明日を生きたくない僕へ
「――ッ、ふぅっ……死ぬんだ……今日こそ……死ぬんだ……っ!」
今日はいつもより風が強くてびゅうびゅうという激しい音が聞こえる。
聞こえるだけでなく、自分の体全体に当たり、まるで『早く落ちろ』と急かされているように感じた。
いやはや、こんな所から落ちたら洒落にならない――だからこそ、落ちるのだが。
ここは適当に人通りが少ない辺りのビルの屋上である。確か全部で十二階あったはずだ。落ちれば洒落ではすまない。打ち所が『悪くなってくれれば』さっさと死ねるからここを選んだ。
「ふぅっ……ふっ、……ふぅ……」
いざここまで来て見下ろすと、随分高くて眩暈がする。
俺は高所恐怖症なんだ……。
そういえば、高所恐怖症なのになんで飛び降りを選んだんだろうか……。
もっと別のことにすればよかった。首吊りとか練炭とか、溺死とか。
――ああ、でもどれも、結局死ぬんだから同じことだ。
ぐっと瞼に力を入れて閉じる。
一歩踏み出すだけで、きっと全てが終わってくれる。
一歩だけでいい、踏み出せば――。
それから十分は経った。
金網だかフェンスだかを背にし、誰かに見つかることもなく立ちっぱなしだった。
べつに今更誰かに見つけて欲しいわけでも、助けて欲しいわけでもないけれど、あと一歩の勇気が出ない。
それどころか、時々物凄い強風が後ろから吹いて自動的に落ちそうになったが、本能なのかなんなのか、俺の手はしっかりと金網を掴んで離さなかった。
――何やってるんだか……。情け無い……。
死にたいと思い、死のうと思ったのは自分だ。
だから、死ぬしかないんだ。
下を見たら駄目だ。怖くなる。このまま目を瞑って――一歩踏み出せば……。
「ねえー、まだー? あんたさあ、死ぬ気あんの? おっそいんですけど」
「は?」
思わず瞑っていた目を開いて、真下を見る。誰もいない。
「こっちなんですけどー。どこ見てるわけ?」
声のしたほう、つまり後ろの見ると……空中浮遊している少年……?
なんだあれ? あれ? 俺既に死んだのか? なんか変な物が……。
思わず目をゴシゴシと擦る。非現実的なことが起きると、案外やってしまうのかもしれない。
「なにベタな反応してるわけ? ていうかー、いいから早く死んでくれる? いつまでも突っ立ってないで早くして」
「……え、いや……君、誰……?」
空中浮遊してるし、なにやら背中でパタパタとせわしなく動いているものすらある。
「あー、もうそういうのいいから。それともなに? 俺が自己紹介することであんたの生き死にに何か関係あんの? 無いでしょ? はい、分かったらさっさと死ぬー。俺忙しいのね」
口調はとても冷静だが、一気に捲くし立てて、俺を焦らせているかのように感じる。
表情は無表情に近いが、馬鹿にしているような嘲るような微笑を浮かべてもいる。
「いや、まあ……確かに関係はないけど……」
「でっしょー。はいはい、さっさと飛び降りてー」
しっしっと手を振る。
さっさと落ちろということらしい。
「…………」
「なに?」
なに? っていうか、俺がなに? って訊きたいわ……。
元々飛び降りるつもりではいたけど、見物客はいらない。イレギュラーなどいらない。一人で勝手に落ちて、一人で勝手に死ぬのが俺の希望。
「見られてると死に難いというか……」
「はぁ? あー、はい、そうなの? じゃあ反対方向向いておくから」
はぁ? の部分が、顔には出ていないが明らかにイラッとした感じが含まれてた。何で俺がイラッとされてるんだ。イラッとしたいのは俺の方だろ……。
「……いや、さ、できればいなくなってほしいんだけど……」
「うぜー。めんどくせー」
はぁーっと、わざとらしく溜め息を吐く。
もうこれ俺怒っていいだろ……?
「いやあの……お言葉ですが」
「お前そんなんだから、彼女にも振られるんだよ。分かるだろ? お前の人生そんなもんなの。さっさとしろ」
俺の言葉を遮って、少年の口から出てきた言葉は意外にも事実であった。
だんだん態度が、いい加減になってきたのは言わないでおいてもいいだろう。
「なんで俺のこと……」
訝しむ俺に、当たり前だろうというように鼻を鳴らす少年。
「野澤広一、十九歳。先日まで婚約をしていた同い年の彼女がいたが、振られる。原因は浮気」
「えっ!?」
今さり気なく新事実が判明したぞ!?
彼女から別れを告げられた理由は、不安になった。やっていけるか分からなくなった。というものだった。
……浮気……とか……。
「まあ原因は振られたことなんだろうけど、理由とかその辺はどうでもいいから早くしろって。忙しいって言ってんだろ。後が詰まってんのー。早くしろグズ」
ついにはグズ。まあいいけど。どうせその通りだ。だから死ぬのだから。
――ただ、見世物にして死ぬのは嫌だ。
「……俺に死んでほしいと思ってる人間がどうせいる。そいつらの為に死ぬのは癪だ」
もうこうなったら、なんだかんだ理由をつけて追い返すしかない。
この辺にこんなにいい飛び降りスポットは他に無い。俺はここで死ぬしかない。
「うわー。めんどくさー。分かった分かった。じゃあちょっと待っててくれる?」
返事を待たずに背中のものをふわふわパタパタとせわしなく動かし、どこかに飛んでいく少年。
これはしめた。今のうちに飛び降りれば――。
「ただいまーっと。お、大人しく待ってたか。まあギャンギャン吠えてた張本人だしな」
あれから、五分、十分ほどだと思う。
少年は再び戻ってきた。
――その間、俺が何をしていたかというと、俺が生きている時点で言わずもがな。
「……まあ」
と変な見栄を張る。
いない間、さっさと死んでやろうと思っていたのに……。
「んで? 消してきたんだけど、これでいいんだろ? ほら、早く」
「は?」
「は? じゃねえよ。消してきたっつの。お前が消してこいって言うから」
「いやいやいや!? 俺そんなこと言ってないし、第一消したって何を!?」
少年の、無表情の中の苛立ちが大きくなってきているように感じる。
無表情っていう設定がいらない感じの、呆れた顔をする。
「おーまーえーがー、言ったんだろ? 自分に死んでほしいと思ってる奴がいたら、死ねないからってさあ?」
「いや、それは言ったけど……」
何も消せとは……。
そもそもいなくなってほしくて、難癖つけただけだし。
「だから、わざわざそいつらの記憶を消してきてやったの。分かる? だからほら、早く。もう充分だろ」
記憶を消してきた?
え、どうやって……。てか本当なら、この少年はいったい……?
「記憶を消してきたって……。俺に死んでほしいと思ってる奴の……?」
「あー、そうそう。めんどくさいから、そいつからお前の記憶全部取ってきたけど、死ぬんだしいいよな」
「いや、え……? そもそも……」
――俺に死んでほしいと思う人間が……。
「あー? まあそりゃあ、いるだろ。ほんの軽い気持ちのも含めたらだけど、四人くらいいたかもなー」
俺の言いたいことを汲み取ったらしく、説明をされるが、俺には何のことかさっぱりだった。
死んでほしいと思われるほどに、人から恨みを買うような生き方をした覚えはない。
どちらかというと内向的な性格だし、人とも上手く付き合っていた自信があった。
……それなのに、死んでほしいと思っている人間がいたことに、自分で驚きを隠せない。
冗談半分で、少年に言ったことであって、誰か一人でもいることなど予想できなかった。
「……え、いや……さ……」
「なんなわけ? はっきりしろよ、うぜーな。そりゃ、どんなに上手く人と付き合ってる自信がある人間だって、誰かしらに死んでほしいと思われることくらいある。無自覚でもな。そういうもんだ」
「……」
言葉も出ない。
そういうものだと言われても、はいそうですか、と言えるほど物分りも良くない。
「つーか、これから死のうとしてる人間がなにそんなことにショック受けてるわけ? どーでもいいでしょ」
フェンスの向こう側に見える少年は、どこか呆れたような表情をしている。
なぜだか分からないが、少年の言っていることは事実だと信じている自分がいて、それを悔しいと思っている自分がいる。思わず、フェンスを掴む手に力が入り、フェンスは小さくカシャンという音を立てた。
――そもそもなんで、俺は死のうとしたんだっけ?
「はー……。いいこと教えてやるよ。あんた、そっから飛び降りれば確実に死ねるよ。だから俺が此処に来たんだし」
深く溜め息を吐いて、呆れられている。
――どうして、俺はこんな子供に馬鹿にされているのだろう?
口を開くが、言葉は喉に突っかかって出てこなかった。
「…… なーんも、言えないってか? 俺もさ、ほんと忙しいんだって。あんたが何に絶望して、もう生きたくないって思ったのかとか、そんな世間話に付き合ってる暇もないわけ。あんたが生きたくないって思って、死のうとしたのは事実だろ。あんたが死ぬことを知ったから、俺は此処に来た」
世間話に付き合っている暇はないなどと言いつつも、再び此処に戻って来てからだって五分は経っている。
俺がいつまでもグズグズしていることに、イライラとしているのも知っている。
けれど、飛び降りたら確実に全てが終わるのだと思うと、どうしても足がすくんだ。
「も……いいよ……。俺が飛び降りるの待ってたら日が暮れるぞ」
「はぁ? あんたさあ、ほんとなんなわけ? そんな程度のいい加減な気持ちで死のうと思ってたの? 俺が確実に死ねるとまで言ってやってるのに。呆れた人間だなー。あんたの先祖だってそこまで情けなくなかったぞー」
「はっ……、いきなり先祖の話か……」
オカルト話第二弾は先祖ですか。
この少年はいったい何なんだろうかね。
「まあ信じなくてもいいけど、あんたの魂の情報はきっちり今日の十七時までに死ぬの決まってるんだからさ」
左腕にはめられた、腕時計に目をやる。
――十六時三十七分。
「それならまだ時間じゃないじゃんか」
「今度は開き直りかよ。うっぜえなあ。いいからさっさと死ねよ。俺は物理的には触れられないんだから、あんたが自分で飛び降りるしかないんですけどー」
死ね死ね連呼しやがって……。
だんだん腹が立ってきた。
「お前、記憶消せるんだろ? だったら、俺の知り合いの記憶全部消してきてよ」
――そうだ、そうすれば別に死ななくても。
「そうすれば別に死ななくてもいいやー、ってか? ほんっとあんた馬鹿だな。中身まで腐ってるとはな。死ぬこと選んで正解。さっさと世の為人の為死ねよ」
「なっ……、お前さっきからなんなんだよ! 死ね死ね言いやがって!」
「今度は図星をつかれて逆ギレかよ。ほーんと、めんどくせえしうっぜえなあんた。彼女にも振られるわけだわ」
「だから! なんでお前にそんなこと言われなきゃなんないんだよ!」
なんだこのむかつく奴は。
飛び降りる際に道連れにしてやろうか。
「誰に言われようが、自分で死のうとしてるんだから一緒だろうが。逃げてるんじゃねえよ。俺が死ねって言わなきゃあんたは死ぬのかよ? そんな程度かよ、グズが」
「は!? それこそなんでお前にグズとか……!」
「あー、分かった。めんどくせえからあんまやりたくなかったけど、あんたの知り合いからあんたの記憶全部消してやるよ。ただし、そうしたら今度こそ四の五の言わずに死ねよ? それが約束できなきゃ、やらねえ」
すっげえ上から目線。子供からこんなことを言われる日が来るとは……。近所の子供だって、こんなに生意気じゃない。
「分かったよ、約束してやるよ。ただし、きちんと証明できたらな」
「りょーかい。今の言葉、信じるからな」
少年は再び、背中のものをふわふわパタパタさせ、どこかに飛んでいった。
しかし、俺は再び飛び降りようと画策などしておらず、憤りを感じながらも、大人しく待っていることにした。
「ほら、これでいいだろ」
「これでいいだろって……」
特に変わった様子もなく、十分程度で少年は戻ってきた。
「消してきてやったよ。あんたの知り合いからあんたの記憶ぜーんぶ、綺麗さっぱり。ほら、これで心置きなく死ねるんだろ?」
ズボンのポケットに入っていた、自分のシルバー色の携帯を取り出す。
妙な違和感に取り付かれながらも、あまり覚えの無い電話帳の一番最初の人間に電話をかけた。
残念ながら、相手は出なかった。
確実に出そうな人間である、母親に電話をかけることにした。
何コール鳴っても、電話に誰かが出ることは無かった。
その様子を、少年は大人しく見守っていた。
「電話……出ないんだけど」
「はー? 知らないけど、そんなもんなんじゃねえの? 知らない番号、まったく記憶の無い名前の人間から電話かかってきても、なかなか出ようとも思わないんじゃねえの?」
そうか、そういうものなのかもしれない。
しかし、これでは確認の取りようがない。
「べつに心配しなくたって、綺麗に消してきたっつの。電話に出ないのがその証拠だろ」
「そう……だな……」
約束は約束だ。
死ぬと言ったのは自分で、元からどうであれ死のうと思っていた。
これで終わりだ。
少年と向き合っていた体をくるりと回転させ、フェンスを背に立つ。指はフェンスに絡めたまま。
いつしか風は止んでいたらしく、やかましく俺の心を掻き乱していた音はしなくなっていた。
飛び降りる為に、目を瞑る――しかし、足は止まっていた。
なぜか、動かない。すくんでいるわけではない。
――どうして自分が、死のうとしていたかが分からなくなっていた。
だから、飛び降りるわけにはいかない気がした。
「今度はなに? やっぱりやめますーってか」
その様子を、不思議そうにしばらく見守っていた少年も業を煮やしたのか口を開いた。
「いや、そういうんじゃないけど……」
「あっそ。そういうんじゃないんだったら、さっさと死んだら?」
確かに、そういうのではない。
自分が死のうとしていたことは覚えている。ただ、なぜ死のうとしていたのかが、分からない。
夕方になって冷たくなった風は、向かい風になっており、さきほどまでとは違ってまるで俺を止めているかのようだった。
ピタリと止まったまま動かないのを、少年が後ろから焦れったく見ているのが分かる。
それでも、踏み出せる足はなかった。
「……はぁー。失敗したかねー」
「は? 何を――」
何を失敗したのか? そう訊こうと思い、少年のほうを振り返ろうと首を後ろに向けたちょうどその時、勢いよく風が吹いた。
――あと一歩の勇気を踏み出せない自分を後押しするかのように。
「なっ……?」
なんで――さっきまで向かい風だったのに。
落ちる寸前、少年のほうを振り返ると、一番初めの無表情な顔になっていた。
少年の口がゆっくりと動き、なにか言葉を発しているようだった。その言葉は勢いよく吹く風の音に掻き消され、俺の耳に届くことはなかった。
そこで、僕の記憶は終わった。
『まあ、あんたのこと誰も覚えてないような……っていうか、あんたが誰も覚えてない世界でも、生きたいって思うなら頑張ってみたら?』