14 返り花
蕾は――もう“皮膚の下”じゃなかった。
うなじの盛り上がりが裂けて、淡い光がそこから滲んでいる。
破れた皮膚の隙間から、赤が覗いていた。花の色だ。
今にも、開く。
「なんで……」
腕の中のシイナは軽い。軽すぎる。
頭がぐらりと揺れて、髪が頬にかかる。
目が――はっきりしていない。
シイナは焦点を合わせる代わりに、手を伸ばした。
探るみたいに、確かめるみたいに。
指先がケイリの頬に触れ、鼻筋に触れ、まぶたの端をなぞる。
「……ケイ?」
呼び方が、昔のままだった。
ケイリは笑おうとした。
笑って安心させるのが、癖になっている。
けれど声にならない。
シイナの指が止まる。ケイリの頬の濡れた場所で。
「……泣いてるの……?」
「泣いてねぇ」
嘘だ。
泣いてる。
でも泣いてるって言えば、シイナが自分のせいだと思う。
シイナは息を一つ置いた。
苦しい息を、なるべく小さく隠すみたいに。
「……ごめんね」
「……苦しめちゃって」
喋りすぎないように、言葉を短く切っているのが分かる。
その気遣いが、痛い。
「私が……はやく、離れてれば……」
「言うな」
強い声が出て、ケイリは自分で驚いた。
怒鳴りたいわけじゃない。止めたいだけだ。
その先の言葉を、聞いたら終わる気がした。
シイナは少しだけ目を細め――いや、細めるほどの力もなく、
ただ口元だけで笑った。
「……デート、楽しかったよ」
楽しいって言葉が別れの準備みたいに聞こえる。
ケイリは息を吸う。
吐いたら崩れるから、吸う。
「俺も……」
声が掠れる。
「俺も楽しかった。シイナと出会ってから、ずっと……」
言葉が止まらない。止めたら、間に“終わり”が入る。
「離れるなんて言うな。……言わないでくれ」
シイナは答えない。
答えられないのか、答えないのか。
ケイリは抱える腕に力を入れ直した。
ここで離したら、もう戻せない。
「ずっと一緒だ」
声が震える。
震えたまま、言い切る。
「……ずっと、だ」
シイナの指が、もう一度ケイリの頬を探る。
泣いている場所を確かめるみたいに。
「……ケイ」
その声が小さすぎて、消えそうで。
ケイリは顔を近づけた。
近づけるとシイナの息が冷たい。
冷たいのに安心する。ここにいる、と分かるから。
そして、唇が触れた。
驚くほど冷たかった。
雪が落ちる。
林が静かになる。
その瞬間――
うなじの蕾が、音もなく裂けた。
裂け目は小さい。
最初は、ただ皮膚の線がひとつ増えただけみたいで。
けれど薄い光が濃くなる。
月明かりみたいだったものが、内側から押し出されて、白さが骨の奥まで染みてくる。
シイナが息を止めた。
苦しいのか、痛いのか。
どちらとも言えない顔で、ただ一瞬だけケイリの外套を掴む。
掴むというより、沈める。
“ここにいる”を確かめる触れ方。
「……やだ」
ケイリの口から勝手に出た。
何がいやなのかも言えない。
言えたら、もう戻れないから。
裂け目から赤が覗いた。
血じゃない。血の赤より、ずっと濃い。
花の色。
雪の白の中で、ありえないほど鮮やかな赤が皮膚の裏側から世界を見ている。
蕾はゆっくりと外へ出てくる。
破る、というより押し広げる。
皮膚が抵抗して、音のない悲鳴を上げている気がした。
そのたび、シイナの喉が小さく鳴る。
痛みを飲み込む音。
赤い花弁が、ひとひら、雪に触れた。
触れた瞬間、雪が溶ける。
溶けた水が赤を汚さない。
赤は赤のまま、そこにいる。
花が開く。
ひらく、ひらく、ひらく。
一枚ずつ、慎重に。
まるで時間を惜しむみたいに。
咲いた花は、ひとつだけだった。
大きい。
うなじから生えたというのに首を覆うみたいに広がって、赤が夜明けみたいに咲き誇る。
その中心は暗く、深い。
底に吸い込まれる黒さではなく、赤を支えるための影。
そして、シイナの身体から――力が抜けた。
倒れる、じゃない。
終わる、という感じだった。
「……シイナ」
ケイリが呼ぶ。
呼んで返事が来るはずだと、まだどこかで思っている。
そう思ってしまう。
シイナの唇がわずかに動いた。
けれど声は出ない。
代わりに息がひとつ落ちた。
ただの、静かな吐息。
赤い花が、雪の中で、ひとつ。
死者が本来の場所へ返る。
――返り花が咲く。




