違和感
そのマンションが事故物件だということは、最初から説明されていた。
不動産業者は、契約書類を机に並べながら、「念のため」と前置きしたうえで、直前の居住者が部屋で亡くなっていることを告げた。事故物件という言い方はあくまで通称であり、正式名称は心理的瑕疵物件だという話を、彼はなぜか説明中に2回繰り返した。
事故物件とはいえ、事件性はなく、警察も介入していない。よくある話だといわれた。
仕事柄、どんな人が住んでいたのをさりげなく聞いてみたところ、守秘義務があり話せないといわれた。
事故物件というだけで、家賃は相場より2万円ほど安かった。
私は長く住むつもりはなかったし、事故物件に特別な忌避感もなかった。取材で何度も、もっと重たい場所を見てきた。
その後、業者と共にその物件に向かった。外観は少し古いタイプ、築20年ほどのマンションだったが、エントランスや共有部分はきれいに掃除されていたので、好印象を受けた。
内見の間、業者は、必要以上に部屋の良さを強調しなかった。日当たりや築年数の話(マンションは築28年だったが、数年前に大規模修繕しているため、外観や共有分が奇麗だという話だった)はしたが、周辺環境や住民については触れなかった。
部屋の間取りは2LDKで、日当たりもよく申し分なかった。天井が高かったので、この物件は元々は分譲マンションかと聞いたところ、住民の大半はオーナーであり、一部の部屋は管理組合がオーナーという形で買い上げて賃貸に出しているという話だった。物価高騰前とはいえ、大規模修繕を滞りなく実行できたというだけで、管理組合がしっかりしており、資金も潤沢なんだという印象を受けた。
ほぼ即決という形でわたしはその部屋を契約した。礼金はなく、敷金として割引前の家賃3か月分を支払った。東京都であり、駅まで10分の距離で、引っ越し費用を含め、初期費用は50万もかからなかったのは破格だ。
入居日が決まり業者に行くと、前回と同じ担当者が鍵と書類一式を手渡した。
「管理規約は、必ず全部読んでください」
重要事項説明書の束の中から、薄い冊子を抜き出して指で叩いた。
私はうなずいたが、その時点では深く考えていなかった。形式的な注意だろうと思った。
引っ越しは簡単だった。記者という仕事柄、私は荷物は少なく、家具も最低限しか持っていない。玄関のドアを閉めたとき、廊下に人の気配はなかった。静かだったが、不自然なほどではない。
その日の夜、段ボールを片付ける気にはなれず、机にノートパソコンと管理規約だけを出した。仕事柄、こういう文書を読むのは苦ではない。むしろ、癖のようなものだ。
管理規約は、ごく普通の内容だった。
共用部分の使用、ゴミ出し、ペットの禁止。どこのマンションにもある条文が並んでいる。文章も無難で、特に引っかかるところはない。
第九条に差し掛かるまでは。
見出しはこうなっていた。
――第九条(円滑な共同生活のために)
表現自体はありふれている。ただ、読み進めるうちに、文体が微妙に変わっていることに気づいた。前後の条文と比べて、言い回しが固かったり、やけに柔らかかったりと統一感のない印象を受けた。また、主語が曖昧で、判断主体がぼやけている。なんというか、歯にものが挟まっているような言い回しだ。
さらに気になったのは、改定履歴だった。
第九条だけ、異様に多い。
数年おきに、何度も手が入っている。しかも、改定理由はいずれも同じ文言だった。
――円滑な共同生活のため。
私は管理規約をもう一度最初から読み直した。
内容自体に、露骨な違和感はない。9条に関しても、細かいとは感じるが、そういうものだといえば割り切れる程度の話だった。
気にしていないつもりだったが、やはり事故物件だから、神経質になっているだけかもしれない。
この時点では、まだ記事にするつもりはなかった。
ただ、記者としての習性で、引っかかったものを備忘録的に覚えておこうと思っただけだ。
その後、夕食を買うために近くのコンビニに行き、新居になるマンションを眺めた。9時前だというのに、部屋の明かりは疎らだった。




