血染めの楓
雲一つ無い星空の下、年寄りと若者、という一組が山道を歩いていた。着物については濃淡の差しか区別がつかないが、共通して笠と背負子を身に着けていた。見たところ薬師のような格好である。特に何を話すでもなく、ただ黙々と歩を進めていく男達。やがて彼らが休憩を取ろうと考えだした時、それは姿を見せた。
道の傍に立つ一本の木。他の木々から外れた所に生えているそれは、近寄ってみると楓の木であることが分かった。月明かりで独特な葉の形状が浮き彫りになり、その葉の燃えるような紅が暗い夜の中で映えている。
だがそのような風情を楽しむ間もなく、二人は互いの顔を見合わせた。恐らく笠の下には、警戒を湛えた表情があろう。彼らが無粋だということでは無い。風情を打ち消すものがその場に存在していたが故である。
それは臭い。辺り一帯には、腐乱臭と錆びた鉄の如き臭いが漂っていたのである。木の周辺に注意深く目をやる。案の定というべきか、そこには数体の骸が転がっていた。裏手に回ると、木に背中を預けている者が一人。その着物には、楓の葉に似た赤い線が見受けられた。
それを見つけた若者は、生死を確認しようと近寄った。その刹那、若者は弾かれたように身を投げ出し地面を転がった。年配の男はその様子を訝しげに見ていた。だが再び楓に目をやった時、彼は驚くと共に得心した。先程まで木に寄りかかり微動だにしなかった人物が、平然と立っていたのである。そしてその手中には太刀があった。月光が反射し、刃が浮き彫りになっている。その一部には赤いものが付着していた。
「おい、お前。戻って伝えろ、さっさと行け」
年季の入った低い声で冷淡に、腰を抜かしている若者へ向けて言葉を放つ。それを聞いた若者は、焦りながらもなんとか立ち上がり、右手を押さえつつ来た道を全力で走っていく。それを見届けると、残る年配の男は太刀を持つ者と対峙した。
「ほう、ほう。主が噂に聞く辻斬りか」
相手を見据え、笠の男が呟く。身の上が知れていることを誇るわけでもなかろうが、件の辻斬りは口を歪めた。
「恨みつらみは微塵も無いが、貰い受けようその命」
言うが早いか、辻斬りは音も立てずに駆け斬りかかる。その速さに瞠目し遅れを取った男はしかし、間一髪のところで上体を反らした。空を見上げた彼は辻斬りの足に気付かず、蹴り飛ばされて地面を転がっていく。
「くっ、儂も老いたか」
素早く体を起こしつつ悪態をつく男。蹴られると同時に太刀が掠ったらしく、笠が割れ額から血が流れ出ていた。無論相手が待つはずもなく、辻斬りが動き出す。
血が片目に入り満足に見えない。そのことに舌打ちしつつ、男は腕を大きく振った。微かな風切り音が聞こえると共に、辻斬りの動きが止まる。
「一体、何をした」
僅かに震える声が辻斬りの口から漏れてきた。先程何かが顔の傍を通り過ぎてゆくのを感じていた。男は血を拭い、体勢を整えた。相手の様子を見て眉を顰める。
「やはり無理があったか」
怖気を払わんと斬りかかる辻斬り。男は敢えてその懐に飛び込み、すれ違うようにしてこれを躱した。辻斬りが向き直った時、男は黒光りする得物を回収し終えていた。十字手裏剣、車剣と呼ばれる代物である。
構え直し、辻斬りが再び斬りかかる。大上段からの斬撃を見切るのは容易、男は太刀の軌道上に手裏剣を突きだし、受け止めた。
「む……さてはお主が、何時か耳にした田力なる者か」
「ふん、やはり老いたわ。してこれで、儂は命頂戴する理由を持った……影の者は表に出ちゃならんでな。己の失態とはいえ、主の口は封じねばならん」
鍔迫り合いを解き、一合、二合と切り結んでいく。黒鉄と鋼が交差する度に火花が飛ぶ。男としては、このような真っ向勝負など避けたいというのが本音であった。しかし一対一、雲一つ無く明るい夜、森から離れているといった状況下では隠れることもままならない。小細工を仕掛けようとすればその隙をついて来よう。逃げる選択肢は自身で潰してしまった。この場を切り抜けるには、相手を殺す以外に術が無いのである。だがその思考が仇となった。
「なっ、しまっ」
思考に集中するあまり力が抜けたか、辻斬りの太刀が男の手裏剣を叩き落とした。気合の一声と共に太刀が突き出される。それは難無く、男の腹に吸い込まれていった。
「ぐっ……かつて鼠と言われた儂が、今や老いたる窮鼠とは」
「赤き啜りて木の葉は染まる。主も楓の糧となれ」
冥土の土産、とばかりに辻斬りが言葉を紡ぐ。吐血しだす相手を醒めた目で見つつ、太刀を抜こうとした。だが抜けない。男が腹に力を入れ、太刀を抜かせないようにしていたのである。
男は唸りを上げ、体に巻きついていた縄を腹に刺さったままの太刀を以て外した。それは背負子に乗せた小さな籐籠を固定するための縄だった。震える腕を背後に回し、籐籠を手にする。そして一段と大きな声と共に最後の力を振り絞り、その籐籠を辻斬りに投げつけた。
籐籠の蓋が外れ、中の粉末が姿を現す。回避しようにも間に合わず、眼前にいる辻斬りはこれを頭から被ることとなった。
「死なば、諸共、こいつは附子よ。死に逝く窮鼠、猫を、噛む……」
男が地に倒れ伏した。だが辻斬りにその勝利を喜ぶ暇など無かった。彼もまた、後を追うように崩れ落ちてゆく。腸から込み上げてくる嘔吐感。息をするのもままならず、胸の中央辺りを強く握る。附子がその効果を発揮しているのである。
毒の苦行に醜く顔を歪めながらも、男は一心に這っていく。その先には、唯一本の楓があった。
「濡れ衣着せられ、家内も何も、全て失い身を落とし……」
走馬灯を見つつ、男は必死に楓へと手を伸ばす。
「……すまぬ、この場に、埋めたままで……墓も作れず、我も、また……」
男が力尽きると同時に、一陣の風が吹いた。滅多に吹くことの無いその強風は楓の葉を宙に舞わせた。やがて風が収まると、木の葉は男の骸に降りかかる。それはさながら血飛沫の様であった。