第51話 暗転
ベンデルに戻ったのは、勝利の報告から三日後だった。
兵たちは誇らしげに胸を張り、将軍たちは久しぶりに笑顔を見せていた。
宿舎に戻ると、王は部屋に入る前に振り返った。
「明日、スルタンに礼を述べに行く」
王の声は穏やかだった。
「今後の計画についても話し合わねばならない」
王は窓の外を見た。
「ようやく、だ」
その夜、私たちは久しぶりに安らかな眠りについた。戦の緊張から解放され、希望が心を満たしていた。
祖国へ。もうすぐ帰れる。
私は布団の中で、故郷の景色を思い浮かべた。雪に覆われた森、凍った湖、石造りの家々。どれくらい見ていないだろう。長い、あまりにも長い旅だった。
でも、もうすぐ終わる。そう信じて。
翌朝、王はスルタンへの謁見を申し入れた。
だが、昼過ぎになっても返事は来なかった。
「おかしい」
レーヴェンハウプトが首を傾げた。
「昨日あれほどの勝利を収めたのに、なんで返事がねぇんだ」
「ハウプト、焦りすぎだ」
レーヴェンハウプトが言った。
「スルタンも忙しいのだろう」
だが夕方になっても、返事は来なかった。
王は顔を顰める。
「どういうことだ」
翌日、再び謁見を申し入れた。
今度は返事が来た。だがその内容は、私たちを困惑させた。
「謁見は、認められません」
アブドゥルが青い顔で告げた。
「何?」
レーヴェンハウプトが立ち上がった。
「おいアブドゥル、一体なんでだ。」
「理由は分かりません」
アブドゥルは目を伏せた。
「ただ、今は会えないと」
沈黙が落ちた。
王は窓の外を見ていた。その横顔には、不安の影があった。
「何かが、起きている」
王の声は低かった。
「何かが、変わった」
私の胸に冷たいものが滑り込んだ。昨夜の希望が、もう遠い幻のように感じられた。何かが間違っている。何かが、決定的に。
その日の午後、私は町を歩いていた。
市場は相変わらず賑わっていたが、やはり人々の視線が、冷たい。
「あれがスウェーデン兵か」
「厄介者だな」
「早く帰ればいいのに」
囁き声が聞こえた。
その光景が私のポーランドでのかつての日々を思い起こさせる。
(考えるな、今とあの時は違う)
私は足を速めた。
宿舎に戻る途中、ふと気づいた。
町の入り口に、オスマンの兵士が立っている。昨日まではいなかった。
「見張りか?」
私は不安を覚えた。
城壁に上がってみると、さらに驚いた。
町の周囲、いくつもの場所にオスマン兵が配置されていた。まるで町を囲むように。
私の背筋に冷たいものが走った。これは、何かの準備だ。だが、何のための?
「レイフ」
振り向くと、レーヴェンハウプトが立っていた。
「気づいたか」
「ああ、これは」
「包囲じゃな」
レーネの声は硬かった。
「まだ完全ではないが、確実に兵を増やしておるわい」
私は拳を握った。胸の中で何かが軋んでいた。これは味方の振る舞いではない。
「なぜだ。我々は味方のはずだろ」
「分かんねぇがよ」
レーヴェンハウプトは遠くを見た。
「嫌な予感がする。俺たちも早く行動したほうがいい」
その言葉が、私の不安を確信に変えた。
翌日、さらに兵が増えた。
町の周囲だけでなく、主要な通りにもオスマン兵が立ち始めた。彼らは武装し、私たちを監視するような目で見ていた。
「これは明らかにおかしい」
アームフェルトが王の部屋で言った。
「我々を監視している。いや、閉じ込めようとしている」
王は地図を見ていた。だが、その手は地図の上で止まったままだった。
「陛下」
私は声をかけた。
「スルタンに、もう一度謁見を申し入れましょう」
「無駄だ」
王は首を振った。
「奴は、余に会うつもりがない」
「では、どうすれば」
「待つしかない」
王は窓の外を見た。
「相手が何を考えているのか、分かるまで」
その夜、私は眠れなかった。城壁に上がると、町の周囲で松明の光が揺れていた。オスマン兵たちの夜営だ。
その数は、確実に増えていた。
私は拳を握りしめた。三日前、私たちは勝利を祝っていた。祖国への帰還を夢見ていた。それが今は、こうして監視されている。
何が起きた?何が変わった?
答えは見えないが、胸の奥で何かが警告を発していた。逃げろ、と。今すぐに、と。
四日目の夕暮れ。
アブドゥルが血相を変えて王の部屋に駆け込んできた。
「カール王」
彼の声は震えていた。
「何があった」
王が立ち上がった。
「私の部下に事情を聞き回っていたのですが、一人のものが宮殿である光景を見たと、」
アブドゥルは息を整えようとした。
「1週間ほど前、大柄な男が、スルタンの謁見の間へ入っていくのを」
「大柄な男?」
「はい。ロシア風の服を着た、熊のような——」
その言葉に、私の背筋が凍った。
そして空気が凍りつく。
王の顔が、蒼白になった。
「あいつが..... 一体なぜ?」
「確証はありません」
アブドゥルは言った。
「ですが、部下の話では、スルタンは彼を丁重に迎え入れたと」
沈黙が落ちた。
王は窓の外を見た。その拳が、震えていた。
「そういうことか」
王は低く言った。
「ロシア軍の撤退が早すぎた理由が、分かった」
「陛下?」
「全部——」
王の声が震えた。
「全部あいつの仕込みか....」
私は、ピョートルの冷たい目を思い出した。
あの男なら、やる。
戦場での勝利より、政治的な勝利を選ぶ。
それが、あの男だ。
「陛下」
アームフェルトが言った。
「では、包囲は——」
「余をとらえるためのものに決まっているだろう」
王は言い切った。
「奴は、スルタンに何かを約束した。金か、領土か——」
「そして、その代わりに——」
レーヴェンハウプトの声が低くなった。
「我々を、差し出せと」
沈黙が落ちた。
私の胸に、冷たい絶望が広がった。
私たちが勝利に酔っている間に——
ピョートルは、全てを覆していた。
私は城壁に立っていた。
町の周囲で、無数の松明が揺れていた。オスマン軍の夜営だ。
三日前、私たちは勝利に酔っていた。祖国への帰還を夢見ていた。
それが今は、包囲されている。
「なぜだ」
声にならない声が漏れた。
「なぜ、こんなことに」
風が吹いた。冷たい風だった。遠くで、祖国が待っている。でも、その道は閉ざされた。
私は拳を握りしめた。涙が出そうになったが、堪えた。今は泣いている場合ではない。
その夜、王の部屋に将軍たちが集まった。
誰も何も言わず、重い沈黙が続いた。
やがてアームフェルトが口を開いた。
「どうすれば、いいんだ」
誰も答えなかった。
「俺たちは今武装を解かれている。逃げることも、戦うこともできない」
アームフェルトは頭を抱えた。
だが、珍しくレーヴェンハウプトは静かだった。
彼は落ち着いて言った。
「何もなきゃ詰みだなこれは。」
「お前、冗談でもそんなこと....!」
「『何もなきゃ』だ。でもよ、俺達の王がこのままくたばると思うか?」
彼の言葉に反応し、皆がカールを見る。
そして、彼は立ち上がった。
「余はここで終わるつもりは無い」
「でも、陛下」
私は言った。
「我々は包囲されています。どうすれば」
だがカールは軽く笑みを浮かべた。
「余が2ヶ月の間、何もしてこなかったと思うか?」
そして彼の言葉に呼応するかのように扉がけたたましく開く。
「カール王、逃げてください!」
その言葉に、私たちは固まった。
「アブドゥル....!」
レーヴェンハウプトが立ち上がった。
「明日の夜明け、オスマン軍が動きます」
アブドゥルは震える声で言った。
「急いでください。今夜のうちに逃げないと」
彼は外を指差した。
「包囲は、まだ完全ではありません。北の門に隙があります」
「北の門」
レーヴェンハウプトが地図を広げた。
「ここか」
「はい。でも数時間だけです。夜明けまでに逃げないと」
アブドゥルの声には切迫感があった。
「すまないな。」
王が静かに感謝を述べる。だが、私は困惑していた。
彼はオスマン帝国の臣下だ。なぜカールを助けるのか。
「アブドゥル殿....あなたは一体なぜ私たちを。」
アブドゥルは王を見た。その目には、複雑な感情があった。
そしてその時、初めて顔を緩めた。
「ただの、私情ですよ」
彼は鎖の取れたように話し始めた。
「私の父は商人でしたが、誠実すぎて破産しました」
アブドゥルは遠くを見た。
「周囲は父を愚か者と笑った。でも、私は父を尊敬していた」
彼は王を見た。
「私は商人にはならず、とある縁があり、翻訳者になりました。そしてこの数ヶ月、カール王と何度も話しました」
アブドゥルの声が静かになった。
「短い人生ですが、カール王のような人は初めてでした。作り笑いや騙し合いが普通な商人の世界で育った私にとって、あなたはただ、驚くぐらいに真っ直ぐだった。」
アブドゥルはカールの目を見る。
「あなたを見ているとなぜか父を思い出すのです。」
彼は頭を下げた。
「だから——私は、陛下を見捨てられない」
レーネは彼に聞く。
「じゃが良いのか?こんなことをすれば、お主の立場は....」
アブドゥルはそれを聞くとはにかんだ。
「どうやら、私はとことん商人には向いていないみたいですね」
カールは振り返る。
「準備をしろ。今夜、我々は脱出する」
その言葉に、部屋中が動き始めた。
私は急いで荷物をまとめながら、胸の鼓動が早くなるのを感じた。
逃げる。今夜、この包囲から逃げる。
成功するのか。分からない。でも、やるしかない。
アブドゥルが扉の近くで言った。
「私は先に行きます。門の見張りを何とかします」
「ありがとう、アブドゥル」
王が言った。
「お前の恩は、忘れない」
アブドゥルは小さく笑った。
「生き延びてください、カール王」
そう言って、彼は闇の中に消えた。
私たちは急いで準備を整えた。武器、食糧、最低限の荷物。全てを捨てて、命だけを持って逃げる。
外では風が吹いていた。冷たく、強い風だった。
「行くぞ」
王の声が響いた。
私たちは闇の中へと踏み出した。
包囲の輪を抜けて。
北へ。
祖国へ。
生き延びるために——




