07 青空
小屋を出ると、空が青かった。
夜の白さが残った雪の上に、空の光がまっすぐ落ちている。
「行くぞ」
ケイリは短く言って歩き出した。
明るいうちに距離を稼ぐ。今日中に街へ――それだけを頭の真ん中に置く。
林道は昨日より歩きやすい。
踏み固められた筋が途切れず続き、木々の影がそこに線を引く。風は冷たい。頬が痛む。
シイナは肩を借りて歩く。
歩幅は小さい。それでも前を向いて、笑い方だけはいつも通りでいようとする。
「ねえ、ケイ」
「ん」
「デートってさ、どこまでがデート?」
「知らねぇよ」
シイナがわざと軽い声で言う。
「手、つないだら?」
ケイリは一瞬、息が詰まった。
昨夜の手袋越しの感覚が、指先に戻ってくる。
「……今日も、デート」
言いながら、自分でも何を言ってるのか分からない。
逃げ道を作って、そこに二人を押し込めたみたいな言葉だった。
「今日だけ?」
「明日からは、勝手にしろ」
「なにそれ」
シイナが笑う。
その笑いが、雪に吸われる前に、ケイリの胸を少しだけ温めた。
……温めるな。
頭の奥で、嫌な言葉が鳴った。
ケイリは歩幅を少しだけ速める。
胸の温度を押し殺すみたいに。
時間が進むにつれて、光が変わった。
青さはそのままなのに、雪が眩しくなる。空気の刺す冷たさが、少しだけ和らぐ。
シイナが一度、息を止めた。
止めてから、遅れて吐く。
「……大丈夫か?」
「大丈夫」
明るい声。
その明るさが、昨日より薄い。
ケイリは歩幅を落とす。
落としたのに、シイナの足がもつれる。
咄嗟に支える。肩。腕。
抱き寄せそうになって止める。止めたせいで支えが硬くなる。
シイナは笑ってみせる。
「ちょっと、雪がまぶしいだけ」
言い終えて、右手が頬をなぞる。
言葉の裏を隠すみたいに。
ケイリは唇を噛んだ。
医者の言葉が、今さら形になる。
温めるな。
――温めるって、火や体温だけじゃないのか。
昼も、光も、“進む”のか。
「……休もう」
言った瞬間、シイナは少しだけ間を置いた。
休みたい顔を隠すための間。
「うん。休も」
返事が軽すぎて、痛い。
“今を楽しむ”って、こういうことか。
苦しいのに、苦しいと言わないことか。
少し先に、岩が見えた。
林道の脇で、雪を跳ね返さない黒い岩。上に枝がかかって、影が濃い。
「……あそこ」
ケイリは岩陰へ向かった。
光を避けるように、影を踏むように。
岩陰は、確かに涼しかった。
頬に当たる空気が冷たく戻る。雪の眩しさも和らぐ。
「ここで、少し」
シイナは頷いて腰を下ろした。
並んで座ると、肩と肩の距離が近い。
木々がざわめく。雪が枝から落ちる。
その音が穏やかで、穏やかなことが怖い。
ケイリは横目でシイナを見る。
笑っている。笑っているのに、息の仕方が浅い。
――見るな。
そう思ったのに、視線は勝手に滑った。
うなじ。
髪の隙間に、薄い光がある。
月明かりみたいな、白い輪郭。
蕾は、確かに大きくなっていた。
皮膚の下に収まっていたはずの“形”が、外側へ寄っている。
薄い光も、前より強い。
――いつ開く。
医者の言葉が、遅れて骨に刺さる。
開いたら終わり。
それだけは分かる。
いつかは分からない。今日かもしれないし、次の瞬きかもしれない。
分からないくせに、近いことだけは、嫌というほど分かった。
皮膚が、内側から薄く引っ張られている気がした。
破って出てくる準備をしている。
その想像が喉を乾かして、ケイリは唾を飲み込むことすら怖くなる。
「……ケイ?」
シイナが首を動かそうとして、止まる。
うなじを庇うみたいに肩が上がる。
「動くな」
思わず出た声が強すぎて、ケイリは自分で飲み直す。
「……悪い。痛いだろ」
「痛くない」
即答。
でも、その次の呼吸が遅れた。
「ねえ」
シイナが言う。
いつもの軽い声を探して、見つけられない声。
「さっきのさ」
「……なに」
「明日からは勝手にって――」
その瞬間だった。
シイナの身体が、ふっと横に傾いた。
倒れる、というより、力が抜けた。
「シイナ!」
ケイリは支えた。
反射で抱き寄せてしまう。
しまってから、遅れて背中が凍る。
温めるな。
温めると進む。
開くと終わり。
腕の中の身体は冷たい。
冷たいのに、今は離せない。
「おい、しっかりしろ……!」
シイナのまつ毛が震える。
笑おうとする。笑えない。
「……ケイ」
声が小さい。
「大丈夫だ。大丈夫。今日中に街だ。そこで――そこで、なんとかする」
言いながら、言葉が崩れる。
“なんとか”って、なんだ。
誰が、どうやって。
ケイリは岩陰の暗さに顔を伏せた。
頭の中が真っ白になる。
明るいうちに距離を稼ぐ。
その判断が、ここに繋がった。
「ごめん……」
声が漏れる。
「俺が……俺が、急いだせいで……」
急いだ。
明るい世界を選んだ。
希望のつもりで、進む方を選んだ。
その結果が、腕の中だ。
「……ケイが、後悔するの、やだ」
シイナが絞り出すように言った。
首を振れるだけの力で、かすかに。
その言葉が、ケイリをさらに追い詰めた。
慰めが、刃になる。
ケイリは歯を食いしばって、顔を上げた。
青空が、岩陰の縁で眩しく光っていた。
――どうすればいい。
どうすれば、止まる。
どうすれば、戻る。
答えはない。
それでも、止まれない。
ケイリはシイナを抱え直した。
影へ。もっと影へ。
光の届かない場所へ行けば、まだ間に合う気がして。




