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返り花  作者: Nep


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06 小屋

中は暗かった。

天井が低い。梁が近い。息を吐く音さえ壁に当たって戻ってきそうな狭さがある。

この広さなら、薪を一本くべればすぐ暖まる――そう思ってしまう広さだった。

 

ケイリはその考えを、喉の奥で噛み砕いた。

医者の言葉だけが、まだ熱を持って残っている。

 

温めるな。

 

床は踏み固められた土で、靴底の雪がすぐに湿りになる。

壁際に薪が積まれていた。乱雑ではない。割り方も積み方も揃っている。共有の小屋なのに、きちんとしている。

 

ケイリは毛皮を引っ張り出し、床に広げた。

 

「ここ、座れ」

 

シイナが頷いて腰を下ろす。外套の裾を整え、うなじを隠すみたいに髪を直す。

その動きに視線が引っ張られた。

 

蕾。

暗いのに、形だけは分かる。

空の綺麗さより先に、あれが目に入るのが腹立たしい。

 

ケイリは見ないふりをしたまま、薪の前にしゃがんだ。

火打ち石も、灰も残っている。ここで火を焚いた人間がいる。

それが分かるだけで、手が伸びそうになる。

 

「……火、焚かないの?」

シイナが言った。軽い声を装って。

 

「焚かない」

即答が強すぎて、ケイリは自分で唇を噛んだ。

言い方がきつくなるのは、怖いからだ。

 

シイナは少しだけ間を置いて、小さく首を傾げた。

 

「……寒い、よね?」

 

確認するみたいな言い方だった。

自分の感覚を、自分で確かめられない人間の声。

シイナは自分の肩をさすり、確かめるみたいに息を吐いた。

 

ケイリは短く答えた。

 

「寒い」

嘘をつく余裕はなかった。

「でも焚かない」

 

シイナは目を伏せたまま、ゆっくり頷いた。

「……分かった」

 

“分かった”の言い方が優しすぎて、ケイリは目を上げられなかった。

シイナも分かっている。火が、何かを進めることを。言葉にしなくても。

 

ケイリは毛皮の端をもう一度引き寄せ、シイナの足元を覆う。

触れた毛皮は冷たい。

その冷たさが、逆に安心に見えてしまうのが嫌だった。

 

「……明日の夜には街だ。街の医者なら、ちゃんと――」

  

言い切れず、言葉を飲み込む。

“治る”と口にした瞬間、嘘になりそうで。

 

シイナは答えなかった。

ただ、ペンダントの鎖を指で押さえた。揺れないように、押さえ込むみたいに。

 

「ケイ」

 

「ん」

 

「ありがとう」

 

急に言われて、ケイリは顔をしかめた。

 

「礼を言うな」

 

「言いたい」

 

「言うな」

 

「言う」

 

子どもみたいな言い合いになって、シイナが小さく笑った。

笑った直後、息が浅くなる。ほんの一瞬だけ。

 

「……寝ろ」

少し乱暴に言う。

 

シイナは頷き、目を閉じた。毛皮に身体を預ける。

身体は軽い。軽すぎて怖い。

 

ケイリは隣に座ったまま、動けなかった。

 

火を焚かないと決めたのに、火のことばかり考える。

薪の形。灰の匂い。火打ち石の冷たさ。

暖かさという誘惑が、ここでは簡単に手に入る。

 

外で風が鳴った。

木々がざわめく。雪が落ちる。

ケイリは小屋の隅に目をやった。

 

壁の釘に縄が掛かっている。罠に使う縄。

その隣に、小さな袋が吊られていた。中身は空。

共有の小屋の“誰か”の道具。

 

ケイリはその“誰か”に、勝手に祈った。

どうでもいい誰かでいい。

この森に、自分たち以外の足音があるなら、世界がまだ終わっていない気がするから。

 

夜が長かった。

暗さがひとつも変わらない。

火を焚けば明るくなる。息が楽になる。シイナの顔も見える。

 

ケイリは火打ち石に手を伸ばしかけて、止めた。

指先が震えている。寒さじゃない。自分の弱さで。

 

「……助ける」

 

誰に聞かせるでもなく呟く。

隣でシイナが微かに身じろぎして、うなじを庇うみたいに肩が上がる。

 

夜明け前、ようやく窓が薄く白んだ。

暗さの形が変わる。外の世界が戻ってくる。

 

シイナが目を開ける。

起きた瞬間、いつもの笑い方を探すみたいに口元が動き、見つかった笑顔をケイリに向けた。

 

「おはよ」

 

「……おはよ」

 

ケイリの声は掠れていた。眠っていない声だ。

シイナは起き上がろうとして、一瞬だけ眉を寄せた。

でもすぐ笑う。大丈夫だと言う準備ができている笑い方。

 

ケイリは立ち上がり、毛皮を畳もうとして手を止めた。

昨夜と同じはずの布が、どこか引っかかる気がした。

 

視線が、うなじへ滑る。

蕾の輪郭が、わずかに変わっている。

大きくなった、というほどじゃない。

ただ――皮が薄く張ったみたいに、線がひとつ増えたみたいに見えた。

 

蕾の青白い薄光が、昨夜よりはっきりしていた。

月が近づいたわけでもないのに。

 

火は焚いていない。

それでも、夜は進んだ。

 

ケイリは口を開きかけて、閉じた。

言葉にした瞬間、確信になってしまうから。

 

「行ける?」

ケイリが聞く。声を作る。

 

「行けるよ」

シイナが答える。軽い声。軽い笑い。

その軽さが、ケイリには怖かった。

 

扉に手をかける。

外に出れば道が見える。明るい。迷わずに進める。

“進める”ことが、今のケイリにとっての希望だった。

 

「……行くぞ」

 

「うん」

 

シイナは頷いた。笑っていたけれど、その笑いはどこか落ち着きすぎていた。

まるで“今日の昼”だけを、大事にしているみたいに。

 

明日の夜には街。

その言葉を胸の中で握り直しながら、二人は小屋を出た。

 

シイナは空を見上げた。

日が出たことを喜ぶ目じゃない。――それでも、歩きたい目だった。

 

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