0001レトロPCガール
嘘のような晴天が俺の頭上に広がっていた。
こういうときは何かある。15年生きてきて、もうすぐ16年になろうかとする俺の記憶と経験によると、これはたいていろくでもないことが起きる前触れなのだ。たとえば不良にからまれたり、すっ転んで水溜まりにダイブしたり、ダンプカーに泥水を跳ねかけられたり……。真新しい黒い制服に身を包み、いざ藤之石高校へ乗り込まんとする俺の意気は、早くも阻喪状態だった。
高校受験に失敗し――熱句高校なんてレベルの高いところを目指したのがそもそも間違いだったのだ――滑り止めに初登校するというのは、もちろんそれだけで陰気な気分にさせてくれる。こんなはずじゃなかった。俺、若干15歳の高校1年であるこの俺は、もっとできると信じていたのに。乗り越えられる壁ならいくらでも引き受けるが、そうでない壁などお断りだ。だが相手は選り好みしてくれはしなかった。中学とまるっきり同じことが繰り返されたのだ。
こんなだから、こんな不甲斐ないだらしない俺だから、兄貴が優遇されるわけだ……
俺は溜め息を一つついて、でかい図体を誇り幅広のグラウンドを伸ばしている、藤之石高校の門を通過した。校舎の昇降口までの一本道に、騒々しい人垣ができている。舞い落ちる桜の花びらで彩られるそれは、上級生による部活への勧誘だった。
「君、バスケ部に入らないかい?」
謹直な眉毛に摩天楼のような長身の朴訥とした男が、ボールをバウンドさせながら話しかけてくる。俺は愛想笑いしたが、疲れたようなものにしかならなかった。
「そこの人、新入生だろ? 囲碁部で明るい未来を目指さないかい?」
眼鏡を人差し指で押し上げながら、いかにも勉強できそうな顔つきの男が入部用紙を差し出してくる。俺は平手でやんわり押し返した。
「ねえお兄ちゃん、野球部に入ろうよ!」
恐らく女子マネージャーだろう、明朗快活な女がバットで地面をこつこつ叩く。俺は丁重に頭を下げ、しかし断固たる意思で拒絶した。野球なんて、運動音痴の俺にはとてもとても。
誘いにかけられているのは他の1年生たちも同様で、上級生たちは通り抜けようとする彼らに次々声をかけていた。度重なる謝絶に屈することなく、まるで機械のように新たな獲物に喋りかけるあたり、見上げた根性といえる。俺は人垣の終わりに到達し、まず帰宅部のポストを守り抜いた。
別段部活が嫌いなわけではない。勉強一辺倒な灰色の青春を送るつもりもない。それに卒業以降を考えれば、何かしら部活動に参加し、汗水流しておいた方が他人の心証には有利だ。
ただ、何をやっても駄目だろうな――そんな悲観が胸を占めるのだ。
俺は情熱的な先輩たちを尻目に、せいぜい不遜な態度で校舎へ足を運んだ。と、その時だった。
「あの、そこの人!」
声音が高周波なのか、耳に痛いぐらいに響いてくる。俺はほぼ動物的な反射で、その声の主の方へ首をめぐらした。
時の流れが停滞したように思えた。はかなく散りゆく桜が、スローモーションで空間を舞い落ちる。朝の陽に光り輝く校舎を背景に、一人の少女がボールペンと白紙の束を差し出してきていた。
あまり手入れに熱心でないのか、赤いショートカットの髪はぼさぼさだ。くりくりとした茶色の目が愛らしい。ほっぺたが膨らみ気味で、健康的な肌色だ。身長は150センチぐらいだろう、俺より10センチは低い。胸が小さいため中学生のように幼く見える。だが彼女が着ている制服――青色のセーラー服だ――は、明らかに藤之石のそれだった。
耳に突き刺さる大声が、再び俺の鼓膜を襲った。
「『エフエムセ部』を一緒に作りませんか? 入部、お願いします!」
彼女は思い切りよく頭を下げ、元気一杯に請願してきた。俺はその頭頂部を見ながら、全身が痺れたように動けずにいた。
一目惚れ、とはこういうことか。
俺は心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。よもや自分にそんな瞬間が訪れようとは、今の今まで予想だにしなかった。俺はただただ彼女の姿に視線を奪われて、両足は根を生やしたように地面に固定され続けた。
彼女が頭を上げる。俺が立ち去らないのを好意的に解釈したか、脈ありと踏んだらしく、一歩こちらににじり寄ってきた。
「『エフエムセ部』に興味がおありなんですね? そうですよね?」
「あ、いや、うん……」
俺はしどろもどろに答えた。視界の中でより拡大された彼女の顔を食い入るように見つめる。可愛過ぎて、俺の好みにどストライクだ。さっきまで感じていた暗鬱な気分はどこへやら、俺は心身ともに光照らされたような心持ちだった。今日の世界の能天気な解放感に、俺はたちまち伝染させられていたのだ。俺は舌がもつれながらもどうにか尋ねる。
「先輩、学年はいくつですか? それから、お名前は?」
相手が部活の勧誘を目的に声をかけてきたことは百も承知だが、俺としてはこの千載一遇の機会を逃す手はなかった。まずは年齢と名前だ。記憶巣に深く刻み込む準備を整えてから、俺はまっすぐ彼女の双眸を凝視した。
彼女はくすりと笑った。
「先輩じゃないですよ。私は1年の根津文奈です」
えっ、同級生? 俺は意外な返事に喫驚した。
「1年なのに、その――なんとか部の部長なんですか?」
文奈は微笑んで軽く首を振った。そんな姿も可愛い。
「『エフエムセ部』ですよ。私はその部活を作りたくて、今こうして部員になってくれる方を募集しているんです。さすがに既存のクラブに参加している先輩方の邪魔をするのも気が引けるので、こうして最後尾でささやかに、ですが」
まだ存在しない部活なのか。それにしても『エフエムセ部』って何だ? FM放送と関係あるのかな?
「その部活の活動内容ってどんななの?」
文奈の両目が待ってましたと言わんばかりにきらきらと輝きだした。抑えきれない情熱が炎となって吹き上がる。
「よくぞ聞いてくださいました! 『エフエムセ部』とは、FM-7の……」
その時、厳かなチャイムが鳴り響いた。文奈が口を閉じて腕時計を見やる。
「いっけない、もうこんな時間です! お話はまた後にしましょう。ええと、どなた様でしたっけ?」
俺も腕時計に目を落としながら答えた。
「1年の河野敏之。じゃ、放課後にこの場所で、ってのはどうですか?」
「はい、喜んで!」
文奈は傍らの地面に置いていた鞄を拾い上げると、紙とボールペンをしまい込んだ。
「じゃ、河野さん、お先に失礼します!」
文奈はぺこりとお辞儀すると、駆け足で昇降口へ行ってしまった。あまりに慌ただしく、引き止める暇もなかった。
「根津文奈さん、か……」
俺は耳朶の熱さを自覚しながら、同じ方向へゆっくり歩き出した。ここからバラ色の高校生活が始まるのだろうか。いや、この青空には騙されないぞ。俺は何かの物語を読んでいるような不思議な気分で、焦げ茶色の校舎へと足を踏み入れた。