作品に手を触れないでください
目覚めると、僕は真っ白な部屋の中にいた。一辺が10メートルくらいの立方体のような部屋で、僕はその壁に背中を預けるように座り込んでいた。自分が何故ここにいるのか、ここは一体何処なのか、まるでわからない。ぐるりとあたりを見まわすと、僕の右側、5メートル程離れたところにセーラー服を着た女の子が一人、僕と同じ体勢で眠っているのを見つけた。知らない人だ。僕は立ち上がり、その少女の前まで歩いていくと、顔を覗き込むようにしゃがんだ。
美しい少女だった。まつ毛は長く、鼻はすらりと高い、神は細くまっすぐで、肌は生気を感じさせないほど白かった。しかしその胸は確かに規則正しく上下して、部屋の空気を肺に取り込んでいた。
僕はただぼんやりと少女が寝息を立てているのを眺めていた。しばらくして、少女の瞼が一瞬動いたかと思うと、一度ぐっと目をつむった後にゆっくりと瞼を開いた。まるで花のつぼみが開くように。
少女は焦点の定まらない目で僕を見て左右を見まわして、そして自分の体を見下ろした後、「ここは」と尋ねてきた。僕は彼女のかすれた囁くような声にやや驚きながら、わからないという意味で首を横に振った。少女は目を細めると、「きみは」と尋ねてきた。僕は名を名乗り、自分もさっき目覚めたらここにいて、ここがどこだか見当もつかないと告げた。
「そう」
少女は短く答え、ゆっくり立ち上がると、壁や床、天井を眺めながら部屋を一周し、僕の前に戻ってきた。少女が何も言わずに突っ立っているので、僕はおずおずと尋ねた。
「何かあった」
「なにも」
困った、会話が一往復しかしない、と思いながら僕は床にあぐらをかいた。
「君はどうしてここに」
「昨日の晩、普通に自分の部屋で眠って、目覚めたらここに」
「なにか心当たりは」
「ない」
この子、いやに冷静だなと思ったが、自分もどうしてか妙に落ち着いていることに気づいた。とりあえず、自分もなにか心当たりがないか考えてみることにした。昨日(もしかしたらもっと前かもしれない)は普通に学校へ行き、いつもと変わらない授業を受け、何の変化もない通学路を帰り、うだうだと宿題やらなんやらを片付け、飯を食い風呂に入り寝た。本当にいつも通りだ。やはり思い当たる節はない。
顔を上げて少女をみると、さっきとおなじ位置に同じ体制で立っていた。とりあえず座ろうよ、と言うと、、僕の目を数秒見つめた後、僕の隣に膝を抱えて座った。
ここから出られないとすると、これからどうなるのだろう。やがて餓死するのか、何者かに殺されるのか。何者?いったい誰が僕らをここへ連れてきたのだろう。何のために。なぜ、この少女と二人なのだろう。ここへ来て、どれくらい経つのだろう。今が昼か夜かも分からない。
僕はおもむろに、心の中で時間を数え始めた。イチ、ニー、サン、シー、ゴー、ロク、シチ、ハチ、キュー、ジュウ……ひつじを数える要領で半ば無意識に数えていくと、気づけばイチマンサンゼンロッピャクニジュウロク秒まで数えていた。一体、何時間数えていたのだろう。僕は数学が大の苦手だったので、床で膝を抱えている少女に尋ねた。
イチマンサンゼンロッピャクニジュウロク秒って、何時間?少女は3秒考えて解答を口に出した。
「3時間47分6秒」
「速っ」
驚異的な暗算力だ。
「数学得意なの?」
「まあ」
「今何年?」
「高2」
同じだ。
「どこ高」
「下川第一」
進学校だった。しかし、下一高は僕の家からかなり遠い。
「どこに住んでるの?」
「兵倉県神中市北区尾津町375‐2」
言い方がえらく事務的だな。
「下川第一って、中坂県だよな。県外から通ってるの?」
「そう」
驚いた。神中から下川だと、電車で一時間くらいかかるはずだ。さらに驚くことに、僕は少女の住む尾津の隣町、内海町に住んでいた。意外と近い。少しうれしくて、そのことを少女に告げるも、彼女は平たんな声で「ふうん」と言うだけだった。
そしてまたしばらく沈黙が訪れた。じっと壁を見つめながらうとうとしていると、少女が突然話しはじめた。
「私はアメリカのシカゴで生まれたの。」
そうして彼女は、生まれてから今に至るまでを細かに語ってくれた。しばらくアメリカで過ごして、日本に帰ってきたのは5歳のときであること。そのときは神中じゃなくて豊口に住んでいたこと。総学生の頃は病気がちで、あまり友達がいなかったこと。4年生のときに父の転勤で神中に引っ越してきたこと。そこでもあまり友達はできなかったこと。私立の中学に入り、トップの成績を収めていたが、学校が合わなかったため、そのまま高等部へは進学せずに中坂の下川第一高校に入学したこと。
ここでは書ききれないが、彼女は本当に細かく語ってくれた。あまり長いので、僕は途中で足がしびれて、何度か座り直したほどだ。
「……そして、次の日に目覚めたら、この部屋にいたの。それが、今日よ」
ここまで平たんな口調で語り終えた彼女は、風と小さく息をついた。
「次は、あなたの番」
「えっ」
「あなたの話を聞く番。聞かせて」
僕は咳ばらいをして深呼吸をすると、彼女と同じように、生まれてから今までをなるべく細かく話し始めた。しかし、どんなに詳しく語ろうとも、彼女の三分の一か、もっと短い時間で語り終わってしまった。
「これで、全部」
「ええ」
僕は立ち上がって足を伸ばし、少し歩きまわって、彼女の向かいの壁にもたれて座った。
何も、起こらなかった。腹も減らないし、ノドも乾かない。疲れもせず、眠くもならず、ただ時間が過ぎていった。僕たちはたまにぽつぽつと会話をし、また静かになりを繰り返した。じっと座って、たまに立ってウロウロしたりして、まれに寝そべったりしていた。
僕の感覚では、もう一年くらい経ったと感じる頃(実際には数日かもしれないし、あるいは何十年もたったのかもしれない。何しろ僕も彼女も、体に何の変化も起きないのだ。成長もしなければ髪も伸びたり抜けたりしない)そ
ういえば僕は、彼女に一度も触れたことがないことに気がついた。同時に、触ってみたいと強く思った。そのとき既に僕は、あるいは狂っていたのかもしれない。何もない部屋に閉じ込められ、精神は限界に近づいていたのかもしれない。
「ねえ」
「…………」
「……」
「なに」
「触って見ても、いい?」
「何に」
「どうして」
「わからないけど……なんとなく」
およそ10秒の沈黙。
「……いいわ」
僕は彼女の目の前に座った。膝の上に置かれた彼女の手に恐る恐る触れると、冷たいような温かいような、およそ摩擦というものがない滑らかな手触りだった。そしてその手を軽く握ると、彼女も握り返してくれた。
僕は目を閉じて、ゆっくり開いた。すると、彼女の身にまとっていたセーラー服は消え去っていた。同時に、僕の衣服もなくなっていた。僕は彼女の胸に飛び込み冷たい床に押し倒し、彼女の身体を抱きしめた。彼女は優しく、母のように抱き返してくれた。僕は彼女の腕の中で、久しぶりに眠気を感じた。あたたかくつめたい彼女の身体に包まれながら眠りについた。
夢の中で、の句は自分の部屋のベッドにいた。慌てて跳ね起き、家を飛び出して、彼女の言っていた住所へ向かった。走ること三十分、息を切らせながら彼女の家の近くまで来た僕は、向こうから彼女が歩いて来るのを見た。彼女あ二人の友人とたのしそうに笑っていた。見たことのない表情だ。彼女の友人の一人は僕に気づくと、ねえ何アレ、なんかコッチ見てるし、とひそひそと言った。うわ、何アレきもーい、と少女と友人は笑いながら僕を見ている。激しい吐き気を感じ、喉元まで何かが込み上げてきたところで、僕は目を覚ました。
口からは何も出ず、代わりい目から涙が流れてきた。僕はずっと彼彼女に抱かれながら眠っていた。僕の涙が彼女の胸を濡らした。彼女は無表情に、黙って僕の頭をなでてくれた。
泣きながら僕は、この部屋に永遠にいたいと願った。ずっとここから出たいと思っていた僕は、初めて出たくないと思った。その瞬間、後ろの方でガチャンという音がした。心臓が止まる気がした。彼女は僕の頭をなでる手を止めると、出会って以来ずっと変えなかった表情を歓喜のそれに変えて、大きな声で言った。
「開いた、開いたよ!」
僕は、この部屋から出ると何もかも終わると感じた。ふらりふらりと扉へ歩いていく彼女の肌は、もう以前の病的な白さを帯びていなかった。彼女を呼び止めたかったが、何も言えなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。彼女は振り返りもせず、扉から部屋の外へ出て行き、見えなくなった。それを追うか、ここに残るか、二つに一つ。今開いている扉を閉じると、それは二度と開くことはないと、直感的にわかった。
「やっぱり僕は、ダメだったよ」
そうつぶやいて、僕は扉を閉じた。