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返り花  作者: Nep


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08 影踏

影へ。もっと影へ。

光の届かない場所へ行けば、まだ間に合う気がして。

 

ケイリはシイナを抱えたまま、岩陰のさらに奥へ一歩だけ移動した。

日向と影の境界が、刃みたいに足元を分けている。そこを越えるのが怖かった。

 

シイナは軽い。

軽すぎる。抱える腕に重さが乗らないせいで、逆に現実味がなくて、怖い。

 

「……待ってろ」

 

誰に言ったのか分からない。自分に言ったのかもしれない。

ケイリは息を整える暇もなく、自分の外套の前を乱暴に解いた。

 

冷気が首に刺さる。

それでも構わない。寒さより、温度のほうが怖い。

 

外套を地面に広げ、雪を掴んだ。

指先が痛むくらいの雪を、抱え込むように外套で包む。ぐしゃり、と布の中で雪が潰れて湿りになる。

 

冷たい塊。

それを自分の背中に当てる。

 

「……っ」

背中が跳ねた。

 

皮膚の奥まで冷たさが染みて、心臓が一拍遅れて鳴る。いい。これでいい。

“温めるな”――その言葉だけで、迷いを押さえ込む。

 

外套の袖を回して、胸の前で結んだ。雑でもいい。外れなければいい。

雪の塊が背中に張りついたまま、じわじわ溶けていく感覚が気持ち悪い。

 

「シイナ」

 

呼ぶと、シイナのまつ毛が微かに動いた。

返事はない。けれど、呼ばれたことは分かっている目だ。

 

「背負う。……揺れるぞ」

 

シイナは笑おうとした。

うまく笑えなくて、口元が少しだけ歪む。

 

「……うん」

その声が、風にほどける。

 

ケイリはシイナの腕を肩に回し、背中へ引き上げた。

触れた瞬間、冷たい。

外套と雪を挟んだはずなのに、それでも伝わってくる冷たさがある。

それが怖くて、ケイリは力任せに背負い直した。

 

背中の雪の塊と外套が、二人の間に薄い壁を作る。

 

「……落ちるなよ」

 

「……落ちない」

 

その言い方が、昔のままだった。



走る。

林道の筋はもう選ばない。

日向の明るさを避けて、木の影が濃い側を選ぶ。

影、影、影。

光を踏んだら終わる気がして、足が勝手に影だけを探す。

 

雪が跳ねる。

靴が沈む。

息が切れる。

 

背中の雪が溶けて、外套の内側が湿っていく。冷たさが薄くなっていくのが、恐ろしい。

冷たさが消えたら、代わりに自分の体温が届いてしまう。

 

「……くそ」

呟いた声が白くなる。


シイナの呼吸が、背中越しに分かる。浅い。途切れ途切れ。

そのたびに、背中の蕾のことが頭をよぎる。


見ない。

見たら、走れなくなる。

だからケイリは走った。

 

今日中に着く。着けば、何とかなる。何とかする。何とか――。

 

背中で、シイナの指がわずかに動いた。

ケイリの肩口を探すように、掴むように。

そして、見つけた場所で止まる。

握らない。縋らない。

ただ、そこに触れているだけ。

 

ケイリはそれを感じて、息が詰まった。

温めたくないのに。

触れてほしいと思ってしまう。

 

「……大丈夫だ」

誰に言ったのか分からない。

背中の彼女に言ったのか。自分自身か。

 

返事はない。

けれど、背中の重みだけが、まだある。

 

ケイリは影へ逃げるように走り続けた。

青空の下を、光を避けて。

まるで昼そのものから、追い立てられているみたいに。


走り続けるうちに、足の感覚が薄くなった。

冷たさじゃない。疲れだ。

ふくらはぎが石みたいに固くなって、膝が笑う暇もなく震える。

 

それでも止まれない。

止まったら、追いつかれる。――何に、とは言えない。

昼の光に。時間に。蕾に。

 

ケイリは影だけを踏んだ。

木の根の影。岩の影。枝の影。

影がない場所は、息を止めて駆け抜ける。あの眩しさが、背中を焼く気がした。

 

背中の外套が湿って、冷たい壁が薄くなる。

雪が溶けるのが怖い。

怖いのに、雪を拾って詰め直す余裕はもうない。

 

「……くそ……っ」

言葉が途切れる。息が途切れる。

肺が痛い。喉が乾く。

それでも脚だけが前へ出る。前へ出るしかない。

 

背中で、シイナの重みがわずかに揺れた。

それだけで心臓が跳ねる。

 

「シイナ……!」

叫んだつもりでも、音にならない。

 

ケイリは歯を食いしばって走った。

“涼しい場所”に入れさえすれば、少しだけ――少しだけ、進むのを遅らせられる気がした。

 

だが足場が変わる。

踏み固められた筋が途切れて、雪の下の枯葉が滑る。

木の根が、見えない罠みたいに飛び出している。

 

視界が一瞬、揺れた。

ぐらり、と世界が傾く。

 

(やばい)

そう思った瞬間にはもう遅い。

つま先が何かに引っかかり、脚が前へ出ない。

 

身体だけが前へ投げ出される。

景色が回る。

青空と影と雪が、ぐるりと混ざる。

 

ケイリは反射で、背中を庇った。

転ぶなら、自分が先だ。

胸に抱えていた言葉が、内側で叫ぶ。

 

――シイナだけは、守る。

 

手が地面へ伸びる。

指先が雪を掴む。

次の瞬間、衝撃が来る。

 

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