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第50話 東の覇者

それから2ヶ月——

ベンデルでの生活は続いていた。兵たちは訓練を続け、将軍たちは地図を眺め、王は祖国への帰還を待ち続けていた


だが、誰もが次第に焦りを感じ始めていた。

いつまでこの生活を続けるのか、いつ祖国へ帰れるのか、と。


そして――


ついに謁見の日が来た。

謁見の前日、翻訳者のアブドゥルが王の部屋を訪れた。

彼は流暢なスウェーデン語で話し始めた。


「明日の謁見について、知っておくべきことがあります」


王は地図から顔を上げた。


「聞こう」


「スルタンのアフメド陛下は、祖父メフメト四世のような戦士王ではありません」


アブドゥルは椅子に座った。


「陛下は実利を重んじる方です。名誉だけでは動かない。必ず利益を計算されます」


王は腕を組んだ。


「つまり、商人の心を持つ王か」


「その通りです。ただし——」


アブドゥルは王を見た。


「少し変わったお方でして、それ以外にも人を見る目がとても鋭いお方です。なので、交渉の際はお気をつけください。」


王は頷いた。


「分かった。感謝する、アブドゥル」


彼が去った後、王は窓の外を見た。


「やっとだ。やっと交渉ができる」


翌日。

トプカプ宮殿の謁見の間は、息を呑むほど豪華だった。大理石の床は鏡のように磨き上げられ、壁には青と金のタイルが幾何学模様を描いている。天井から吊るされたシャンデリアは無数の蝋燭の光を反射し、まるで星空のようだった。


朱と黄金の刺繍を施した帳が柱から垂れ、微かな風でゆるやかに揺れている。香炉から立ちのぼる白檀の煙が空気を淡く霞ませ、異国の香りが鼻腔を満たした。

奥には玉座があり、そこにスルタン、アフメド三世が座っていた。


緋色の絹の長衣には金糸の刺繍が施され、白い大きなターバンが頭上に載っている。黒い髭は丁寧に手入れされ、褐色の肌は健康的に輝いていた。片肘を肘掛けに置き、もう片方の手には琥珀の数珠を持っている。


その姿は戦士というより、確かに豪商を思わせた。だが、その瞳には鋭い知性と、帝国を統べる者の威厳があった。


背後には大宰相をはじめとする重臣たちが並び、絹と宝石で飾られた衣装に身を包んでいた。彼らの視線は冷ややかで、私たちを値踏みするように見ていた。

王は一歩ずつ、音を響かせながら進んだ。膝をつくことはせず、北国の王として、ただ深く頭を下げた。


私はその後ろに控え、この歴史的な瞬間を見守った。


「余は、スウェーデン王カール十二世」


王の声が広間に響いた。アブドゥルがトルコ語に訳す。

スルタンは数珠を指で転がしながら、しばらく王を見つめていた。やがて、低く落ち着いた声で言った。


「ようこそ、北方の王よ。そなたの名は遠くこの地にも届いている。天才的な若き王だと聞いている」


スルタンは小さく笑った。


「そして、ポルタヴァで惨敗を喫したともな」


重臣たちの間にかすかな笑いが漏れた。

訳が終わると、王は表情を変えず、顔を上げた。


「一度の敗北で全てが決まるわけではありません、スルタン」


スルタンの眉がわずかに動いた。興味を引かれたようだった。


「ほう。では、そなたは何のために我が宮殿に来た」


「ひとえに、勝利のためです」


王は即座に答えた。

スルタンは数珠を置き、身を乗り出した。


「勝利か。確かにロシアのピョートルは野心的な男だ。あの田舎国家を改造し、領域を広げ、我が帝国の喉元に手を伸ばそうとしている」


スルタンは指を組んだ。


「だが、カールよ。そなたは我に何を与えられる。我が帝国は、そなたの祖国を救うために血を流すほど慈悲深くはない」


王は一歩前に出た。


「スルタン陛下。余が申し上げるのは慈悲ではなく、利益です」


その言葉に、スルタンの目が細くなった。


「利益、か。語れ」


「ロシアは今、疲弊しています。ポルタヴァで勝利したとはいえ、長年の戦で国力は削られている」


王は手を広げた。


「今、御国が動けば、ロシアは二正面作戦を強いられる。彼らは持ちこたえられません」


「それで?」


「ここで伸長してくるロシアを倒せば、黒海は完全に御国のものとなる。ピョートルの野心は潰え、南方の交易路は安定します」


王は一歩近づいた。


「更に、余たちが祖国へ戻れさえすれば、必ずやこの戦争を終え、勝利をもたらせられる。北と東の覇者が手を取り合えば、向かう敵はないでしょう」


スルタンは顎に手をやった。


「カールよ。そなたは一つ忘れている」


スルタンは立ち上がった。長身で、王とほぼ同じ背丈だった。


「戦には金がかかる。兵を動かせば食糧が要る。勝てば良いが、負ければ全てが水泡に帰す」


スルタンは王に近づいた。


「我が商人たちは、今もロシアと交易をしている。戦えば、その利益は失われる。そなたは、その損失を埋める何かを持っているのか」


沈黙が落ちた。重臣たちが固唾を呑んで見守っている。

王は真っ直ぐスルタンを見た。


「戦争に勝利し次第、金銭的な謝礼と貿易の拡大を保証します。」


王は一歩前に出た。

スルタンはしばらく王を見つめていた。

そしてため息をついた。


「そうか」


一言だけ。


(このスルタンの様子は何だ....?)


彼は急に興味をなくしたように態度を変えた。


「まあいい。」


王は即座に答えた。


「よかろう、どちらにしろロシアは目の上のたんこぶだ。遅かれ早かれ叩くつもりだ。」


その言葉に、私の胸が高鳴った。


「我が軍を動かそう」


王は深く頭を下げた。


「感謝します、スルタン陛下」


「だが、忘れるな」


スルタンの声が冷たくなった。


「我は商人でもある。戦の潮目が変われば、我は躊躇なく手を引くぞ」


王は顔を上げた。


「それで構いません。余が求めるのは、ただ一つの機会だけです」


スルタンは頷いた。


「では、準備せよ。我が軍は一週間後に出陣する」


宮殿を出ると、アームフェルトが興奮した様子で言った。


「陛下、さすがです!」


レーヴェンハウプトも珍しく笑顔を見せた。


「オスマン帝国が動く。これで形勢は変わる」


だが王は表情を変えなかった。


「まだ何も終わっていない」


王は馬車に乗り込んだ。


「戦はこれからだ」


ベンデルに戻ると、兵たちに知らせが伝えられた。オスマン帝国が出兵する。ロシアと戦う。

兵たちは歓声を上げた。


「ついに帰る希望が出てきた!」


「やっとロシアを倒すんだ!」


若い兵たちが剣を掲げている。その光景を見ながら、カールは顔を顰めていた。

私はその様子を見て彼に声をかける。


「陛下、どうかしましたか。」


「いや、少し引っかかってな。」


「何がですか?」


カールは首を傾げた。


「アブドゥルの言うところでは彼は癖のある人物と受け取れたが、こんなにあっさりと受け入れるものかと。」


「それは単に陛下の交渉がうまかっただけの話では?」


「そうだといいのだがな....」


将兵の熱気の中で、拭いきれない疑念だけがカールの胸を満たす。

そして私も、その疑念を気に留めておくことにした。


一週間後、オスマン帝国の大軍が国境を越えた。

その報告を受けたとき、ベンデル中が沸き立った。兵たちは訓練に励み、将軍たちは地図を囲んで作戦を練った。


「オスマン軍は十万を超える」


レーヴェンハウプトが地図を指差した。


「対するロシア軍は——」


彼は眉をひそめた。


「報告によれば、五万以下だ。しかも——」


彼は地図を叩いた。


「ピョートル本人の姿が見えねぇ」


アームフェルトが顔を上げた。


「ピョートルが、いない?」


「ああ。どこに消えやがったのか、誰も知らねぇ」


アームフェルトが地図を見ながら続けた。


「モスクワに戻ったのではないか、という噂もあるが——」


「確証は?」


「ない」


それを聞き、レーネが口を開いた。


「ただの希望的観測じゃ。だが——」


彼は地図を見つめた。


「消えたということは、少なくとも前線にはおらん」


「つまり、今のロシア軍は——」


「脆い」


王が言った。


「ピョートルという要がいない。疲弊していると見るべきだ。今なら、倒せる」


数日後、私たちもプルート川方面へ向かうことになった。直接戦闘には参加しないが、戦況を見守るためだ。

馬で草原を進みながら、私は周囲を見渡した。どこまでも続く平原、遠くに見える山々。異国の地だ。


「レイフ」


横に並んだレーヴェンハウプトが言った。


「久しぶりの戦だな」


「ああ、俺たちは参加できないけどな。」


「俺たちは亡命中だぞ。自分の『お世話』もできねぇのに戦なんてできるかよ」


私は考えてから答えた。


「......ああわかってる。ここで状況が変わるだろうか」


レーヴェンハウプトは頷いた。


「さあな。だが、俺たちに直接できることはねぇ。今は奴らがうまくやることを、ただ祈るだけだ。」


彼は片方だけになってしまった、厳しい目つきで草原の先を眺める。


プルート川に到着したのは、戦いが始まる前日だった。

川沿いには既にオスマン軍が布陣していた。赤と金の軍旗が風になびき、無数の天幕が立ち並んでいる。騎兵の馬が嘶き、兵士たちの声が響いていた。

その規模は圧倒的だった。地平線まで続く軍勢。これほどの大軍を、私は見たことがなかった。


「圧巻だな.....」


アームフェルトが呟いた。彼は丘の上から軍の様子を生真面目に分析していた。


「これが東方の覇者オスマン帝国の軍か」


私たちは丘の上に陣を張り、そこから戦場を見下ろすことになった。


夜、王は天幕の外に立って川を見ていた。私は近づいた。

「陛下」


「レイフか」


王は振り向かなかった。


「明日、オスマンとロシアの戦が始まる。だが、余は不甲斐ない」


彼は自分の治りかけの右足を眺める。医療を受けたおかげで、完治直前といった状態にまで治っていた。


「余の戦いを余の手で決着をつけれないのが」


「いえ、陛下はオスマン帝国をご自身で戦争に引き入れました。今の現状は、間違いなく陛下の力によるものです」


「だといいが..... 何か、胸の奥につっかかる物がある。何かはわからない、でもそれが取れないんだ。」


カールは胸に手を当て、そう言う。

私は月明かりに照らされる彼の横顔を見ているだけだった。

遠くで、オスマン軍の太鼓が鳴っていた。明日への、戦の鼓動だった。


夜明けとともに、戦が始まった。

オスマン軍の騎兵が、一斉に川を渡り始めた。蹄の音が大地を震わせ、鬨の声が空気を裂いた。


「始まったぞ」


レーヴェンハウプトが双眼鏡を構えた。

私も丘の上から見下ろした。赤と金の軍旗がなびき、騎兵が波のように押し寄せる。その数は、地平線まで続いているように見えた。

対岸では、ロシア軍が待ち構えていた。銃声が響き、砲弾が飛び交う。

オスマンの騎兵が倒れる。だが、止まらない。次が来る。また次が来る。


「すごい......」


クラウスが呟いた。


「数が、違いすぎる」


ロシア軍の陣形が揺らいだ。側面から、オスマンの別働隊が攻撃を仕掛ける。

包囲だ。


「ロシア軍が——押されている」


アームフェルトが言った。

砲声が鳴り響き、煙が戦場を覆った。騎兵の突撃、歩兵の激突、指揮官の怒号。全てが混沌としていた。

だが、潮目は明らかだった。


「陣形が崩れ始めた」


レーネが双眼鏡を覗きながら言った。


「ロシア軍は——持ちこたえられん」


王は無言で戦場を見つめていた。その拳が、握られていた。

正午を過ぎた頃、決定的な瞬間が訪れた。

オスマンの精鋭騎兵がロシア軍の中央を突破し、司令部に迫った。ロシア軍の陣形が完全に崩壊し、兵士たちが散り散りになって逃げ始めた。


「退いている......」


アームフェルトの声が、震えた。

ロシア軍は、退却を始めた。


「勝った......」


誰かが、呟いた。

一瞬、沈黙が落ちた。

そして——

歓声が、丘を包んだ。

兵たちが抱き合い、肩を叩き合い、泣いていた。長い敗北の日々の後の、勝利だった。


「陛下!」


レーヴェンハウプトが駆け寄った

「やりやがった!ロシアの田舎野郎共が退きやがった!」


その顔は紅潮していた。いつもの皮肉めいた口調が消え、ただの興奮だけがあった。

アームフェルトも目を輝かせていた。


「ついに——ついに、ロシアを——」


私も、胸が高鳴っていた。

勝った。

私たちは、勝ったのだ。

だが——

王だけは、違った。

王は戦場を見つめたまま、動かなかった。

その横顔には——何かがあった。


「陛下?」


私が声をかけた。

王は、ゆっくりと振り向いた。


「......おかしい」


その一言に、私は息を呑んだ。


「何がですか」


「早すぎる」


王は戦場を見下ろした。

その言葉に、周囲の歓声が、わずかに弱まった。


「こんな簡単に....?」


王の目が、鋭くなった。

王は言葉を切った。


沈黙が落ちた。

私は、王の言葉の意味を考えた。

確かに——

早すぎる。

ロシア軍の退却が、あまりにも早すぎる。

王は眉をひそめた。


だが——

周囲の歓声は、止まらなかった。

兵たちは勝利に酔い、抱き合い、笑っていた。

その光景を見ながら、王はただ黙って立っていた。


その夜、報告が届いた。

ロシア軍は完全に撤退し、プルート川の北岸まで退いたという。


「追撃はしないのか」


アームフェルトが聞いた。


「オスマン軍は、今のところ追撃の構えを見せていない」


伝令が答えた。


「なぜだ」


「細かいことは分かりません。ただ——」


伝令は言葉を濁した。


「スルタン陛下の、ご意志のようで.....」


王は地図を見ていた。

その目が、何かを探しているようだった。


「陛下」


レーネが口を開いた。


「とにかく、ロシアは退いた。これは事実じゃ」


「ああ」


王は頷いた。

だが——

その声には、まだ疑念が残っていた。


その夜、ベンデルに戻った私たちは、小さな祝宴を開いた。質素なものだったが、久しぶりに笑顔があった。


「勝利に!」


「陛下に!」


杯を掲げる声が響いた。

レーヴェンハウプトは、いつもの皮肉めいた口調に戻っていた。


「まあ、俺たちが何もしなくても勝てたってのは、ちょっと癪だがな」


クラウスが笑った。


「将軍、素直に喜びましょうよ」


「分かってるさ。んじゃ——」


彼は杯を傾け、声を張り上げた。


「勝利を祝して、俺たちの祖国への帰還を祝して、乾杯!」


その言葉に、兵たちが歓声を上げた。


「あいつ、相変わらず酒癖が悪い....もっと将らしく振る舞うべきだ」


アームフェルトが剣を磨きながら、遠巻きに自身の同僚をやれやれと見ている。


「お主が言うか、この前まで酒に溺れてまともに歩けんかった奴が」


「あれは.....仕方なかっただろう!」


アームフェルトが言葉に詰まりながら、茶化すレーネに突っかかる。

それを見て私は笑っていたが、ふと外の空気を浴びたくなった。


私は城壁に出て、夜空を見上げた。星が見えた。久しぶりに、澄んだ星空だった。


「レイフ」


振り向くと、王が立っていた。


「陛下」


「ひとりで、何をしている」


「いえ、少し外の空気を吸いたくて」


王は隣に立った。


「星が綺麗だな」


「はい」


私たちはしばらく黙って星を見ていた。

やがて王が言った。


「明日から、準備を始めるぞ」


「何のですか」


「帰還のだ。これ以上、祖国を空にするわけにはいかん。」


私は少し考えてから答えた。


「もう一年ですね.....」


王は小さく笑った。


「いや、国に帰って政治を摂ったのはそれ以上だ。」


王は空を見上げた。


「本当の意味で皆と向き合ったのは何年振りになるのだろう。いや、そんな日なんてあったのか.....」


カールは独り言のようにそう呟く。だが、その時、風が吹いた。

それは、北からの、祖国の方面からの風だった。

私はその時、ふっと笑った。


「祖国が呼んでいますよ、私たちを....陛下を」


カールも私の突飛な話を聞き、笑みを浮かべる。


「どうやら、そう見たいだな」


私は頷いた。


「皆が待っていますよ」


星空の下、私たちは北を向いて立っていた。

遠き祖国へ帰る日が、ようやく近づいてきた。

だが——

王の目には、まだ何かが残っていた。


それが、何を意味するのか。

私には、まだ分からなかった。

ただ——

この束の間の安堵が、どれほど続くのか。

それだけが、心に引っかかっていた。

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