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返り花  作者: Nep


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05 林道

林の影に入ると、雪は少しだけ音を取り戻した。

枝が擦れる。雪が落ちる。遠くで獣の足が枯葉を鳴らす――そんな気配だけが、夜の中に浮かぶ。

 

ケイリは前だけを見て歩いた。

振り返れば、病院の灯りが見えそうで。見えたら戻ってしまいそうで。

 

歩くしかない。

足元の雪は柔らかく、踏むたびに沈む。

靴底が雪を割って、濡れた土の匂いが僅かに立つ。

 

シイナは外套を羽織り、肩を借りながら歩いていた。

歩幅は小さい。けれど目線は前を向いている。

何かを“見ないようにする”顔じゃない。むしろ、全部を見ようとする顔だった。

 

「……なあ」

 

ケイリが声を出すと、シイナがこちらを見る。

 

「なに」

 

「……森、久しぶりだろ」

 

「うん。久しぶり」

 

返事がすぐ返ってくる。そのことに、ケイリは少しだけ救われた。

“返事がある”というだけで、胸がほどける。情けないくらいに。

 

夜の森は、暗いのに広かった。

見上げれば、木々の隙間に空がある。雲の切れ間に星が滲んで、雪の白さがそれを拾う。

村の灯りの下で見る空とは違う。遠い、冷たい、綺麗な空だ。

 

シイナが小さく息を吐く。

「……空、きれい」

 

「だろ」

ケイリは笑ってみせた。

「病院の天井より、百倍いい」

 

「うん。天井、もう飽きた」

 

「だろ」

 

他愛ない。

他愛ない会話ができることが、奇跡みたいに思えた。

たった数日前まで、当たり前だったのに。

 

風が吹く。

木々がざわめく。ざわめきは、波みたいに広がって、消える。

森が生きている音だ。眠っているようで、ずっと動いている。

 

ケイリはその音を聞きながら、歩幅を合わせる。

支える位置を変えない。抱き寄せない。

 

「ケイ」

 

「ん」

 

「ねえ。これ、デート?」

 

言い終えて、右手が頬に触れた。ほんの一瞬。

 

冗談の形をしているのに、目だけは冗談じゃない。

ケイリは鼻で笑って返した。


「デートだよ。……最悪の」

 

「最悪?」

 

「……最高の」

 

二人の声が重なって、雪に吸われる。

笑いが出ると、ほっとする。ほっとした瞬間が、一番怖いのに。

 

「……でもさ」

シイナが言う。

「外、歩きたいって言ったの、覚えてる?」

 

「覚えてる」

 

「叶った」

 

「叶ったな」

 

シイナは少しだけ顔を上げて、空を見る。

その横顔が、昔と同じ角度で。

 

ケイリは視線を逸らした。逸らして、また戻る。

戻った視線は、うなじに吸い寄せられる。

 

髪の隙間に、薄い輪郭がある。

闇の中でも分かる形。

夜明け前の雪明かりに、そこだけが淡く浮く。

 

蕾。

 

その小さな形が、空の綺麗さに終わりを告げているように見えた。

森のざわめきも、星の光も、二人の会話も。

全部、あの一点に向かって縮んでいくみたいだった。

 

ケイリは見ないふりをした。

見てしまえば、終わりが“今”になる気がして。

だから、声だけを作る。

 

「……街の医者ならさ」

 

口にした瞬間、自分の声が少しだけ震えた。

信じている声じゃない。信じようとする声だ。

 

「ちゃんと見てもらえば、治る。……治せる」

 

言い切ってしまえば、それが現実になる気がした。

現実にならなければ、怖すぎるから。

 

シイナは黙った。

空を見たまま、呼吸を一つ置く。

 

「……明日の夜には着くさ」

ケイリは続けた。距離を言葉にして、恐怖を線に変えたかった。

 

「夜まで歩けば、街の灯りが見える。……そこまで行けば、あとは――」

 

あとは、なんだ。

医者が何とかしてくれる。

蕾が止まる。

終わりが消える。

口の中で言葉を転がして、出さない。

 

シイナは小さく頷いた。頷いたように見えた。

その曖昧さが、ケイリにはありがたかった。

否定されなければ、信じていられる。

 

道が少しだけ広くなる。

雪の下から踏み固められた土が出て、細い筋になって続いている。

狩りに入る男たちが使う林道だ。

 

「この道、覚えてる」

シイナが言った。

 

「小さい頃、ケイと――」

言いかけて止まり、シイナは笑った。

右手が頬に触れかけて、途中でやめる。

代わりにペンダントを指で押さえた。

 

「……よく、怒られたよね」

 

「怒られたな。俺達」

 

「うん。俺達」

 

言い方が懐かしくて、ケイリは笑った。

昔の話をすればするほど、今が歪になる。

歪なのに、止められない。

それが人間の逃げ方だと、ケイリは思う。

 

歩く。

木々の影が濃くなり、薄くなり、また濃くなる。

時間が伸びる。距離が伸びる。

足が重い。肩が痛い。息が切れる。

それでも、歩けるうちは歩く。

 

シイナがふと、立ち止まりかける。

 

「……ごめん。ちょっと」

 

ケイリはすぐ支える。肩だけ。

手を握らない。抱き寄せない。

でも支えないと倒れる。

 

「大丈夫」

シイナが言う。明るい声。

明るいのに、目が遠い。

 

ケイリはその目を見て、――逸らした。

逸らして、また、うなじの蕾を見る。

 

――進んでる。

 

そう思った瞬間、胃がひゅっと冷える。

温めていないのに。

それでも“時間”だけで進むのだとしたら。

――そんな想像が、勝手に首を絞める。

 

ケイリは想像を蹴った。今は歩く。

歩いて、着く。着けば、何とかなる。

何とかなる、という言葉だけが支えだ。

 

しばらくして、林の奥に黒い四角が見えた。

屋根の低い、小さな小屋。森に溶け込みそうな影が、そこだけ形を持っている。

 

「……あれ」

シイナが小さく言う。

 

「あれが、狩猟小屋?」

 

「そう。……入れる」

ケイリは頷いた。

 

足を止めると、急に寒さが戻ってくる。

止まりたくない。でも、休まなければ次がない。


小屋へ向かって歩く。

近づくほど、木の匂いが濃くなる。湿った古い木、薪の匂い、獣の油の残り香。

 

狩猟小屋の扉が、暗闇の中で口を閉じていた。

ケイリはそこに手を伸ばす。

 

――この中なら、少しだけ、休める。

 

息を吸って、扉を押した。

 

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