プロローグ
私は囚われていた。もうずっと長いこと、その場から一歩たりとも動ずにいる。
あの一際寒い冬の日、指先から凍りつくような寒さに反して額に滲んだ油汗。握り締めた拳には血が滲んでいた。急げ、急げ、心の中でそう叫ぶ中、脳内ではけたたましいサイレンの音が鳴り響いていた。
いつもの帰宅経路を、今までにないくらいの速さで駆け抜ける。見慣れた扉を勢いよく開けた先には、想像したこともないような真っ赤な地獄が広がっていた。
ああ、今日は本当に寒いね、お母さん。
肉塊になった家族を前に、震える肩を抱きしめその場に崩れ落ちた。
――その日から私はその寒さに震えながら、ずっと玄関先で自分の存在を呪った。
夕方、時計は五時をさしていた。私はベッドから起きると、部屋着から黒とグレーのボーダー柄の長袖Tシャツを来て、ジーパンを履いた。外ではひぐらしが鳴いている。夏ももう終わりに近づいているというのに、まだまだ気温は下がらないようだった。とはいえ、暑さなど滅多に感じない私にとってはは関係のない話だ。
仕事のため家を出るまであと三時間はある。濃い目の紅茶をいれ、椅子に腰掛けた。読みかけだった小説を読み始める。もう二十歳になるが、これまで読む本といえば専ら純文学だった。図書館にあるような有名なものは大抵読み尽くしたのではなかと思うほど、中学から学校にもろくに通わず本ばかり読んでいた。今読んでいる本は、名も知らぬ作者がかいた本だった。割と最近書かれたものなのか、偶然立ち寄った古本屋でみつけ、なんとなく買ってしまった。
その本はなんとも言えない不思議な本だった。主人公のなんの変哲もない一生が描かれている。どこが不思議かといえば、それを説明するのは難しい。ひとつ言えるのが、この作中の日常がどこか懐かしいという点だった。主人公は穏やかな性格の持ち主だった。裕福な家庭に生まれ、家族と自然豊かな山の麓の別荘にいく描写。その別荘でのことを、なぜか知っているいるような気がした。しかし、思い出そうとすると頭痛と共にそれを拒む。いつのまにか過去の記憶に蓋をしていた私にとっては、それがどういう事なのか判断することはできなかった。
本を読み終わるころには、家を出なければいけない時間になっていた。どこか温かい気持ちのまま、私は薄手のカーキ色のコート羽織ってえんじ色のマフラーを巻き家を出た。
外は日の長い夏とはいえ、もう暗くなっていた。仕事先までは歩いて十分もかからない距離だ。雇い主に出会ってから、それまで住んでいた街から少し離れたこの街にやってきてもう六年。中学を出てからすぐにそこで働き始めていたため、賑やかな人通りの多い道から一本外れたそれは歩きなれた道だった。
今日はやけに月が明るいな、そんなことを柄にもなく思いながら、バーの扉をあけた。
「あら、おはよう。今日も時間ぴったりねー」
そう言って笑うのはバーのマスター、許斐さんだった。今年で四十になるらしいマスターは長めの黒髪を軽く後ろで縛っていて、とても整った顔をした渋いイケメンだが、なぜかずっとオカマ口調だ。ここは一応オカマバーではなく普通のバーであると言い切っているが、それも怪しい。この店は昼は喫茶店をしている。栄えているわけではないにしろ、駅から近いこの場所には見知った常連のお客も多いが、今日はまだ店に誰もいなかった。裏で制服に着替える。けして広くはないが、日課となっている軽い掃除を始める準備をした。
「今日は月がきれいだったわよ。まん丸の満月で怖いくらい。空は見た?」
「……はい」
「ふふ、こんな時間でもわかるくらい光ってたわよね。それにしても今日はなかなかお客さんが来ないわね。こうも暑いと外に出るのも億劫になるのはわかるのだけど、さみしいわ」
「そうですね」
夜はオカマがいるこのバーも落ち着いた照明の中、ゆったりとした音楽が流れる空間は案外居心地がいいと評判なのだが、今日はマスターの言うとおり人のくる気配はなかった。とはいえまだ時刻は八時を回ったばかり。そんな日だってあるだろう。私は布巾でテーブルを拭いて回った。
「今日はなにかあった?」
「……今日は家に帰ったあと少し寝て、図書館にいきました」
「今日もいつもと変わらずだったのね。そういえば最近の図書館って漫画置いてあるって本当?」
「置いてありますよ。私は読んだことがないですけど」
「そうなのねぇ、今も昔も漫画はいい刺激になるのよ?読んでみたらいいのに」
マスターはそういうけれど、漫画はほとんど読んだことがなかった。小説の、読むと自然に映像が浮かぶような感覚が好きだったから、情景の描かれた漫画にはあまり惹かれるものがなかったのだ。でも、マスターがいうなら明日行って読んでみよう。そう思っていた矢先、バーの扉が開かれた。冷房の効いた部屋に一瞬ぬるい空気が入り込む。
「いらっしゃいませ」
手を止め扉の方をみると、そこには見知らぬ男の人が立ってた。グレーのストライプシャツに黒いベストを身に付け、赤いネクタイをし黒いパンツを履いている。身長は高いようでモデル体型だ。それに加え爽やかな顔立ちは芸能人の様に整っていた。年齢は読みにくいが、多分二十代後半くらいだろう。少し長めの黒髪はくせっ毛なのか所々セットとは言えないはね方をしていた。
「お久しぶりです。許斐さん」
よく通る声でそう言う男をみたマスターは、動きを止め眼を見開いた。男は構わずマスターの前のカウンター席に座った。
「とりあえずウイスキーの水割りで」
そんな注文をしている男に、マスターは我に返ったのか男をまじまじと見ながらやっとのことで重々しく口を開いた。
「まさか……あなた、ハル?」
「ああ、よかった。六年もあってなかったから忘れてしまったのかと思いましたよ」
男の名前はハルというらしい。マスターの顔はどこかこわばっているようだった。
こんなマスター、今までみたことない。
どこか張り詰めた空気の中、会話は続く。
「どうしてここに?」
「そんな怖い顔しないでください。まぁ、ゆっくり話しましょうよ」
「……わかったわ。サナ、裏に行ってなさい」
マスターの言葉に頷きその場から離れようとすると、男がそれを止めてきた。
「サナ?ちょっと待て、お前九条早那か?」
「そう、です……けど」
「ちょうどいい。お前にも関係のある話だ。そこにいてもらう」
その言葉にマスターは焦ったような声を出した。
「ちょっとハル、」
「この娘のことが大切なら、俺の話を聞け」
私はマスターの隣に立ち、ハルという男は出されたウイスキーをひとくち飲んだ。そして語りだしたその内容を聞いた私は、ただならぬ衝撃を受けた。まるでそれは止まっていた時計が動き出したかのような……。
恐ろしいこの物語は、幕をあけた。