証言
翌日、私はビジネスホテルから出社した。
前夜の判断が正しかったのかどうかは分からない。ただ、あの部屋に戻らなかったという事実だけが、頭の中に残っていた。
午前中のうちに、取材という名目でいくつかのアポイントを取った。
昨年、社内表彰を受けたこともあり、編集長からはある程度の裁量を認められている。その日の午後は、ほぼ自由に動けた。
最初に向かったのは、伊藤という男性の親族だった。
郊外のニュータウンにある団地の一室で、初老の男性が私を迎えてくれた。中村と名乗った。
事情を説明すると、中村は少し間を置き、思い出すように話し始めた。
伊藤は、切れ者だったという。
仕事ができる一方で、細かいことによく気がつき、周囲に口を出すことも多かったらしい。
煙たがられることもあったが、結果を出す人間だった。
マンションを購入したのは四十代の半ばだった。
独身で、金の使い道も特になく、新築の部屋をほとんどローンを組まずに買ったと聞いている。
私は、本題に入った。
伊藤の死因について尋ねると、中村は驚いた様子も見せずにうなずいた。
伊藤の死因は自殺だった。
理由は分からない。
少なくとも、周囲から見て思い詰めているようには見えなかったという。
そこまで話すと、沈黙が落ちた。
帰り支度を始めたとき、中村がふと思い出したように言った。
「そういえば、管理組合の仕事に、やけに熱心だったな」
私は、その言葉を胸の内で反芻しながら、中村の家を後にした。
次に向かったのは埼玉だった。
林という実業家の、かつての知人に会うためだ。
指定された店に着いたのは、すでに夜だった。
個室に通され、ほどなく宇山という男性が現れた。六十代だと聞いていたが、背筋が伸び、若々しい印象だった。
挨拶を済ませると、宇山は静かに言った。
「どうしても、説明がつかないんです」
林は、仕事が順調だった。
少なくとも、宇山の知る限りでは、事業に行き詰まっている様子はなかった。
夫婦仲も悪くなかった。
仮に追い込まれていたとしても、二人揃って死ぬという選択は、林らしくない。
宇山の話には、断定はなかった。
ただ、「納得できない」という感情だけが、一貫していた。
それ以上の具体的な話は出なかった。
時計が二十二時を回ったところで、その日は切り上げた。
その夜は、埼玉のビジネスホテルに泊まった。
部屋で資料を整理しているうちに、ふと、あのマンションの売買記録が気になった。
改めて調べ直すと、過去の取引の多くが、林が亡くなる直前に集中していた。
一部屋ではない。
複数の部屋が、ほぼ同じ価格帯で、短い期間に動いている。
ネット上の情報からは、購入者の名前までは分からなかった。
ただ、時期と金額を考えると、林以外の人物を想定するのは難しかった。
何のために、あれほどの部屋を買ったのか。
管理のためか、投資か、それとも別の理由か。
答えは出なかった。
ただ、伊藤も、林も、マンションの運営や管理に深く関わるようになってから、急に状況が変わっている。
私は、ノートを閉じた。
調べれば調べるほど、個人の感情や善悪とは別の場所で、
物事が処理されていく仕組みのようなものが、少しずつ輪郭を帯びてくる。
それが、誰の判断で、どこまで意図されたものなのかは、まだ分からなかった。




