0010レトロPCガール
「河野さん、もう少し静かなところで話しましょう。ここじゃ落ち着きませんし」
慧玖珠は俺を先導して教室を出ると、春風が涼しい渡り廊下まで歩いていく。髪がなびくに任せる彼女は、文奈と違い大人の色気があった。胸も豊満とまではいかないが、それなりに発育しているし、腰のくびれも成人女性顔負けだ――って、どこを見てるんだ俺は。
「ここでいいでしょう」
慧玖珠は立ち止まり、くるりと俺に正対する。屈託のない美しい微笑だ。
「河野君、X1シリーズはお持ちなの?」
「いえ、持ってません」
「じゃあX1に触れたことは?」
「それも全くありません」
「じゃあまるっきり初心者なのね」
「はい」
「何だ……」
慧玖珠の顔から日差しが消えていく。不意に慧玖珠が探るような目つきでこちらを見やった。慎重さが声色に出る。
「FM-7同好会はご存知かしら」
俺はあらかじめ考えていた通りに話した。
「実は俺、80年代のパソコンに興味がありまして。それで一度はそちらに協力しました」
「あら」
慧玖珠は苦笑した。肩が揺れてロングヘアがさらりと流れる。
「実は私、あなたが毎朝昇降口前でFM-7同好会の勧誘活動をしていた姿、拝見していたわ。今まですっかり忘れていたけど」
俺は内心ほっとした。もし『FM-7同好会など知らない』と答えていれば、たちまち嘘をついたとして拒絶されていたことだろう。選択は正しかったのだ。
「そのFM-7同好会をやめたのは、中川さんの『X1同好会』の存在を知ったからでした。俺はこちらこそが本物の同好会だと感じて、ぜひ仲間の端に加えさせていただこうと思ったんです」
彼女は俺の言葉に有頂天になったか、満面の笑みで俺の手を取った。砂漠でオアシスを発見した旅人のようだ。
「河野君、あなたこそ私が求めていた人材だわ! どうぞ『X1同好会』に入ってちょうだい。あんなアクションゲームもまともに遊べないような腐れハードより、X1の方が遥かに優秀だってこと、すぐに理解できるわ」
俺は首を傾げた。アクションゲームもまともに遊べない? それはどういうことだろう。文奈の家で遊んだ『ドラゴンバスター』も『METAL-X-II』も、別段操作系で困らされることはなかったはずだが。
ともあれ、俺は慧玖珠が気を許したと知るや、色々探りを入れてみた。
「X1同好会って、今は何人入会しているんですか?」
彼女ははしゃぐのをやめ、俺の手を離した。吹き抜ける風に寒さを感じたらしく、そっとおのれの両肘を抱きしめる。
「実は、まだ私と姉さんの二人しかいないのよ」
寂しげに言った。かんばしくない状況はFM-7同好会と似たり寄ったりのようだ。
「やっぱり『パソコン部』のせいですかね」
慧玖珠はたやすく激発した。案外単純な性格なのかもしれない。唾を飛ばしかねない勢いでまくし立てた。
「そうよ。あのWINパソコンで盛り上がってる連中ときたら! 何一つクリエイティブなことをしないで、まるで自分たちはパソコンのことを分かってるぞみたいな態度で勧誘してくるのよ。冗談じゃないわ。あいつらがいなければもっとX1同好会も賑わっていたはずなのに……。だいたい市販ソフトがなかったら何もできないくせに、パソコンの達人みたいな顔をしているのが許せないわ」
散々こき下ろすと、しゃらくさいとばかりに髪をかき上げる。不満をぶちまけて冷静さを取り戻したのか、顔も声もやや平常に戻っていた。
「河野君、一緒にX1を普及するのよ。究極の8ビットパソコンであるX1はまだまだ廃れていないってことを、全世界に発信するの。いいわね?」
俺は彼女から立ち昇る、火傷しそうな熱情に若干ほだされかかった。慌てて気を引き締める。
「それにしても中川さん。何で『X1』なんですか? 別に他の8ビットパソコンでも良かったはずなのに……」
彼女は意外な質問を受けたというように目をしばたたいた。
「あなたはX1の写真を見なかったの? ほら、掲示板に貼った『X1同好会』の張り紙。あれを見て来たのよね?」
「はい」
「あそこに写ったX1の写真。あれを見たら分かるでしょう?」
えーと、どんな写真だったっけ? 確か赤い本体の上に、古臭い同色の大きなモニターが鎮座していて、キーボードが離れていて……。でも、特別変わったところはなかったように思えたけど。
「……いや、分かりませんが……」
俺がおっかなびっくり言うと、慧玖珠は額を押さえて溜め息をついた。
「あなた、少し美的センスが狂ってるんじゃない? あのデザインよ、あのデザイン。あの写真の『X1turbo』は1985年のグッドデザイン賞を受賞した逸品なの。それだけでなく、X1はシリーズの端緒から、シャープのテレビ事業部のラインでデザイン重視で設計されてきたの」
腕を組み、自信たっぷりに微笑する。
「私は美術方面に関心があるの。この藤之石もその辺が強いから志望したわ。それはともかく、ネットでも見られる『グッドデザイン賞』は私のバイブルで、暇があればスマホで眺めていたわ。そうして私は、『X1』に出会ったのよ」
彼女はうっとりと目を閉じて歌うように言った。
「素晴らしい、素晴らしいわX1。この私が頬ずりして抱きしめたくなるぐらい美しいの。あの写真を見てあなたは何も感じなかったの? あの印象的なフォルム、胸に焼きつくデザイン……。まさに美の女神の最高傑作だわ」
俺は慧玖珠の陶酔に唖然とした。この盲目的な愛情は、文奈のFM-7に対するそれと何ら変わりなく思えた。要するに、ついていけない。
「FM-7は最高傑作とは思えなかったんですか?」
慧玖珠は目を開いて、幸せな気分を害されたとばかり、やや不機嫌に答えた。
「あんな筐体、所詮田舎者の発想だわ。美しくない……」
唾でも吐き出しそうな面上だ。FM-7に対する強い憎しみさえ感じられる。
「だいたい昔のパソコン雑誌やネットの情報を調べてみれば、どうやらFM-7はX1の遥か後方にあった機種みたいだし。格が違うのよ、格が。……まあ、あんなポンコツなんてどうでもいいわ」
機嫌を回復したか、また見た者の心をとろけさせるような笑みを浮かべる。熱っぽく語った。
「それよりX1同好会よ。今日は放課後、私と姉さん、それからあなたとでミーティングを開きましょう。どうやったら同好会員を増やせるか、色々知恵を絞らないとね」
俺は時機が来たと悟り、さりげなく舌を回転させる。慎重に、冷静に。
「実は俺、さっき掲示板のところに行って、FM-7同好会のチラシを破り取ろうと思ったんです。X1同好会にとって目障りで、俺も嫌な記憶しかないし。そしたら、その張り紙のFM-7の文字がマジックか何かで黒く塗り潰されていたんですね。俺と同じ考えの奴が他にもいたんだ、って思って感激したんです。きっとその人ならX1同好会に入ってくれる、と期待してるんですが」
慧玖珠は軽く目を見開いた。それからどうしたものかと思案する風に、拳と顎を触れ合わせる。が、やがて口の端をほころばせると、俺にささやいた。
「それ、私よ」