09 手
衝撃は鈍かった。
雪が潰れる音がして、次いで腕に痛みが走る。
だがそれより先に、背中の重みを確かめた。
「……シイナ!」
ケイリは転がる勢いを殺し、身体を横へ捻る。
背中を地面に打ちつけないよう、雪の上に自分の肩を叩きつける。
呼吸が乱れる。視界が白く瞬く。
それでも、まずは背中だ。
「おい……! 大丈夫か……!」
急いで起き上がり、シイナを降ろす。
木の根元に座らせ、幹にもたれさせる。影はまだ濃い。ここは日が届かない。
「……私、落ちなかったよ」
かすれた声で、シイナが笑う。
笑おうとして、うまく笑えなくて、口元だけが歪む。
その強がりが胸を刺す。
「バカ……!」
怒鳴ったつもりでも、声は震えていた。
ケイリは焦る手でシイナの肩を、腕を、背を探る。
折れてないか。打ってないか。
「痛いとこは!?」
「ないよ……ほんと」
その声が浅い。
そして、右頬に細い傷を見つけた。
木の枝に擦ったのだろう。
薄く裂けた皮膚から、血が滲んでいる。
赤い。
けれど、その赤は鮮やかじゃない。
どこか濁っている。
湿った鉄みたいな、錆びた色。
滲むのも遅い。
流れ落ちない。ただ、じわりと広がる。
「……なんで……」
生きている血の色じゃない。
生きている流れじゃない。
「ごめん……俺が……俺が急いだから……!」
言葉が溢れそうになる。
俺が昼に動いたから。
俺がシイナを連れ出したから。
俺が――
「ケイ」
シイナが、そっと呼ぶ。
「転けたけど……大丈夫? ケガ……してない?」
その言葉に、声が潰れた。
自分の頬を撫でるより先に、俺を気にする。
「俺っ……俺がっ……」
それ以上言えない。
言えば、シイナが悲しむ。
謝罪は、自分のための言葉だ。
励まさなきゃ。
何か言わなきゃ。
けれど、何を言えば救えるのか分からない。
何もできない。
そんな顔を見て、シイナがふっと笑った。
本当に、ふっと。
「私、一緒に過ごせて、楽しかったよ」
言葉が静かに落ちる。
「幸せだったよ」
何かが軋む。
それは慰めであり、別れの準備でもあった。
ケイリは気づく。
――諦めてる。
「ケイも疲れたでしょ」
シイナが続ける。
「少し、休も?」
がんばらなくていいよ、という声だった。
これ以上、無茶しなくていいよ、という目だった。
心が折れる音がした。
影は濃い。
ここなら、しばらくは涼しい。
時間が止まるかもしれない。
「……そう、だな」
ケイリは、隣に腰を落とした。
肩が触れる距離。
「手……つないでいい?」
シイナが言う。
「あぁ」
ケイリは手を寄せる。
「手袋ない方がいい……」
一瞬、指が止まる。
“温めるな”。
その言葉が、脳裏をかすめる。
――でもさ。どうせ終わるなら、手ぐらいつなぎたい。
あの夜の声が、蘇る。
「……そうだな」
ケイリは手袋を外した。
冷気が素手を刺す。
シイナの指に触れる。
冷たい。
けれど、確かにそこにある。
指を絡める。
外套も、雪も、もう挟まない。
直接、触れる。
それがどれだけ進めるのか、分かっているのに。
お互いの顔が、近づく。
吐息が混じる。
触れた唇は、氷みたいに冷たかった。
「……しちゃったね」
照れたみたいに、シイナが微笑む。
「ホントに楽しかったよ。昨日今日だけじゃない。今までずっと」
言葉が続く。
「出会ってから、ずっと」
息が浅い。声が細い。
それでも、止まらない。
「ケイ、ふだんそんなに笑わないのに……私がこんなになってから、いっぱい話してくれて……嬉しかった」
「おかしいよね。私、死んじゃうのに」
「あぁ……」
それしか言えない。
涙が落ちる。
時間を巻き戻したい。
そんなことで喜んでくれるなら、毎日笑ってやる。
毎日話しかけてやる。
――俺は最低だ。
「死ぬな……」
声が震える。
シイナの言葉が、ふっと途切れた。
「死ぬな! 助ける! 絶対! 死ぬなよ……!」
叫びが林にこだまする。
「……ケイ」
シイナの顔が崩れる。
今まで必死に作っていた笑顔が、壊れる。
「ちくしょう! 頼むよ!! お願いだ!! 助けてくれ!!」
声が裂ける。
そのとき。
ガサッ。
遠くで枝が鳴った。
叫びの余韻が、林に溶けきる前だった。
ケイリは息を呑む。
足音。
重くない。けれど、迷いのない踏み方。
獣の気配とは違う。
影が、木々の間で揺れる。
何が来ても、守る。
ケイリはシイナを庇うように、わずかに身を前へ出した。
風が枝を鳴らす。
もう一歩、足音。
そして、低い声が落ちた。
「……大丈夫か」
それは問いだった。
責めでも、驚きでもなく。
ただ、確かめる声。
木立の奥から、痩せた男が姿を現す。




