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第8話 少年王の初陣

あれは、私がまだ宮廷近衛兵となる以前のこと。陛下がまだ王太子として十にもならぬ年端の頃だった。かつて昔から仕える老臣に聞いた話だ。


その年、王都から二日ほど離れたウップランドの野にて、スウェーデン軍の大規模な軍事演習が行われた。私はその警護の末端に立たされていた。


冷たい風が吹く野営地。重厚な甲冑をまとい、馬上にあるのはカール十一世。その背に、まだ柔らかい表情の少年カールがぴたりと従っていた。


父王は無言のまま、戦術地図を広げると、矢印を一本引いた。


「この丘を取るのが鍵だ。敵は必ずここに部隊を隠す」


「なぜ分かるのですか?」


王は一度だけ、地平線の方を見た。そこには木立と川筋があった。


「戦とは、見えぬものを見る技だ。地形、風向き、歩兵の疲労。すべてを読む。そして一手、二手、相手の思考を先に取る。王が王であるためには、剣よりまず目が必要だ」


少年カールはしばらく黙っていた。それから地図に手を伸ばし、小さな指で迂回路を示した。

周囲の空気が変わった。誰も声を出さなかった。王も、動かなかった。


「——お前……見えるか」


カールは顔を上げなかった。


「……はい」


父王の手が、わずかに震えた。それを見たのは、私だけだったかもしれない。


ホルシュタイン=ゴットルプ公国・冬


氷結したエーベ川の岸辺に、スウェーデン王の軍が姿を現したのは、雪の降り止まぬ夜だった。天を突くように高く掲げられた王旗が、吹雪の中で音を立てて揺れていた。

私は隊列の先頭にいた。カールは、私の隣にいた。


「道は閉ざされており、川の橋は砕かれたとの報が入りました。陛下、撤退を——」


「渡る」


即答だった。


「川を……ですか。氷の厚さが、まだ——」


「馬は降り、兵をばらけさせよ。重量を分散すれば進める」


誰も何も言えなかった。だが、全軍が彼の命に従った。

兵たちは沈黙のまま、氷の川を進んだ。靴の下でパキリ……と音がするたび、誰かの呼吸が止まった。だが、誰一人として崩れなかった。

カールは、先頭を行く。剣を抜かず、声を張り上げず、ただ歩いていた。彼の足跡だけが、雪の上に一本の線を引いていた。

渡河に成功すると、雪の斜面を登りながら、彼は振り返った。


「言っただろう、余を信じろ」


それだけだった。兵たちの目が、変わった。


渡河を果たすと、雪の尾根に布が敷かれ、音を封じる支度が進められた。


「敵は火を分散させ、哨戒も甘い。三方から挟む」


「はい、それでは陛下は中央軍の後方にお下がりください」


将の一人が進言した。


「いや余が先陣を行く」


カールの声は、動じなかった。


「ですが、もし陛下に何かあれば——」


「余は死なぬ」


その答えに、誰もが息を呑んだ。

カールは剣を抜いた。刃が月明かりを反射した。


「余はこの戦いで見せる必要がある。兵士たちに、誰が彼らの王か。彼らが誰に従うのか」


彼は馬に跨った。

その目には、何の迷いもなかった。


この瞬間、これまでの疑念が確信に変わった。

陛下は普通の王じゃない。

だが、その違和感が何なのか、まだ私にはわからなかった。


「行くぞ」


カールの声が、雪原に響いた。


「合図は?」


「火矢だ」


王自らが放ったその矢は、敵の帷幕に突き刺さり、燃え上がった。突撃の号令は不要だった。

兵たちは雪を蹴った。

王は軍を三軍に分け、自ら中央軍の先頭を駆け、敵陣を三方から切り裂いた。雪に火が走った。帷が燃えた。馬が悲鳴を上げた。


私は振り返った。そこにいた。王が——先陣で剣を振るっていた。


彼の動きは静かだった。舞うように、斬るように、導くように。血飛沫が雪に落ちるたび、彼の影が長く伸びた。


戦が終わった朝の空は、灰色に淀んでいた。雲は低く垂れこめ、夜に積もった新雪が戦場を覆っていた。隠しきれぬものがある。死臭。焼けた肉の焦げた匂い。馬の血が凍りついた大地に、赤黒く染みをつくっていた。


私は、倒れた兵士たちのあいだを歩いていた。剣を握りしめたまま絶命しているスウェーデン兵の顔が、どこか眠っているように見えた。


その中心に、陛下がいた。彼は地面に膝をつき、剣を地に立てたまま、その刃先を見つめていた。声をかけられなかった。彼の周りだけ、雪が音を立てずに降っていた。

ようやく私が口を開いたのは、数分の沈黙の後だった。


「陛下」


彼はわずかに頷いた。視線は地面から動かなかった。


「これは、余の合図だったな」


低く、しかし震えていない声だった。


「……はい」

カールは何も言わなかった。ただ、死者の顔を一つ一つ見ていた。そのうちの一人、まだ産毛の残る少年兵を見つめた時、彼の表情が一瞬歪んだ。そしてすぐに消えた。


「陛下……」


「余は彼らに謝ることはできない」


彼は立ち上がった。剣を引き抜いた時、刃が雪に触れて、小さな音を立てた。


「できるのは、余を信じた彼らに勝利をもたらし続けることだけだ」


そう言って彼は去って行った。背中が、妙に小さく見えた。

私は一人の若い兵の傍らで足を止めた。まだ顔には産毛が残っている。胸に突き立った矢を握ったまま、笑っていた。その表情に、私は跪いた。


「同胞よ……安らかに」


風が、彼の髪をわずかに揺らした。

夜が明けた。敵軍は壊滅した。捕虜の影に朝日が差し、死者の血が氷に染み込んでいた。

初陣を勝利で飾った若き王の背に、朝の光が差していた。だが私には、彼の影の濃さのほうが目についた。影は、彼の背丈よりも長く伸びていた。



ホルシュタイン=ゴットルプの首都キールに入ったのは、戦から三日後だった。

雪解けにはまだ早いが、街の人々は家々に旗を掲げ、通りに花びらを撒いて我々を迎えた。

老いた神父が跪き、涙ながらに言った。


「神が遣わしたもうた若き獅子よ、我らをデンマークのくびきから解き放ち給うた……」


その言葉に、人々は頭を垂れた。農夫も、商人も、子どもすらも。

王はただ、静かに馬上から首を垂れた。歓声の中でも、彼の表情は変わらなかった。彼の手綱を握る指が、白くなっていた。

貴族たちも面会に現れ、ゴットルプ公は玉座の間で自ら剣を献上した。


「この剣は、ホルシュタインの自由の証です。スウェーデン王よ、あなたの勝利は私たちの希望となりました」


カールは剣を受け取った。それから、言葉を選ぶように間を置いた。


「この剣を余はまだ受け取れない」


公の表情が変わった。


「戦はまだ終わっていない。敵は虎視眈々と我らを睨んでいる。全ての敵を打ち破り、平和を取り戻してから——」


彼は剣を、そっと公の手に戻した。


「——それまでは余とともに戦ってくれ」


その場にいた誰もが、息を止めた。剣を受け取ろうとしない王。それは、自らに課した枷だった。



その頃、コペンハーゲンの王宮では、戦の報が届いていた。

デンマーク王フレデリク四世は、報告書を読み終え、机を乱暴に叩いた。


「どういうことだ。わずか数千の軍で、氷結した川を渡り、夜襲で要塞を落としただと!?」


誰も答えなかった。

同刻、モスクワの宮廷でロシアの使節が重苦しい声で言った。


「彼は、単なる王子ではなかったということですな」


その名を聞いて沈黙していたのは、ピョートルであった。

彼は炉の前で立ち尽くし、報告書を見つめていた。炎が彼の顔を照らしていたが、その目は笑っていなかった。


「……『あの』少年がここまで化けるとはな」


彼は報告書を炉に投げ入れた。紙が燃え上がり、灰になった。


「北の獅子はそう易々とくたばらんらしい」


炎の中に、彼はまだ見ぬ北の王の影を見た。

その日、後の世に大北方戦争と呼ばれる欧州の覇を賭けた戦の火蓋が切られた。

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