01 雪夜
吹雪の夜、村の道は音を吸っていた。
風が家々の軒先を叩くたび、白い粉が舞って視界の端が消えていく。
村の病院――といっても木造の平屋だ。窓の内側で揺れるランプの明かりが、薄いカーテン越しに滲んでいた。
古い板戸には霜が張りつき、触れた指先が一瞬で冷えた。
戸を押すと、きしむ音がした。その音だけがやけに大きくて、自分がここへ来たことを世界に告げてしまったみたいだった。
中は薬草の匂いがした。乾いた根を砕いたような、苦い匂い。
消毒薬の刺激に混じって、どこか土の湿りが残る。
ケイリが最初にここへ駆け込んだのは、救助されたその晩だった。
霜根草を採りに山へ入った父娘が吹雪で遭難し、戻ったのは娘のシイナだけ――父親はまだ戻っていない。
「シイナは!? シイナは……!」
声が割れた。自分の声だと分かるのに、まるで他人の叫びみたいだった。
受付にいた看護師が何か言った。
言葉が耳に入る前にケイリは廊下へ飛び出していた。靴が床板を鳴らす。追い立てるような足音が自分をさらに急がせる。
廊下の奥で、彼女は生きていた。
ベッドの上。毛布にくるまり、頬を赤くして笑っていた。
その笑顔があまりにいつも通りで、ケイリは一瞬、吹雪も捜索も、父親を呼ぶ声も、全部夢だったんじゃないかと思いかけた。
「ケイ」
その一言で、膝が笑った。
生きてる。喋ってる。笑ってる。――それだけでよかった。
「……おまえ、ほんと」
言いかけて、続きが見つからない。叱りたいのか、泣きたいのか、抱きしめたいのか。全部が混ざり、言葉だけが遅れてくる。
シイナは困ったように笑って、ペンダントに指を添えた。鎖の先、小さな飾りが毛布の上でかすかに揺れる。
母の形見だと昔聞いた。
彼女は不安になるとそこを触る。ケイリはそれを知っている。知っているから、余計に痛む。
その夜、ケイリは彼女のうなじに小さな蕾があるのを見た。
髪の隙間から、皮膚の下がわずかに盛り上がっている。
薄い光を含んだみたいな輪郭が透けて、そこだけ、雪明かりが皮膚の内側に溜まっているように見えた。
冷たくて、遠い薄光だった。
触れたら、折れてしまいそうな――生き物の形。
「……それ」
声が思ったよりも小さかった。
言葉にした瞬間、それが現実になってしまう気がして、ケイリは自分で自分の喉を押さえたくなった。
シイナは、「なに? 寝癖?」
と笑った。明るい声。いつもの調子。
そして笑いながら、右手で頬を、ふと触った。まるでそこに見えない糸が張っていて、指先で確かめないと声が出せないみたいに。
ケイリはその仕草を見て、何かを言い返せなかった。
寝癖。そういうことにしてくれるのか。そういうことにしてほしいのか。
どちらか分からないまま、頷くことも否定することもできずに立ち尽くす。
医者が入ってきた。年配の男で村の人間なら誰でも顔を知っている。
冬の夜でも背筋をまっすぐにして、目だけが疲れている。
「……よく戻ったな」
医者はシイナに向けて言い、ケイリには目を向けなかった。
触診の手がうなじへ伸びかけて、途中で止まる。
指先が空を切り、代わりに脈をとる。額に手を当てる。胸の上下を見る――見るだけだ。
「先生、それ……」
ケイリが口を開くと、医者は短く息を吐いた。
「凍傷でも腫れでもない」
それだけだった。言い切って、他の言葉を入れない。
説明ではなく境界線みたいな言い方だった。ここから先は踏み込むな、と。
「じゃあ、なんなんですか」
医者は答えず、薬棚の方へ目を逃がした。逃げたのが分かったからケイリは余計に追いかけたくなる。
「父親は?」
その問いだけは医者が先に口にした。シイナではなく、ケイリに向けて。
「……まだ」
短い答え。たった二文字で、部屋の温度が下がった気がした。
シイナは笑った。笑ってしまったみたいに。
「父さん、帰ってくるよ。あの人、しぶといし」
言いながら、また右手が頬に触れた。ほんの一瞬。逃げ道みたいに。
ケイリは笑ってみせた。ここで沈んだら、シイナが沈む。だから明るい声を作る。
「だな。あの人なら、雪の中でも寝て起きて帰ってくる」
自分でも薄い冗談だと思った。
それでもシイナが笑ったから、ケイリはそれでよかった。
――よかったはずなのに。
うなじの蕾は、薄い光を含んだまま、黙ってそこにいた。
まるで、雪の夜にだけ見える何かが、彼女の内側で芽を出しているみたいに。




