02 焦燥
診察はそれで終わった。
医者は薬包をいくつか渡し、「眠れるように」とだけ言って、ベッド脇のカーテンを引いた。
看護師が椅子を一つ出してくれたが、腰を下ろすほどの余裕はなかった。
ケイリは立ったまま、シイナの呼吸を数えた。
「ケイ、帰っていいよ」
毛布の中からシイナの声がする。明るくしようとしている声だと分かる。分かるから腹が立つ。
「帰るわけないだろ」
ケイリは笑ってみせた。笑い方を忘れたみたいな笑いで。
「……おまえ、笑う元気も、俺を追い返す元気もあるのかよ」
「あるある」
シイナは小さく笑った。
「だって、ケイがここにいると、私――」
言いかけて、止まる。
右手で頬をふと触って、言い直した。
「安心しちゃうから」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ刺さった。
「安心しとけ。俺がいると世界が平和になる」
「なにそれ」
シイナが笑う。その笑い声が病室の空気を一瞬だけ温める。
けれど笑いのあと、シイナは短く息を吸った。肩がわずかにすくむ。
うなじのあたりに痛みが走ったのが、見るだけで分かった。
それでも彼女は「平気」と言いたくて、右手が頬へ伸びかける。
途中で止まり、代わりにペンダントの鎖を指でたどった。
ケイリは、その仕草に気づかないふりをした。
「……霜根草、採るの楽しかったか?」
問いがずれているのは自分でも分かった。
シイナは目を閉じたまま、少しだけ間を置いてから答えた。
「父さん、霜根草の見分け方さ」
シイナは続けた。声が眠りに沈んでいく。
「根の匂い、嗅いで覚えろって。……ケイにも教えたかったのに」
「教えてもらわなくても、俺が勝手に奪う」
「なにそれ。……怖い」
「怖くねぇよ」
ケイリは笑ってみせた。
「俺は釣りくらいしか取り柄がないからなぁ」
シイナが小さく笑う。
「ケイの釣った魚、好き」
その一言で、胸がほどけた。ほどけて、また痛んだ。
好き、という言葉が、もしこの先なくなるなら。考えた瞬間、息が止まりそうになった。
「……寝ろ」
ケイリは言った。少し乱暴に。
「寝て、明日になったら――明日になったら、もっと元気になってる」
シイナは返事をしなかった。目を閉じたまま、呼吸がゆっくりになる。
眠りに落ちる直前、彼女は小さく呟いた。
「ケイ……」
「ん?」
「……ありがと」
ケイリは返事をせず、毛布の端をそっと直した。
その指先が、うなじに触れそうになって慌てて引っ込めた。
触れたら、何かが始まってしまう。理由もなく、そう思った。
看護師が消灯の札を出しに来た。
「面会はここまでね。廊下で待っててください」
ケイリは頷き、病室の外へ出た。
戸が閉まる。木の扉が立てる音が思ったより重い。
廊下には長椅子があった。窓からは雪明かりが差して、板床に青白い帯を落としている。
壁にもたれて腕を組む。目を閉じると、うなじの蕾が瞼の裏に浮かぶ。
薄い光。あの輪郭。あれがある限り、これは“助かった”ではない。
薬棚の方から、医者が戻ってきた。白衣の裾が床板を擦る。
「先生」
医者は足を止めた。疲れた目でケイリを見る。
「……なにか」
「さっきの」ケイリは喉を鳴らした。
「あれ、なんなんですか。……人に生える、蕾みたいな――」
医者は一拍、沈黙した。
「様子を見る」
「なんで」
医者は答えなかった。代わりに窓の外の吹雪を見た。
吹雪は変わらず、白く、容赦なく降っている。
「今日は冷えがきついな」
それだけ言って、医者は歩き去った。
ケイリは握った拳を開いた。爪の跡が掌に白く残っている。
夜が深まる。
病室の扉の向こうは静かだった。
扉の前まで行って、戻る。その繰り返しだけで時間が溶けた。
覗けば、シイナは笑って「だいじょぶ」と言う。――その言葉に縋ってしまいそうで覗けなかった。
雪が弱まったころ、窓の外が少しだけ白さを変えた。夜明けの色だ。
病院の中もゆっくりと音を取り戻していく。誰かが戸を開ける。湯を沸かす。小さな話し声。
ケイリはようやく長椅子に腰を下ろした。座ると身体の重さが一気に落ちてきた。
眠気が足首から這い上がってくる。それでも目を閉じなかった。
「……シイナ」
呼ばない声で呼ぶ。
そのとき、病室の中で布が擦れる小さな音がした気がした。
起きたのか。苦しいのか。――あるいは、ただ寝返りを打っただけか。
ケイリは立ち上がりかけて、止まった。
嫌な予感が沈む。
この夜が終わったとしても、終わりじゃない。
ここから先、もっと何度も、こういう夜が続く。
そう思った瞬間、ケイリは初めてほんの少しだけ理解した。
医者が「様子を見る」と言ったのは、治るからじゃない。
“待つしかない”からだ。
――待つしかないなら。
ケイリは扉を見た。木の扉。薄い板一枚。向こう側に、シイナ。
そして、あの蕾。
待つしかないなら、待たない。
その決意だけを夜明けの白さの中で握り直した。




