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返り花  作者: Nep


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04 脱走

八日目の夜。

ケイリは決めた。

 

玄関から入る気はなかった。正面は灯りも音も多すぎる。

昼間の「病院」は人を迎える顔をしているのに、夜の「病院」は人を拒む顔になる。

戸がきしむ音ひとつで、誰かの目がこちらを向く気がした。

 

だから裏へ回る。

薪小屋。物置。勝手口。

昼に見た掛け金の癖。板のきしむ場所。

頭の中で、いくつも線が繋がっていく。

 

自分で自分が怖かった。

真面目なはずの自分が、当たり前みたいに“侵入の手順”を組み立てている。

 

医者の言葉が、胸の底で転がる。

「見送る準備をしておけ」

意味を受け止めきれないまま、言葉だけが残って、じわじわと体温を奪っていく。

 

ケイリはそれを振り払うみたいに、息を吐いた。

空気が白く染まる。

 

――今は、何も考えるな。


壁に沿って身を寄せると、窓の隙間から灯りが細く漏れていた。

窓枠の霜に触れ、指先が痛む。

 

窓は施錠されている――はずだった。

けれど、留め具が少しだけ甘い。誰かが閉め直したみたいに。

偶然だと思うことにして、ケイリは目を逸らした。

 

きしませないように窓をゆっくりと開けていく。

隙間ができる。冷気が流れ込む。

窓枠に指をかけ肩から先に滑り込ませ、床に足を下ろした。

 

中は薬草の匂いが濃い。暗い廊下の白さだけが、雪明かりで浮いている。

 

ケイリはきしむ場所を避けて歩いた。板の端。柱のそば。音の出ないところを選ぶ。

――釣り場で石を踏まない歩き方と似ていた。

 

病室の前まで来たところで、立ち止まる。

扉一枚。

向こう側に、シイナ。

 

喉が乾く。

笑い声を作る準備をする。作らないと、声が震えるから。

 

「デートに行くぞ」

 

ケイリは扉に手をかけた。

軋みが鳴らない角度を思い出して、薄く、薄く開ける。

扉の隙間から、病室の空気が漏れた。

――いつもと同じはずなのに、今夜だけ重い。


シイナは眠っているふりをしていた。

目は閉じたまま。呼吸もゆっくり。けれど毛布の端を握る指先だけが、わずかに硬い。

 

ケイリは声をかける前に、毛布へ手を伸ばした。

ただ触れただけ。

 

――冷たい。

 

寝ていたはずなのに。

人の熱が残っていない。冬の布みたいに、ただの温度しかない。

 

ケイリは一度だけ指先を離し、何もなかったみたいに毛布を整える。

 

「……シイナ」

 

小さく呼ぶ。返事はない。

 

「起きてるだろ」

 

それでも返事はない。

ケイリは笑ってみせる。明るい声を作る。

 

「起きろ。デートは遅刻禁止」

 

その瞬間、シイナの眉がほんの少し動いた。

目は閉じたままなのに、笑いを堪えるみたいに口元が緩む。

 

ケイリは毛布の端をそっと下げ、顔を覗き込んだ。

まつ毛が少し湿っている。

目尻のあたりに薄い赤みが残っていて、頬の下に乾いた涙の筋が一本だけ光っていた。

 

――泣いてたのか。

 

ケイリは慌てて笑いで埋める。

「……おい。デート前に化粧落ちてるぞ」

 

「ひど」

シイナが目を開ける。声は笑っているのに、鼻にかすかな詰まりが残っている。


ケイリは外套を取って肩にかけさせる。手袋。靴。紐。

どれも手の届くところに揃っていた。解きやすい形に結ばれた靴紐が、妙に静かに待っている。

 

「……準備いいな」

 

シイナは視線を落としたまま、笑ってみせた。

 

「ケイが来るって思ってた」

 

「なんで」

 

「だって――」

 

言いかけて、シイナは飲み込んだ。

それから小さく付け足す。

 

「……ケイだもん」

 

ケイリは返事をしなかった。したら、声が震える。

代わりに靴紐を結び直し、手袋を直す。何でもないふりで、いつもの世話みたいに、何でもない顔で。

 

――温めるな。

温めると進む。開くと終わり。

 

理屈は分からない。ただ言葉だけが残っている。

だからケイリは触れる場所を選ぶ。手は握らない。抱き寄せない。

 

「行くぞ」

 

扉を薄く開ける。

廊下の灯りは落ちている。窓の雪明かりが板床に帯を引いていた。

二人の影がそこを横切る。

 

床が鳴りそうで、ケイリは歩幅を小さくする。

シイナもそれに合わせる。

 

物置に入る。乾いた木の匂い。薪と布と土の気配。

ぶつければ終わる。だから手探りで進む。

 

勝手口の掛け金に指をかける。

 

カチ――。

 

小さな音。

ケイリは息を止め、夜がそれを飲み込むのを待つ。

 

何も起きない。

 

ゆっくり戸を押す。

冷気が流れ込む。雪の匂いが濃くなる。

 

外へ。

 

雪がきゅっと鳴った。

鳴ったのに、夜が消す。

 

「歩けるか」

 

「歩ける」

シイナは笑う。

 

ケイリは肩を貸した。

その瞬間、凍りついた。

外套越しでも分かる。

身体が冷たい。雪より冷たい気がした。

 

「……っ」

声を飲み込む。

医者の言葉が遅れて背中を刺す。

 

――温めると進む。開くと終わり。

 

腕を引きかけて、止める。

支えを外せば転ぶ。それが一番怖い。

 

「寒いだろ。……悪い、我慢してくれ」

 

シイナは笑う。

それから、ケイリの指先を見る。

 

「ケイ」

 

「ん」

 

「手、つないでいい?」

 

喉が鳴る。

「だめだ」

 

思わず出た声に、自分で驚く。

「……温めたら、いけないんだろ」

 

シイナは静かに言う。

答え合わせみたいに。

 

「分かってるよ」

シイナは笑った。

 

「でもさ。どうせ終わるなら、手ぐらいつなぎたい」

 

拒めば泣かせる。許せば終わりが近づく。

どちらも怖い。

 

シイナは指先だけで触れてくる。

握らない、逃げ道を残す触れ方。

 

ケイリは、その触れ方に負けた。

 

「……少しだぞ」

 

「うん」

 

手袋越しに熱を感じた気がして、息を詰める。

それでも離さなかった。

 

二人は村外れへ向かう。

踏み固められた黒い筋を選んで歩く。

 

背後で戸が鳴った気がした。風かもしれない。

振り返らない。

 

「デートの邪魔はさせない」

 

「最悪」

 

「最悪でいい」

 

笑う。喉が痛い。

白い息が浮かぶ。自分のだけ。

 

林に入ると、シイナの足が少しもつれる。

ケイリは抱き寄せそうになって止め、肩を強く支えた。指先はまだ触れている。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫」

 

明るい声。だから怖い。

 

「きつくなったら言え」

 

「言わない」

 

「言え」

 

「言わない」

 

小さな言い合いが雪に消える。

それがデートみたいで、胸が痛む。

 

病院の灯りは、もう遠い点だ。

 

「行くぞ」

 

「うん」

 

二人分の足跡が、雪の上に並んで伸びていく。

止まったら終わる。

 

だから二人は止まらないまま夜へ消えていった。

 

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