0018レトロPCガール
廊下には一人の女の子が待っていた。茶色のふさふさした毛皮のような髪で、褐色の肌の容姿は端麗だ。切れ長の高揚感に満ちた瞳。やや痩せているが、不健康なほどでもない。身長は文奈より2、3センチ高いか。
「あんたがFM-7同好会の根津文奈?」
いきなり呼び捨てである。文奈はしかしさして怒るでもなく、ごく普通に応対した。
「はい、私が根津文奈です」
「これ見て来たんやけど」
そう言って差し出したのは、1階掲示板に貼っていたFM-7同好会勧誘の張り紙だった。どうやら勝手に引き剥がしてきたらしい。文奈は表情を引きつらせた。しかし「我慢、我慢」と自分に言い聞かせているのか、憤激をあらわにすることはなかった。
「FM-7同好会に興味をお持ちいただいたんですか? なら早速入会手続きを……」
女は白い歯を剥き出しにして手を振った。
「ちゃうねん、ちゃうねん。逆や。文奈があたしを勧誘するんやない。あたしが文奈を勧誘しに来たんや」
俺は文奈と顔を見合わせた。不得要領である。俺はこの小麦色の肌の少女に、真意を話すよううながした。。
「どういうことだ? 勧誘って、何に?」
俺の問いに女は別の紙片を取り出した。俺たちに見せ付ける。クリーム色のマイコンの写真がでかでかと掲載されていた。俺はその下に書かれた文章を読み上げる。
「ええと何々……? 『PC-8801mk2SR同好会に入会希望のものは、1年B組、森羅八覇まで』……?」
文奈の顔色がさっと変わった。闘争心に火が灯ったようだ。かつて彼女は言っていた。『X1とかPC-8801mk2SRとかのユーザーですね。当時は凄いシェア争いが繰り広げられていたんですよ、パソコン業界は』と。FM-7と覇権を争っていたのはX1だけではない。PC-8801mk2SRもまた、FM-7のライバルなのだ。
八覇がころころと笑った。種明かしをしたマジシャンのようだった。
「あたしが来たのはそういうこっちゃ。FM同好会に入りたいんやない。FM同好会なんて諦めて、大人しく88同好会に入りや、って言いに来たんや。どやろ? 入ってくれるか?」
何の心理的抵抗もなさそうに、彼女は本気でいざなってくる。文奈はやや呆れ返り、険のある声で謝絶した。
「森羅さん、お帰りください。我々FM-7同好会は、設立のその日まで決して諦めたりはしません。ましてPC88の同好会に入るなど論外です。お引き取りください」
「なんや、ケチやなあ。でもそう言われることは予想済みや。……なあ二人とも、あたしの家に来ぃへん?」
俺は馬鹿みたいに口を開けっ広げた。
「なんでそうなる?」
八覇は底抜けの笑顔で答える。全ての蜘蛛の巣を払い取った屋敷の一室がごとき開放感があった。
「論より証拠、88実機で動く大量のソフト群を見れば、FMなんてしょぼい機種うっちゃって構わないと思えるようになるからや。いわばあたしの挑戦や。PC88を体験して、まだFMを好きでいられるなら、もう勧誘はせえへん。どや、それならええやろ? どうせFM同好会は未設立なんやろ? 放課後はたっぷり時間が余ってるはずや」
俺はかたわらの文奈を注意深く見た。X1の慧玖珠に対した時ほど怒っている様子はない。それは俺も同じだった。この森羅八覇という女子には、えもいわれぬ魅力があった。彼女は慧玖珠と違い、あまりにも露骨に、大っぴらに用件を切り出してくる。それも満面の笑みで。それが何だか真夏の太陽に似て、こちらの凍土のような敵愾心を溶かしてしまうのだ。
文奈はボサボサの赤いショートカットを揺らし、俺に小声で相談してきた。ためらいが感じられる。
「どうします?」
俺は少し困って頬を掻いた。だがすぐに踏ん切りをつけて答えを返す。
「毒を食らわば皿までだ。8ビットパソコンの世界に踏み込んだ以上、こうなったらとことんまで追求してやる」
「FM-7は毒ではありません」
文奈は頬を膨らませて言葉尻を捉えた。しかし俺の意見には賛成のようで、
「じゃあ森羅さん、お邪魔させていただきます」
と生真面目に答えた。八覇は嬉しそうに何度も大きくうなずく。この少女にだけ盛夏が訪れたかのように、それは何ともまぶしく感じられた。
「じゃ、放課後にまた来るで。逃げんなや、約束やで」
彼女はスキップでも踏みそうな軽い足取りで去っていった。その姿が廊下から消えると、俺は昼食途中だったのを思い出した。
「根津さん、飯の続きといこうか」
「そうですね」
森羅八覇――PC88の使い手。FM-7の文奈といい、X1の慧玖珠といい、MZの慧夢是先輩といい、この学校8ビットマイコンに呪われているんじゃないか?
ホームルームが終了し、放課後となった。俺は予備知識を得るべく、教科書を鞄に詰め込む文奈へ質問した。
「PC-8801mk2SRって何だ? FM-7やX1とシェア争いしたって言ってたけど、実際のところはどうなんだ?」
鞄を漁る文奈。彼女は普段から勉学全般に熱心だった。それも聞いてみれば、将来『FM-7』を独自修理できるようになるためだとか。
「日本電気のPC88、シャープのX1、富士通のFM-7は『8ビット御三家』と言われ、80年代後半の8ビットパソコン界を先頭に立って駆け抜けました。しかし御三家といえば聞こえはいいものの、実際はPC88の一人勝ちでして、X1もFM-7も到底追いつけないほど大きなシェア差があったんです。性能面ではX1シリーズもFM-7シリーズもそれほど引き離されたりしてはいなかったんですが、やっぱりソフト数の差があり過ぎて……」
「そんなに差があったのか。慧玖珠が自慢してた日本ファルコムのX1版『ソーサリアン』とやらも、PC88には出てたのか?」
「はい。それだけじゃなく、X1にも出ていない『イース3』『ダイナソア』も出てました。大勢の決した頃の8ビットパソコン業界は、『ゲームソフトがたくさん出ている機種が一番凄い』という風潮でして……。ゲームソフト開発会社はPC88にソフトを集中し出したんです。ビジネスとしてやる以上、最もリターンの大きい機種に力を入れるのは当然ですから、気持ちは分からなくもありません。リアルタイムで体感したFM-7ユーザーは、それはもう悔し涙を流していたそうです」
その辺は今のゲーム業界に似ていて、俺にも理解できた。消費者にとっては欲しいソフトが出ているハードを買うのが当然、ということだ。
「それにしてもPC-8801mk2SRって、長い名前だな」
文奈は鞄の蓋を閉じ、俺に可愛く微笑んだ。ああ、好きだなあ。
「元は1979年に発売された機種PC-8001が元祖で、それが発展して1981年のPC-8801となりました。そこから更にmk2が出て、その後音楽機能のPSGを搭載し、描画速度を向上させたSRが発売されます。これが『PC-8801mk2SR』で、大量のソフトウェア資産を継承して、破竹の勢いで国産8ビットパソコンシェアを牛耳っていったんです。PC-8801mk2SRは以降、MRやMH、MA、FEなどの後継機種を輩出していきます。でもシリーズの基本はmk2SRのままで、発売されるソフトもそこに根ざして『PC-8801mk2SR以降』と、SR以降全機種での動作を保証していました。それが最も市場が大きく、最も売れるからですね」




