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第9話 軍神の証明

王は常に"先"を見ていた。ホルシュタインの勝利に兵たちが酔いしれる間も、彼の目はすでに海の向こうを射抜いていた。


朝霧の残る作戦室。地図に覆われた机の前で、王は私を呼んだ。


「準備を始めよ。次はデンマーク本土だ」


私は目を疑った。


「……本土でございますか」


「そうだ」


彼は地図の一点を指で叩いた。コペンハーゲン。


「今デンマークは戦力の大半をホルシュタイン方面に注いでいる。王都の守りは、今が最も手薄だ。風が変わる前に、海を越えて落とす」


その言葉に、私の心は凍った。あまりにも早い。補給も再編もままならぬ中、冬の海を越え、敵の首を狙うなど——無謀に思えた。


「……危険が過ぎます」


彼は私をまっすぐに見据えた。その蒼き双眸には、氷よりも冷たく、火よりも強い光が宿っていた。


「無謀と皆は言うだろう。だが、機は待ってはくれぬ」


彼は地図から目を離さなかった。


「前にも言っただろう。余を信じろ」


私は——何も言えなかった。ただ、彼の背中に再び命を預けることを決めた。


聞き耳

だが、軍はそう簡単には動かなかった。


その夜、私は王の命で作戦室に書類を取りに戻った。扉に手をかけたとき、中から声が聞こえた。


将軍たちの声だった。


私は手を止めた。


「……正気とは思えんな」


レーヴェンハウプトの声だった。砕けた口調だが、その声には苛立ちが滲んでいた。


「冬の海を渡る? いや、いくらホルシュタインで勝ったからって、そりゃあ調子に乗りすぎだろう」


「レーヴェンハウプト」


老将レーネの声が響いた。落ち着いた、低い声。


「言葉を選べ」


「おいおい、レーネ。ここには陛下はいないんだぜ? 本音で話そうや」


「……」


「あんたもそう思ってるんだろう? まさか、本気で冬の海を越えるのが正しいなんて思ってないよな」


「私は、陛下の判断を信じている」


「信じる? 何を根拠に?」


レーヴェンハウプトの声が鋭くなった。


「ホルシュタイン一つだぞ、レーネ。たった一つの戦だ。確かに、氷の川を渡ったのは見事だった。夜襲も完璧だった。だが——」


彼は息をついた。


「——それだけで、"軍神"だの何だのと祭り上げるのは早すぎる。運が良かっただけかもしれん」


「運、か」


レーネの声は静かだった。


「お前は、あれを"まぐれ"だと思うのか」


「まぐれとは言わんさ。だが、確信も持てない。陛下はまだ若い。経験も浅い。俺たちベテランの意見をもっと聞き入れるべきだ」


「陛下は聞き入れなかったのか」


「聞きはしたさ。だが、最終的には自分の判断を押し通した。まあ、王ってのはそういうもんだが——」


沈黙が落ちた。


「レーヴェンハウプト」


レーネが言った。


「お前の懸念は理解できる。だが、私は三代に渡ってこの王国に仕えてきた。カール十一世も、その父も見てきた。そして今、この少年王を見ている」


「……で?」


「あの方は——ただの少年ではない。あの目を見ろ。あの背中を見ろ。戦場に立つ者の目だ。十代とは思えぬ」


「それで海を渡れるのか?」


「分からん」


レーネは率直に言った。


「だが、私はあの方に賭ける。それだけだ」


「それって盲信じゃないのか、レーネ?」


「違う」


レーネの声が、わずかに強くなった。


「信じることと、盲信することは違う。私は、あの方を見て、感じて、その上で判断している。お前も、そうすればいい」


「……俺には見えないんだよ、あんたが見てるものが」


レーヴェンハウプトの声には、諦めが滲んでいた。


「まあ、どちらにせよ従うけどな。王命だ。逆らえば反逆者だ。だが——」


彼は声を落とした。


「——もしこれで失敗すれば、俺たちは全滅だ。それだけは、忘れるなよ」


「忘れてはいない」


レーネは静かに言った。


「だが、恐れて動かねば、それもまた滅びだ。アームフェルトがいれば、何と言うかな」


「あの鋼鉄野郎か? きっと『信念を持て』とか何とか、例の説教を始めるさ」


レーヴェンハウプトが苦笑した。


「まあ、あいつなら陛下を信じるだろうな。あいつは、そういう男だ」


「お前も、そうなればいい」


「無理だね」


レーヴェンハウプトはあっさり言った。


「俺は現実主義者だ。見えないものは信じない」


足音が近づいてきた。


私は慌てて物陰に隠れた。扉が開き、レーヴェンハウプトが出て行った。彼は口笛を吹かしながらどこかへ向かってい木、しばらくして、レーネも出て行った。その時に彼の体の巨大さに驚いたが、声を顰めていた。彼は一度、空を見上げてから、去って行った。


私は作戦室に入り、書類を手に取った。


だが、頭の中では将軍たちの言葉が渦巻いていた。


兵舎の囁き

兵舎も同じだった。


私が見回りをしていると、兵士たちの囁き声が聞こえた。


「海を渡るんだとさ。冬の海を」


「正気か? あの嵐の海を?」


「陛下は若い。ホルシュタインの勝利で舞い上がっておられるんだろう」


「いや、でも……あの氷の川は凄かっただろう。あれを見て、まだ疑うのか?」


「一度の勝利で何が分かる。運が良かっただけかもしれん」


「運? あれが運だって?」


「だって、あんな無茶な作戦が成功するなんて——」


「それを成功させたから、凄いんだろうが」


口論が始まりそうになった。


「まあ待て。どちらにせよ、俺たちは従うしかない」


年配の兵士が割って入った。


「王命だ。従わねば反逆者だ。だが——」


彼は声を潜めた。


「——正直、怖い。海は陸と違う。溺れたら、それで終わりだ」


「……俺も怖い」


「俺もだ」


囁き声が広がった。


「だが、行くしかない」


「ああ……行くしかない」


私は黙って聞いていた。止めることはしなかった。


兵たちの不安は当然だった。彼らはまだ、カールを知らない。ホルシュタインでの一度の勝利だけでは、信頼は築けない。


だが、私は知っていた。


あの少年の目を。あの背中を。あの、揺るがぬ確信を。


夜、私は一人で海岸に立っていた。波の音が暗闇の中で響いていた。冬の海は、黒く、冷たく、そして果てしなく広かった。


「怖いか」


声がした。振り返ると、カールが立っていた。


「……陛下」


「お前も怖いのだな」


私は何も言えなかった。彼は私の隣に立ち、海を見た。


「余も怖い」


その言葉に、私は驚いて彼を見た。だが、彼の表情は変わらなかった。


「父上は言っていた。恐怖を感じぬ者は愚者だ、と。恐怖を感じながら進む者こそが、真の勇者だ、と」


彼は波を見つめていた。


「余は怖い。だが、進まねばならぬ。それが王だからだ」


波が岸を打った。その音が、何かを洗い流すようだった。


「……将軍たちの話を、聞いてしまいました」


私は言った。


「彼らは、陛下を疑っております」


「知っている」


彼は静かに言った。


「当然だ。余はまだ何も証明していない。ホルシュタイン一つでは、足りぬ」


「ですが——」


「レーヴェンハウプトの言う通りだ。余は若く、経験も浅い。一度の勝利で、"軍神"などと呼ばれる資格はない」


彼は拳を握った。


「だから、デンマークで見せる」


彼は私を見た。


「余が何者であるかを。余が、この軍を率いるに相応しい者であるかを」


その目には、迷いがなかった。


「レイフ」


「はい」


「お前は余を信じるか」


私は答えた。


「命を預けております」


彼は何も言わなかった。ただ、わずかに頷いた。


それから、彼は海を見た。


「余は、彼らに信じられねばならぬ。軍は、王を信じねば動かぬ。だが、信じさせるには——」


彼は拳を握った。


「——勝ち続けるしかない」


その言葉が、妙に重く響いた。


私は、その横顔を見つめた。まだ幼さの残る顔。だが、その目には——


何かが宿っていた。


冬の海

出港は翌朝だった。


結局、全軍が従った。だが、それは信頼ではなく、義務だった。


ホルシュタインから出港した小型船団は、冷たい冬の海に揺さぶられた。波が船体を打ち、しぶきが甲板を洗った。寒さで舵を取る手がかじかみ、兵士たちの顔には緊張と疲労が張りついた。


船酔いで倒れる者もいた。吐瀉物の匂いと海水の匂いが混じり、甲板は地獄のようだった。


「……本当に大丈夫なのか」


誰かが呟いた。


「陛下は若い。もし判断を誤れば——」


「黙れ」


別の兵士が制した。


「だが、実際——」


「黙れと言っている」


だが、その声にも不安が滲んでいた。


その中で、王は常に甲板に立っていた。


凍える風が髪を吹き乱し、氷の粒が顔を打っても、彼は進路から目を離さなかった。副官が「船室にお戻りを」と勧めても、彼はただ一言、


「余が先に退けば、誰がこの艦を信じる」


そう言った。


私は彼の隣に立った。波が高くなり、船が大きく傾いた。私は手すりにつかまったが、カールは微動だにしなかった。


「陛下、お身体が——」


「大丈夫だ」


彼の声は静かだった。


「余は、この海を読んでいる」


私は彼を見た。その目は、波を、風を、雲を見ていた。


「あと三刻で北東風が止む。今の波を使い、岬の陰に船を回す」


「……それが分かるのですか」


「父上に教わった。戦だけではない。海も、風も、すべてを読めと」


波が船を打った。だが、彼は揺るがなかった。


「伝令を出せ。全船、岬の陰を目指す。敵の警戒線を破る必要はない。潜り抜ける」


私は頷いた。


伝令が各船に伝えられた。だが、兵士たちの目には、まだ疑念が残っていた。


「……本当に、読めているのか」


「もし間違っていたら——」


囁き声が消えなかった。


上陸

その判断は完璧だった。


三刻後、風が止んだ。波が穏やかになった。


船団は岬の陰を回り、月もない夜、波と風に溶けるように陸へ近づいた。上陸地として選ばれたのは、コペンハーゲンの南、小さな漁村の入江だった。監視も浅く、海流も穏やか——だが、夜の到着が条件。時間がずれれば、潮で船は座礁し、すべてが水の泡になる。


だが王は、それすらも読み切っていた。


船が砂浜に乗り上げる音がした。兵士たちが静かに上陸し、凍った砂の上に足をつけた。


誰もが、生きて陸に立てたことに安堵していた。


そして——気づき始めていた。


「……風が、本当に止んだ」


「時間も、完璧だった」


「陛下は……本当に読んでいたのか」


囁き声が広がった。


老将レーネが砂浜に立ち、空を見上げた。


「……信じられん」


彼は呟いた。


「あの嵐の海を、読み切るとは」


レーヴェンハウプトも、黙って海を見ていた。その顔には、驚愕と——わずかな畏怖が浮かんでいた。


「……こいつぁ驚いた」


彼は呟いた。


「この王、マジだな」


私は砂浜に膝をつき、砂を掴んだ。それは冷たく、湿っていた。生きている。私は生きている。


「レイフ」


カールが私の隣に立った。


「潮が満ちれば、後続も来る。敵はすぐには気づかぬ。だからここで叩く」


私は頷いた。


「陛下の読みは、完璧でした」


「——まだだ」


彼は海を見た。


「勝って初めて、正しかったと言える。負ければ、すべてが無謀だったと言われる」


その声には、強さと、わずかな不安が混じっていた。


私は改めて彼を見た。月明かりの中で、彼の影が砂浜に長く伸びていた。


その影は、まるで別の何かのようだった。


そして——兵たちの目が、変わり始めていた。


囁き声が聞こえた。


「……陛下は、本当に見えているんだ」


「海を、風を、すべてを」


「あれは——人間じゃない」


「軍神だ」


疑念が、畏敬に変わる音がした。


カールは、一歩ずつ、"軍神"への階段を登り始めていた。


だが——まだ、完全ではなかった。


「……でも、まだ分からない」


誰かが呟いた。


「戦に勝たねば、意味がない」


「そうだ。上陸できただけでは——」


不安は、完全には消えなかった。


夜明け前の静寂

兵たちは入江の周辺に潜んだ。誰も声を出さなかった。ただ、波の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえた。


私は木立の陰で剣を握りしめていた。手が震えていた。寒さのせいか、恐怖のせいか、自分でも分からなかった。


空が白み始めた。


カールが立ち上がった。


「時だ」


その一言で、全軍が動いた。


疑念を抱えたまま。畏敬を感じながら。


そして——まだ、完全には信じきれないまま。


私は剣を抜いた。刃が朝日を反射した。


そして、走った。


デンマークの大地を、初めて踏みしめながら。


王が、"軍神"になるその瞬間を——まだ見ぬまま。


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