0002レトロPCガール
俺は自分のクラス、1年A組に収まった。窓からさんさんと陽光が降り注ぎ、室内は適度に暖かい。黒板に張られた大きな紙に着席順が記載されていて、A組の面々はそれで自分の番号を確認してから席に着く。席順は出席番号順で、改めて抽選で決める前の仮のものだった。
「あれ?」
俺はそこに『根津文奈』の名前を見出して目を丸くした。席の位置を確認して振り向く。そこにはあの麗しき文奈が行儀よく座っていた。
同じクラスだったんだ。
俺はこみ上がる喜びに叫びだしたい気分だった。本当、どうしたんだろう。これは神様が仲良くしろと命じているんじゃないか。自己中心的ながら、漠然とそんな気がした。
文奈は知り合いなのか、別の女生徒と話している。声をかけたい発作をかろうじてこらえ、俺は自分の席に着いた。
新入学の妙な緊張をはらんだ静けさが、室内一杯に充満している。そんな中、前方の戸が開いて、50がらみのグレーの背広を着た男が入室してきた。黒縁眼鏡でオールバック。色黒で、身長は180センチぐらいか。潤滑油の足りないロボットのような足取りで、老いを感じさせる。
男は教壇に立つと、「着席しろ」と短く命じた。前歯が一本抜けていて、厳しい声と眼差しに不釣合いだ。全員が席に着くと、ぐるりと生徒たちを見渡した。
「俺はこの1年A組の担任となった森田絵夢士だ。国語が専門だ。ようこそ、藤之石高校へ。これから3年間、君たちはこの高校で仲間たちと過ごす。勉強に部活に、大いに励んでくれ。……おい、そこ」
森田先生は話を中断し、窓際の席に座っている生徒を睨みつけた。その生徒は鳥の巣のような奇怪な茶髪で、眠そうな目をしている美男子だった。筋の通った鼻に白い肌が映えている。彼は教師の話などそっちのけで、タブレット端末をいじくって遊んでいた。
森田先生が一喝した。
「先生の話に耳を傾けず、コンピュータ遊びとは何事だ! こちらを向け」
「はい」
さすがに少年はタブレットを置くと、森田先生の側へ気だるげなまなこを合わせた。それに着火されたか、森田先生はいよいよ厳しい声音となった。
「お前はこの出席簿によると、宇院銅豆という名前で間違いないな」
「はい」
「新入学早々怠惰で自堕落な態度とはどういう了見だ。お前は先生の話よりコンピュータが大事か」
「いいえ。すみません」
字面だけ見れば謝っているように聞こえるが、銅豆の返事にはどこか不遜なものがあり、ぶっきらぼうだった。森田先生はますます苛立ちを募らせる。
「お前、馬鹿にしているのか」
「してません」
「俺の話は退屈か」
「いえ、そんなことありません」
森田先生は怒りの成分を溜め息として吐き出すと、銅豆との不毛な会話を打ち切った。
「まあいい。いずれじっくり話し合おう。今は無駄な時間を過ごすわけにもいかないからな」
気を取り直したように再び正面を向く。作りきれない微笑が痛々しい。
「まずは親睦を深めるために自己紹介だ。番号順に、名前と好きなもの、高校3年間の目標を述べよ。まずは窓際の最前列、お前からだ」
生徒たちは一人ずつ、思い思いに自分という存在を宣言した。みな当たり障りのない喋りであったのは、入学早々赤っ恥をかきたくないからだろう。そうこうしているうち、銅豆の番が来た。
「宇院銅豆。好きなものはハッキング。目標は政府中枢への侵入と攻撃。以上です」
教室中が凍りつき、この異様な生徒を何度も見返す。そんな複数の視線の槍に貫かれながら、しかし銅豆はどこ吹く風とばかりに平然と、やおら着席した。
更に自己紹介は進み、俺の番になった。軽い緊張に身が引き締まる。
「河野敏之です。好きなものはコンソメ味のポテトチップス。高校3年間の目標は、せめて無難に何事もなく、健康で完走することです」
どうでもいい生徒のどうでもいい自己紹介だ。たぶん3分後にはみな忘れているだろう。俺としてはそれでよかった。こんな些事に一喜一憂しても仕方がない。
そんなことより根津文奈だ。彼女はどんな自己紹介をするのだろう? 俺の興味はそこにあった。好きなものは? 目標は? 彼女の細事をつぶさに知りたくてしょうがなかった。ああ、わくわくする!
「次、根津文奈」
いよいよだ。文奈が椅子を膝裏で押し出しながら立ち上がった。微笑している。はきはきと切れの良い台詞を奏でた。
「私は根津文奈と申します。好きなものは、今でも愛用しているFM77AV40EXです。あ、これは正確には『富士通マイクロセブンセブンオーディオ&ビジュアルフォーティーエクセレント』といいます。全8ビットパソコンの頂点に立つ機種ですね」
とちることなくまくし立てると、自信満々の瞳で周囲を見渡す。
「目標は――これは生涯の野望ですが――日本全国の家庭に一戸一台、FM-7を普及させることです。今の腐ったパソコン文化を蹴散らし、富士通とFM-7の威光をあまねく行き渡らせる。これは私の崇高なる使命なのです。――そうそう、今現在『エフエムセ部』を立ち上げようとしています。興味のある方、ぜひ入部したいという方は、放課後私のところまで来てください。……以上です」
俺は石像と化していた。同様に、教室中が呆気に取られている。森田先生は意味が分からなかったらしく、何も口にのぼせなかった。文奈が涼しい顔で着席する。
俺は開けっ放しだった口を閉じた。何だ、今の自己紹介。FM-7――エフエムセブン? 何それ美味しいの?
「次、野沢みく」
森田先生はスルーすることに決め込んだらしい。次の生徒がおどおどと立ち上がる。
俺の心の春風は、この時少し冷え込んだような気がした。というか、ちょっと引いた。
その後、体育館で入学式があり、校長や教師が生徒たちやその保護者らを熱っぽく取り仕切った。歓迎の挨拶や式典が一通り済むと、後半は上級生による部活の宣伝と相成った。4分弱の持ち時間で、自分たちの活動の魅力を伝えるのはなかなか難儀らしい。時間内に収まらず中途半端に撤収し――しかし俺には、それが計算ずくの行動にも見えたが――新1年生の笑いを誘うところもあった。
文奈の『エフエムセ部』の紹介はなかった。というより、入学式を迎えたばかりの新入生が部活動など持てるわけもない。やはりあれはまだ存在していないと見るのが妥当だった。
根津文奈。正直彼女の自己紹介はよく分からなかった。今はくよくよ考えず、放課後に話を聞いてみよう。
式次第が滞りなく済むと、各先生の指示のもと、学生たちは各教室に粛々と戻っていった。俺はその流れに抗うことなく廊下を歩いていく。開いた窓から桜の花びらが漂い降りてきて、見知らぬ生徒の制服の肩に弾かれた。
藤之石高校の最初の一日は、席順変更で締めくくられた。まずくじ引きで決め、そののち背の高低、視力の良し悪しで微調整する。俺は真ん中の席に決まった。先生から当てられやすい位置で、はっきり言って最悪だった。文奈は全席の後部で、俺の位置からでは振り返らないと見られない。残念極まりない結果といえた。