇なんだな」
「はい。明日の晩からCGが順に出来上がってきます」
それを聞いて俺は立ち止まった。つられて文奈も足を揃え、首を傾げる。
「河野さん?」
彼女は可愛かった。一目惚れした初対面の時も、FM-7のことを語る今も、変わらず可愛い。あまりのFM-7愛に引きかけた時もあったが、俺が彼女を好きである気持ちはぶれたことがない。その気持ちは、今度の勝負に全力を傾けている彼女のひたむきな姿勢を見て、なお強くなっていた。
文奈は俺の真面目な顔に首を傾げる。俺は心臓をばくばくさせながら口を開いた。
「なあ根津さん」
「はい」
「明日、二人でどこか遊びにいかないか?」
「えっ」
通り過ぎる春風が彼女の髪をなぶっていく。文奈は無造作に答えた。
「いいですよ。行きましょう。気晴らしも必要ですしね」
にっこり微笑む。俺は落胆を隠せなかった。明らかに文奈はデートという意識が希薄だった。友達と街へ繰り出す、ただその友達が男であっただけ。そんなノリであることが露骨に示されていたからだ。
でもいいさ。文奈と遊びに行けるなら。俺は内心がっかりしながら、それでも一応の進展ではあるとして自分を慰めた。
文奈はスマホを指で叩いている。メモ機能を使っているようだ。
「明日の何時にどこへ集合ですか? というか、どちらへ行きます?」
俺は考え、無難に「映画を観よう」と答えた。
「ただいま」
帰宅するとまた現実に打ちのめされる。お袋は俺の挨拶に返事せず、まるで汚いものでも飛び込んできたとばかり、これ見よがしに耳をかっぽじった。彼女が作っている夕食はカレーライスのようだが、きっと俺の分は今日も少ないのだろう。
俺は自室に入ると、後ろ手にドアを閉めた。毒ガスの侵入を防いだような気がして、害された気分が少し和らぐ。スマホを取り出して、明日観る映画を早速調査し始めた。ふうん、近くの劇場ではアクション映画にディズニーのCGアニメ、恋愛ものにパニックものがかかるのか。CGものは文奈がデモ対決を思い出すかもしれないから外すとして、やっぱりアクション映画かな。恋愛ものは退屈そうだし。
開演時刻と料金をチェックする。俺はなけなしの小遣い――実家の祖父が定期的にくれるものだ――を確認し、十分間に合うことにほっと一息ついた。一応貯金箱も割っておこう。持って行くお金は多くて困ることもないだろうし。
と、そこでスマホが鳴り響いた。親友の早坂浩次からだ。俺は名前を確認すると通話ボタンを押し、スマホを耳に当てた。
「よう、どうした早坂」
電話に出ると、早坂が困り果てた声で喋りかけてくる。
「河野……聞いてくれ。困ったことが起きた」
嬉しそうな、辛そうな、そんなよく分からない口調だ。俺は相槌を打って続きを待った。
「実は今日、高校の女子から告白されちまったんだ」
ほう。それはそれは喜ばしいことだ。
「良かったじゃないか。早坂の顔と性格なら、そんなこともありうるだろうよ。親友として祝福したいね、心から」
だが早坂の返事は意表をついた。
「祝福されてる場合じゃない。相手は3年の先輩なんだ。3年だぞ、3年」
俺はびっくり仰天した。2歳年上か。
「まだ入学したてのお前に、3年の女子が? 一体全体どういう風の吹き回しだ?」