想いを歌に(終)
白いネグリジェを着た佑梨がバスルームから出てくると、諒一の歌声がリビングから聞こえてきた。
「アベマリア」を歌っている。
「!…お兄ちゃんの歌…」
佑梨は走るようにして、リビングに入った。
「!佑梨!」
ソファーに座って、諒一の歌を聞いていた直樹と友美が佑梨を見上げた。
諒一も気づいて、歌を止めた。
「…歌って…佑梨も聞きたい…」
諒一は微笑んで「じゃ、最初から」と言って、ステレオに向かった。
佑梨は直樹に手を引かれて、友美と直樹の間に座った。そして直樹の肩に頭を寄せた。直樹が微笑んで佑梨の体に手を回す。そして空いた方の手で友美の手を握り、佑梨の膝の上に乗せた。
前奏が流れた。
「では、佑梨にこの歌を捧げます。」
諒一は微笑んでそう言い、歌いだした。
諒一の深い声がリビングに広がった。優しさと深みのある声…。
佑梨は嬉しそうに頬を染めて、歌う諒一を見つめている。…だが歌が終わる頃には、その諒一の声の深みに落ちたように、直樹の膝で眠ってしまった。
……
諒一は眠っている佑梨の体を横抱きにして、佑梨の部屋に入った。
そして暗がりの中、佑梨をベッドに寝かせた。
ブランケットを佑梨の体にかけ、少し佑梨の顔を見つめると、部屋を出て行こうとした。
「お兄ちゃん…」
諒一はどきりとして、佑梨に振り返った。
「…寝てなかったのか?」
「…寝てたけど…目が覚めちゃった…」
諒一はベッドの端に座って、ベッドのライトをつけた。
佑梨の顔が浮かび上がった。同時に諒一の顔も浮かび上がっている。
「…寝られるか?」
「おやすみのキスして。」
諒一は体をかがめて、佑梨の口にチュッとキスをした。
「じゃ、おやすみ。」
「…おやすみなさい。」
諒一はまたベッドのライトを消して、部屋を出ようとした。
「やっぱり…」
「?」
諒一は佑梨の声に振り返った。
「…お兄ちゃんの事が好き。」
「!」
諒一はしばらく立ちすくんでいたが、黙って部屋を出て行った。
……
諒一は橋のたもとに立ち、川を眺めていた。
直樹がこちらに向かって歩いてくる。諒一はそれに気付き「父さん」と言った。
「佑梨の事を悩んでいるのか?」
諒一は黙っている。直樹は諒一の隣に立ち、同じように川を眺めた。
2人は黙り込んでいた。しばらくして、諒一がためらいがちに口を開いた。
「…父さん…実は…」
「ん?」
「実は…昨日、イタリアのオペラハウスから話があって…。」
「!?…イタリアの!?」
「はい…」
「どういう話だ!?」
「イタリアで…もっと技を磨かないかって…お金はすべて向こうが持ってくれるって…」
直樹は、諒一の肩に手を掛けた。
「いい話じゃないか!」
「…はい…」
「行くんだな!?」
「行っていいですか?」
「もちろんだ!すごいぞ、諒一!」
諒一はうつむき加減に呟くように言った。
「…佑梨が…」
「!?」
直樹は今になって、ぎくりとした表情をした。
「…そうか…。佑梨が悲しむな…。」
「ええ…。」
諒一は再び川に向いた。直樹も困惑したように川に向いた。
……
数日後-
「ねぇ…お兄ちゃんのためなのよ佑梨!!」
「いやぁっ!」
「佑梨!」
「じゃぁ、佑梨も一緒に行く!佑梨もイタリアに一緒に…」
「バカなことを言わないの!!」
佑梨はベッドにずっと伏したまま泣いていた。その背を友美が必死に撫でながら慰めている。
…その様子を、半分だけ開いたドアから、諒一と直樹が悲しげな表情で見ていた。
……
夜中、泣きつかれた佑梨はベッドに体を横たえたまま、天井を見ていた。
「私も一緒に行く…」
そう何度も呟いた。だが、それが叶わない事はわかっている。
その時、ドアをノックする音がした。
「佑梨…俺だ。入っていいか?」
「!!」
諒一の声だ。佑梨は体を起こして「うん!」と言った。
普段着姿の諒一が入って来た。
「眠れないか。」
「うん。」
「俺もだ。」
諒一は、ベッドに座った。
「お兄ちゃん、悩んでるの?」
「ん。」
「じゃぁ、行かないで!」
「…わかった。」
諒一は微笑んで、佑梨に向いた。
「ほんとっ!?」
「ああ」
「それは佑梨のために!?」
「うん」
「…佑梨のために…夢を捨てるの?」
「そうだな」
「嬉しい!」
佑梨は諒一の体に抱きついた。
……
諒一は佑梨の寝顔を見つめていた。佑梨は安心したように眠っているように見える。諒一は微笑んで、ゆっくりと立ち上がった。
「お兄ちゃん…」
「!…寝てなかったのか…」
諒一は慌てて、再びしゃがみ込んだ。その時、佑梨の閉じた目から涙が流れ、ゆっくりと開いた。
「…嘘ついてくれて、ありがと。」
「!?佑梨…」
「佑梨、ずっとお兄ちゃんを待ってる…。」
諒一の表情が崩れた。佑梨はその諒一の手を握り、再び目を閉じた。
……
1ヶ月後-
諒一は日本を発った。諒一の希望で、直樹も友美も佑梨も見送りには行かなかった。
諒一は、少なくとも5年は帰ってこない。
諒一を乗せた飛行機が飛び立った時、佑梨は諒一の部屋に入った。部屋の中は諒一が整理し、閑散としている。
…だが机の上に「佑梨へ」と書かれた手紙と、ケースに入ったCD-Rが置かれていた。
佑梨はその手紙を開いた。短い言葉だった。
『この歌を佑梨に捧げます。諒一』
佑梨は涙を拭いながらCD-Rを取り出し、傍にあったCDラジカセに入れた。
そして、再生ボタンを押した。
前奏が流れた。
何の曲かすぐにわかった。音楽の授業で習った歌だ。
…その歌は、故郷に咲く穢れのない白い花を讃える歌である。
まだ穢れを知らない妹へ、ずっとそのままでいて欲しいという思いが込められていた。
『エーデルワイス…』
諒一の深い声が、部屋中に響き渡っていた。
(終)