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近藤

 引っ越してから数週間が経った。


 マンションで特別な出来事は起きていない。夜は静かで、隣室の生活音もほとんど聞こえなかった。事故物件として想像されがちな不気味さはなく、拍子抜けするほど普通だった。

 引っ越しのあいさつで同じ階の住人宅をすべて訪問した。全体的にやや年齢層が高めではあったが、ごく普通の人たちばかりだった。それ以来、挨拶、世間話をするくらいの関係性になった。


 それでも、第九条のことは頭から離れなかった。記者という職業病的なものなのかもしれない。


 仕事中、別の記事の資料をめくっているときに、ふとした拍子に思い出した。

 以前、編集部で読んだ小さなコラムだ。内容は曖昧で、確か「引っ越してくると死ぬ呪いのマンションがある」といった類の話だったと思う。


 書いたのは、近藤だった。


 彼とは同じ編集部にいたことがある。部署は違ったが、廊下ですれ違えば軽く会釈を交わす程度の関係だった。怪談や都市伝説を好んで書くライターで、信憑性よりも雰囲気を優先するタイプだった記憶がある。

 昨年だったか、若くして亡くなったと聞いている。詳細はほとんど聞かされていない。家族葬となったため、式への参列がなかったので、申し訳ないが亡くなったことへの印象が薄い。


 彼が書いた記事は、当時それほど話題にならなかったと記憶している。

 確かその記事は夏の心霊特集のような小さなコーナーの中で、それもほとんどミニコラムのような扱いだった。

 内容も具体的な地名や建物名は伏せられており、検証も甘い。編集部内でも、「眉唾もの」として扱われていたはずだ。

 

 昼休み、私は社内の資料室に向かった。

 バックナンバーのデータベースに、近藤の名前を入力する。ヒットした記事は数本あった。その中に、記憶に残っていた原稿があった。


 タイトルは「呪いのマンションは実在する!?」という平凡なもので、内容も、やはり曖昧だ。


 あるマンションに引っ越した人間が、なぜか短期間で亡くなる。事故や自殺として処理され、共通点は見当たらない。ただ、住人が入れ替わるたびに、同じことが繰り返される――そんな書き方だった。


 場所は特定されていない。

 都内とだけ書かれている。


 私は、画面を見ながら小さく息を吐いた。


 正直にいうと近藤の記事を読む前は少しワクワクしていた。呪いのマンションが自分の新居だったらと。


 しかしながら、私が住んでいるマンションと結びつける根拠は記事からは読み取れなかった。そもそも事故物件は珍しくないし、曖昧な怪談も世の中には溢れている。それに近藤の記事は文章だけの記事であり、さらに該当するマンションを特定できるような具体的な情報はほとんどなかったのだ。


 そんな中でも、気になった点が一つあった。


 近藤の記事には、管理規約についての言及があった。

 「住民に配布される文書が、妙に頻繁に更新されている」という一文だ。具体的な条文番号は書かれていないが、規約そのものが「何かを隠すために使われているように見えた」と締めくくられている。


 読み終えた私は、画面を閉じた。


 編集部に戻り、近藤の記事を担当していた部署に連絡を入れた。

 「昔の原稿の件で、何か資料が残っていないか」とだけ伝えた。深い理由は説明しなかった。


 電話口の相手は、「何か見つかったら探してみるが、期待しないように」と言った。

 それ以上の会話はなかった。


 私はその日の仕事を終え、マンションに戻った。

 エントランスは相変わらず静かで、掲示板には特に新しい張り紙もない。


 部屋に入ると、机の上に置いたままの管理規約が目に入った。

 第九条のページで、自然と手が止まる。


 まだ、この段階では、確信は何もなかった。


 それを「勘」と呼ぶほど、大げさなものではない。

 記者を続けていると、説明できない引っかかりだけが先に残ることがある。


 私は、その引っかかりを、メモ帳に一行だけ書き残した。


 ――近藤の記事と管理規約。


 それ以上は、まだ何も書けなかった。

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