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第6話 戦火の門

――1700年、冬。北欧はまだ雪に閉ざされていた。

その朝、コペンハーゲンの王宮では、戦の準備が静かに進められていた。

フレデリク四世――デンマーク王。北海の制海権を掌握しようとした野心家。

彼の眼は鋭く、口元は冷たい笑みに歪んでいた。


「奴はまだ子供です。即位して間もない王子に何ができるでしょう」


そう言ったのは、側近の将軍だった。


「そうだな。十五の若造が"王"などと宣い、我らと同格になった気でいる」


フレデリクは地図の上に手を置いた。

その指は、ホルシュタイン=ゴットルプを指していた。


「ここを叩く。スウェーデンの属国とはいえ、地理的には我が王国の背後にあたる。ここを潰せば、スウェーデンはバルトの影響力を一気に失う」


「……同盟の共同計画とは異なりますが」

「知ったことか。ロシアとポーランドはまだ兵の動員に時間がかかる。カールが愚かにも国内の即位式にかまけているうちに、こちらが先に動く。まだ国内は祝賀気分で政務に手もついていないだろう」

その目には、計算と侮りが宿っていた。

だが――

フレデリクは笑った後、一瞬だけ表情を曇らせた。

(いや、油断はするな)

彼は自分に言い聞かせた。

父王カール11世は、恐るべき王だった。

その血を引く者を、完全に侮ることはできない。

だが――

「まだ十五だ。経験も、判断力も、ない」

そう、自分に言い聞かせた。

恐怖を、笑いで押し殺すように。

「早期に奴らを叩き、余の功績をピョートルやアウグストたちに見せつけてやる。そして、北の獅子とやらに、大人の現実を教えてやろうではないか」

その日のうちに、デンマーク軍は国境を越えた。

寒風が吹きすさび、ホルシュタイン=ゴットルプの石造りの街が白く染まるころ、その門前には、すでに王の軍旗が立っていた。


――ホルシュタイン=ゴットルプ公国

空がまだ青白い霧に覆われていた頃、私はこの国の首都キールの城門下に立っていた。

外気は刺すように冷たく、指先が麻痺していくのを感じながら、私は遠くの森を見つめた。

敵が、そこにいた。

いや、まだ姿こそ見えないが、確かに――「来ている」のだった。

風に乗って聞こえてくる。

焼かれた家屋の木がはぜる音。

泣き叫ぶ女の声。

馬のいななき。

私は、その音を知っていた。

何度も、聞いた。

辺境の戦場で。

そして――

かつて、私の村でも。

胸の奥が、冷えていく。

(また、この音を聞くのか)

修道院の床には、冷え切った石が軋んでいた。

白髪の老女がそれに額をこすりつけ、「神よ……今度ばかりは、もうだめです」と泣き崩れていた。

隣で目を閉じた母が、乳児に乾いた乳首を吸わせながら言った。

「大丈夫。……きっと王が来てくれる」

その声に、誰もが何も言えなかった。

信じたいが、信じるには寒すぎた。

キールから南に延びる道――そこに点在していた小さな村々が、次々と炎に包まれていたのだ。

デンマークの軍靴がすぐそこまで迫っていた。

「隊長殿……民の避難が追いつきません。北門にはもう何百という者が詰めかけて……」

若い兵士が息を切らして走ってきた。

顔にはすすと涙が混じっていた。

「民を守るのが我々の務めだ。全員だ、一人残らずだぞ」

私は答えた。

だが内心、胃が冷たく凍っていくのを感じていた。

兵も武器も、決して十分とは言えない。

砦も古び、壁の一部にはすでに亀裂が走っている。

「スウェーデンの軍は来るのか……?」

誰かがつぶやいた。

見張り台の上にいた老兵だ。

その問いに、誰も即答できなかった。

「本当に来るのか。噂では、宮廷でまだ許可が下りていないと……」

「来ねば... 俺たちはここで凍えるだけだ」

兵たちの間に、静かな絶望が広がっていた。

寒さよりも恐ろしいのは、置き去りにされることへの恐怖だ。

私は城壁に立ち、遠くを見つめた。

(陛下は、来るのだろうか)

いや、来る。

あの方は、民を見捨てない。

だが――

(この戦いが、陛下を変えるのではないか)

私は胸の奥で、何かを恐れていた。

戦場が、人を変える。

血を浴び、死を見て、勝利を知る。

それが、陛下の中の何かを――

あの優しさを、あの無邪気さを――

奪うのではないか。

いや。

(今は、そんなことを考えている場合ではない)

私は頭を振った。

まずは、この街を守らなければ。

陛下が来るまで。

市民の避難所となった修道院では、母親たちが子を抱きながら祈りを捧げていた。

ある老婆は、石畳に手をつき「今度こそ終わりだ」と嗚咽していた。

私は、その光景を見つめた。

そして――

思い出した。

かつて、私の村でも、同じ光景があったことを。

母が、私を抱きしめて祈っていた。

だが――

祈りは、届かなかった。

村は焼かれ、父は殺され、母は――

私は目を閉じた。

(また、繰り返すのか)

この街には、誰もが知っていた。

同盟国であるスウェーデン軍が動かなければ、この国は数日で陥落するということを。

だが私は――

ただ、待つことしかできなかった。


あの夜から、わずか三日後のことだった。

寓話を読んだ夜の静けさは、もう遠かった。


デンマークが動いた。

報告書を手にした密偵が、明け方に王宮へ駆け込んできた。その足音が廊下に響いた瞬間、私は胸の奥が冷えるのを感じた。

私は報告書を受け取り、執務室へ向かった。

扉を開けると、カールはすでに地図を広げていた。


「陛下」


「見たか」


その声は、冷たかった。

あの夜、寓話を求めた少年は、もういなかった。

目の前にいるのは――王だった。


「ホルシュタイン・ゴットルプが攻撃を受けました。デンマーク軍が国境を越え、すでにいくつかの街が――」


「焼かれたか」


カールは地図を見つめたまま言った。


「はい、この後議会にて緊急会議が開かれるようです。」


沈黙。

やがてカールは、小さく呟いた。


「……来たか」


その声には、何かがあった。

覚悟か、それとも――

期待か。

私は息を呑んだ。


その日から、王宮は変わった。

長らく続いた平和が、音を立てて崩れていった。

廊下を走る伝令の足音。

謁見の間で飛び交う怒号。

兵の招集令が次々と発せられ、馬車が王宮と兵舎の間を行き来する。

港では船が整備され、大砲が運び込まれる。

武器庫の扉が開かれ、錆びた剣が磨かれる。


それは――

まるで眠っていた巨獣が、目を覚ましたかのようだった。

市街も慌ただしくなった。

兵士の家族が別れを惜しみ、商人が軍需物資を買い占め、教会では祈りが捧げられる。

子供たちは戦争ごっこをして遊び、老人たちは過去の戦を語った。

だが――


誰もが、不安を抱えていた。

若き王の初陣。

それが勝利で終わるのか、それとも――

誰も、確信を持てなかった。

私は王宮の窓から、その光景を見つめていた。

胸の奥に、重いものが沈んでいく。


(ああ、また戦争か)


私は目を閉じた。


私は、戦争を知っている。

辺境での小競り合い。

焼かれた村。

泥と血に塗れた戦場。

剣を振るい、敵を斬った。

生きるために。

ただ、生きるために。

私に夢も希望もなかった頃、戦場は私の居場所だった。


だが――

だからこそ、私は知っている。

戦争が何を奪うのかを。

父を殺され、母を奪われた。

村が焼かれ、すべてが灰になった。

あの日から、私の中で何かが死んだ。


そして今――

また戦争が始まる。

私は、憂鬱だった。

深い、名状しがたい絶望が、胸を覆っていく。


(また、誰かが死ぬ)


窓の外では、兵士たちが訓練をしていた。

若い兵士が、剣を振るっている。

その顔には、まだ幼さが残っている。


(あの少年も、死ぬのかもしれない)


私は拳を握った。

私は臣下だ。

王に従い、国を守るために戦う。

それが、私の務めだ。

だが――

胸の奥で、何かが叫んでいた。


(あぁ、くそ……)


だがその声を、私は押し殺した。


一方、カールは――

違った。

彼は、燃えていた。

執務室に入るたびに、その目の輝きが増していくのを感じた。

地図を見つめる目。

報告書を読む目。

戦術を練る目。

そこには――

生き生きとした、何かがあった。


「レイフ」


ある日、カールが私を呼んだ。


「はい」


「敵の配置を見ろ」


地図を指差す。


「デンマーク軍は、ホルシュタインの主要都市を包囲している。兵力は約一万五千。対して我らは――」


「八千、でございます」


「数で劣る」


カールは笑った。

だがその笑みには、恐れがなかった。


「だが、勝てる」


「陛下……」


「余は、父王の戦記を読んだ。数で劣っても、機動力と士気で勝つ。それが北方の戦だ」


その目には、確信があった。

いや――

確信以上の、何かがあった。

興奮。

歓喜。

まるで――

待ち望んでいたかのような。

私は、胸が冷えた。


「陛下は――」


思わず口にしていた。


「戦いたいのですか」


カールの動きが止まった。

ゆっくりと、私を見た。


「……何を言っている」


「いえ、その――」


言葉が続かない。

カールは地図に目を戻した。


「余は王だ。民を守るために戦う」


その声は、硬かった。


「それ以外の理由など、ない」


だが――

私には見えた。

その目の奥に、何かがあるのを。

それが何なのか、私にはわからなかった。

だが――

それは、民を守るという大義だけではなかった。


対比は、あまりにも鮮明だった。

カールは、戦争を前に輝いていた。

まるで、自分の居場所を見つけたかのように。

一方、私は――

沈んでいった。

毎朝目を覚ますたびに、胸が重かった。

訓練場を歩くたびに、足が重かった。

兵士たちの笑顔を見るたびに、胸が痛んだ。


(この笑顔も、いつか消えるのかもしれない)


私は、憂鬱だった。

深く、暗く、底の見えない憂鬱が、私を覆っていた。

だがそれを、誰にも言えなかった。

カールには、言えなかった。

あの方は、戦を前に燃えている。

王として、戦場に立とうとしている。

そんな時に、私の憂鬱など――

言えるはずがなかった。

だから私は、ただ黙っていた。

感情を顔に出さず、ただ王に従った。

それが、私の務めだから。


出征の二日前。

私は、一人で市街を歩いていた。

兵舎を出て、港を過ぎ、旧市街の狭い路地を抜ける。

そこには、私がかつて見た光景があった。

焼かれた家の跡。

再建された建物。

戦争の傷跡を、時が覆い隠していく。

私は、ある家の前で立ち止まった。

木造の、小さな家。

窓からは、温かい光が漏れている。

中では、家族が食卓を囲んでいた。

父と、母と、幼い子供たち。

笑い声が、聞こえてくる。

私は――

胸が締め付けられた。


(かつて、私にもあった)


父がいて、母がいて。

小さな家で、温かい食事を囲んだ。

だが――

それは、すべて奪われた。

戦争に。

そして今、また戦争が始まる。


「レイフ殿」


そんなことを考えていたおり、背後から声がかかり、振り返った。

そこにいたのは、フレミングだった。


「……どうされましたか」


「お一人で?」


「……少し、考え事を」


フレミングは私の隣に立った。

そして、同じ家を見つめた。


「戦が、嫌いか」


私は息を呑んだ。


「……どうして」


「顔に出ておる」


フレミングは小さく笑った。


「わしも、嫌いじゃ」


「……あなたも?」


「ああ。長く生きれば生きるほど、戦の虚しさを知る」


フレミングは目を閉じた。


「だが――止められぬ。それが、この世の理だ」


「……」


「レイフ殿」


フレミングは私を見た。


「陛下を、頼む」


「……はい」


「あの方は――強い。だが、まだ若い」


フレミングは空を見上げた。


「戦が、あの方を変えるかもしれん。血を浴び、勝利を知り――」


そこで言葉を切った。


「だから、そなたが傍にいてやってくれ」


私は何も言えなかった。

フレミングは背を向けた。


「わしのような老人には、もうできぬことだ」


その背中は、小さく見えた。


その夜、私は自室で一人、窓の外を見ていた。

明後日、出征する。

カールの初陣。

そして――

私の、新たな戦場。

胸の奥に、重いものが沈んでいる。

憂鬱。

絶望。

そして――

恐怖。


(陛下が、変わってしまうのではないか)


あの湖畔で見せた優しさ。

あの夜、寓話を求めた無邪気さ。

それらが――

戦場で、失われるのではないか。

私は拳を握った。

だが――

それを止めることは、できない。

私は臣下で、陛下は王だから。

ただ、従うことしか、できない。

窓の外では、雪が降り始めていた。

冷たく、静かに。

まるで、何かの終わりを告げるかのように。




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