10 猟師
男は周りを一度だけ見回し、音を探るみたいに首を傾けた。
枝の揺れ。雪の落ちる音。風の筋。――何もいない、と確かめてから、音を殺して近づいてくる。
「……大丈夫か」
ケイリはシイナを庇うように身を前へ出したまま、喉を鳴らした。
「……誰ですか」
男は視線を外さずに答えた。
「あぁ。俺は猟師をやってる」
それから、少しだけ面倒そうに顎を動かす。
「お前の声が、うるさかったからな……ケガしたのか」
言いながら、男の目がケイリの腕の雪汚れを追い、すぐにシイナへ移る。
その移り方が、迷いのない“見分け”だった。
「お前じゃねぇな……彼女か」
男が一歩、シイナへ寄る。
「触るな!」
ケイリの声が裂けた。
男は止まった。止まってから、肩をすくめる。
「触らねぇよ」
淡々とした声のまま、手のひらを軽く上げる。
「……ちょっと見せろ」
男は背負っていた狩猟道具を、雪の上に落とした。
刃も、鉄も、音も――全部、わざと見える場所へ。
安全だ、と言葉じゃなく動きで示してから、ゆっくりしゃがみ込む。
近づき方が、怖かった。
慣れている。怪我人に。動けないものに。死にかけの人間に。
男はシイナの肩口を見て、頬の傷を見て、呼吸の浅さを見る。
そして最後に、髪の隙間へ目を滑らせた。
うなじ。
男の目が、そこで一瞬止まる。
止まって――ほんの一瞬だけ、悲しそうに細くなった。
「……やっぱりか」
呟きは小さかったのに、雪の中ではやけに響いた。
ケイリも、釣られるように目を向ける。
蕾は――もう、隠せなかった。
うなじから盛り上がって、皮膚の下の“形”が外へ外へと寄っている。
月明かりみたいな光が、前より強い。
そして、その光の内側。裂け目の前で――赤が、覗いていた。
真っ赤な、花の色。
皮膚の内側から、世界へ出る場所を探しているみたいな色。
ケイリの肺が、音を忘れた。
男が立ち上がり、ケイリを見た。
「……もうあまりないな」
「なにがっ」
分かっている。分かっているのに、口が勝手に反抗する。
受け止めたら、そこで終わる。
「お前になにが分かる……!」
声が荒れる。息が荒れる。
「治る、治せる。俺が――」
男は表情を変えない。
怒りにも、泣き声にも、慣れている顔だった。
「お前が騒いで、何になる」
一言で、空気が落ちた。
怒鳴る力だけ抜け落ちて、ケイリの喉に声が引っかかる。
黙るしかない。
黙った途端、周りの音が戻ってくる。風。枝。雪の粒。
シイナが、うっすらと目を開けていた。
虚空を見ている。見えているのかも分からない目で。
ケイリは唇を噛み、感情を殺した。
殺さないと、崩れる。
「……なにか、知ってるんですか」
息を整える。
「この蕾のこと」
男は答えなかった。
代わりに、落とした荷物へ手を伸ばし、縄を掴む。
「……行くぞ」
「教えてください。お願いします。シイナは――」
「俺が担ぐ」
男は言い切って、ケイリの言葉を切った。
冷たくない。優しくもない。
“手段”の声だった。
男は布を抜き、シイナと自分の背の間に挟む。
熱が直接届かないように。
手慣れた動きでシイナを背負い上げ、縄を回し、肩と胸で固定していく。
揺れない。落ちない。逃げない。
ケイリはそれを見て、身体の奥が熱くなった。
希望じゃない。
希望に似た、現実だ。
この男は“知っている”。だから手が迷わない。
「どこへ」
男は背負ったまま、簡潔に返した。
「俺の家だ。日当たり悪くて、ここよりは休める。すぐそこだ」
日当たり。
その言葉だけを、ケイリは握った。
影が濃い場所へ行ける。今はそれでいい。
男が背中越しに声を落とす。
「嬢ちゃん。少し揺れるぞ」
シイナの返事はない。
眠ろうとしているのか、落ちているのか。分からない沈黙。
男はそれ以上何も言わず、歩き出した。
「急ぐぞ」
ケイリは一歩遅れて、影を踏む。
男の歩幅は大きい。雪を割る音が一定で、迷いがない。
慣れた森の歩き方だ。日向を避け、木の影を選ぶ。
「あの……あなたの荷物は」
ケイリが言うと、男は振り返らずに返した。
「そんなもの、後で取りに来ればいい」
その返答に、何かが混ざっていた。
優しさかもしれない。
あるいは、捨て慣れた諦めかもしれない。
ケイリは黙って背を追う。
そのうち、空気が変わった。
風が少し湿って、最初の一粒が頬に触れた。
冷たい、と感じる前に溶ける小ささ。
次の粒が肩に落ち、外套の布に白い点を作る。
雪が――また、降り始めた。
さっきまでの青空が嘘みたいに、空の色が薄くなる。
木々の間を、白いものが静かに縫って落ちてくる。
音は増えない。むしろ、森が少しずつ黙っていく。
男の背中の縄。揺れない重み。
その上にいるシイナ。
雪が、少しだけ濃くなる。
白い粒が、影の上にも落ちて、影の輪郭をぼかしていく。
やがて、木々の隙間に“家”が見えた。
森に押し込まれるように建っている。屋根が低く、壁が広い。
古い。けれど、形がしっかり残っている。
人が暮らしていた“器”の大きさが、そのまま残っていた。
男が言った。
「……着いた」
ケイリは息を吸った。
雪の降る音も、風も、全部その胸に入れて。
――まだ終わらせない、とだけ思った。




