第49話 憂国の風
目が覚めた時、最初に見えたのは薄茶色の石造りの天井だった。白いと思ったのは一瞬で、すぐにここが北国ではないことを思い出した。
体が鉛のように重く、動かそうとしても思うように動かない。それでも息を吸い、吐くことはできた。生きている。私はまだ生きている。
ゆっくりと体を起こすと、頭がぐらりと揺れた。部屋の中には窓から光が差し込んでいて、隣では兵が横たわっている。眠っているようだった。生きている。それだけで良かった。
「レイフ将軍」
声に振り向くと、若い兵が立っていた。
「......お前は」
「エルンストです。将軍が倒れた時、運ぶのを手伝いました」
「そうか」
私は頭を押さえた。
「どれくらい、眠っていた」
「二日です」
二日。長かったのか、短かったのか。判断がつかなかった。
エルンストが持ってきた水を飲むと、冷たい水が喉を潤した。窓の外を見ると、中庭で兵たちが剣を振るっている。訓練をしているのだ。私たちはまだ生きている。それだけは確かだった。
その日の午後、ようやく歩けるようになった私は、ベンデルの町を見て回った。石造りの建物、異国の文様、読めない文字の看板。人々は私を見ると目を逸らした。異国の兵士、敗残兵。そう見られているのだろう。
市場を通ると、見たことのない果物が並んでいた。甘い匂いがしたが、どこか血の匂いにも似ていた。いや、それは私の中にある匂いだ。ポルタヴァの、あの平原の匂いだ。
「レイフじゃねぇか」
振り向くとレーヴェンハウプトが立っていた。
「なんだ、起きたんなら言えよ」
「すまない。さっきちょうど起きたとこなんだ」
そういうと彼は軽く笑い言った。
「お前も散歩か。まあ、することがないからそらそうか」
私たちは並んで街中を歩いた。
「ハウプト、教えてくれ。私たちは今なにをしている、どうすべきなんだ」
「ポルタヴァでひでぇ負け方してオスマン帝国に逃げてきたのは覚えてんだろ。今は亡命を受け入れてもらえて、俺たちスウェーデン兵はこの街に大罪を許されてる。軟禁とも言えるがな。」
「今は陛下の方針に従って、お前が起きるのを待ってた。今夜将校たちでこれからの方針についての会議がある。」
レーヴェンハウプトの声には苛立ちがあった。
「ったく、情けねぇ。天下のカロリアンが、人様の国で何やってんだ」
私は何も言えなかった。私たちはそもそも何のためにここにいるのか、それが分からなくなり始めていた。
夕刻、王の部屋に主要な将軍たちが集められた。机を囲んで座ったのは、レーヴェンハウプト、アームフェルト、レーネ、そして私の四人だった。
王が地図を見つめたまま口を開いた。
「......将校で生き残ったのは、奇しくもお前たちだけだ。」
その言葉が重く響いた。
「レイフの起床を待つ間に遅れての帰還を待っていたが、ついぞヨハンソンに、グレーツ、誰一人として現れなかった。」
王の声は淡々としていたが、その奥に痛みがあった。
(私たちだけ....)
「此度の戦に従軍した多くの将校を失い、指揮系統が混乱している。
緊急の処置としてレーネに軍事の全権を、クラウスに兵卒の指揮を、そしてエルンストにレイフの補佐を任せることにした。」
私たちは皆、同じ顔をしていた。疲労、悲しみ、そして虚無感。
やがてアームフェルトが低い声で口を開いた。
「陛下は一体これからどうするおつもりですか」
王は顔を上げた。その目には迷いはなかった。
「決まっている。祖国へ帰る」
即座の答えだった。
「一刻も早く、ストックホルムへ戻る」
レーヴェンハウプトが身を乗り出した。
「しかし、どうやって?オスマンは俺たちをこの街に閉じ込めてから何も言ってきません」
「だから動く」
王は地図を指差した。
「スルタンに謁見を求める。オスマンの協力を得て、北へ向かう」
レーネが顔を上げた。
「オスマンは、協力してくれるでしょうか」
王は拳を握った。
「させる。余には時間がない。祖国には時間がない」
その声には焦燥があった。誰もが理解していた。祖国が危機に瀕していることを。
私は王を見た。疲れた顔で、目の下に隈ができている。だが、その目には決意があった。
それから三日後、使者が祖国から来た。久しぶりの連絡だった。
私たちは王の部屋に集まり、使者が報告を始めた。
「宰相フレミング閣下からの伝言です」
使者は羊皮紙を広げて読み上げた。
「陛下。祖国は今のところ持ちこたえております。枢密院は機能し、税収も維持されています。民衆も陛下の帰還を待っております」
一瞬、安堵の空気が流れた。だが使者は続けた。
「しかし、これ以上の不在は危険です。既に政治的な亀裂が生じ始めています。和平派と戦争継続派の対立が激化し、枢密院での議論は紛糾しています」
王の顔がこわばった。
「ロシアの勝利の報は欧州全体に広がっており、それに呼応するようにデンマークとポーランドが動きを見せており、国境の緊張が高まっています。また、都市部では治安が悪化し始め、経済も停滞の兆しを見せています」
使者は羊皮紙を置いた。
「フレミング閣下は申しております。陛下の不在が長引けば、政治的混乱は避けられない、と。そして民衆の不安が暴動へと変わる可能性もある、と」
重い沈黙が落ちた。
王は立ち上がった。窓の外を見て、拳を握りしめた。
「......余が戻らねば、誰がこの国を救うのだ」
その声には苦悩と決意が混ざっていた。
「余がいなければ、祖国は崩壊する」
王は振り返った。
「スルタンへの謁見を求める。今すぐに」
「陛下」
レーヴェンハウプトが立ち上がった。
「スルタンは余たちを受け入れてくれるでしょうか」
「受け入れさせる」
王の目には炎があった。
「余は、必ず祖国へ戻る」
その夜、私は城壁の上に立っていた。風が吹いていて、甘い匂いがした。果物の匂い。でも、どこか血の匂いにも似ていた。
北の空を見上げる。そこに祖国がある。遠い祖国が。
足音が聞こえて振り返ると、アームフェルトが立っていた。
「眠れないのかグスタフ」
「ああ。お前もか」
「何か落ち着かなくてな」
アームフェルトは私の隣に立った。しばらく沈黙が続いた後、私がふと口を開いた。
「祖国は......持ちこたえられるだろうか」
私は月を見た。それに対し、アームフェルトは強気で返す。
「当たり前だ。バルト帝国はこれまで勝ち続けてきた。一度挫かれたからとはいえ、易々と終わってたまるか。」
「すまんすまん、そうだったな」
レーヴェンハウプトは空を見た。
「俺たちは、王と共に戻る」
「......ああ」
その言葉に私は頷いた。
私たちはしばらく黙って立っていた。風が吹いていた。甘い匂い、血の匂い。北の空に祖国がある。遠いが、いつか戻る。
その日まで、私たちは王の側にいる。
翌朝、オスマンから返答が来た。
使者のアブドゥルと名乗る褐色の男が王の部屋を訪れ、私たちの前で告げた。
「スルタン陛下が......謁見を......許されました」
彼は拙いスウェーデン語でそう伝え、その言葉に王は立ち上がった。
「いつだ」
「三日後......トプカプ宮殿で」
王は頷いた。
「分かった」
ミハイルが去った後、王は私たちを見た。
「準備をしろ。余たちは、スルタンを説得する」
その声には決意があった。
「そして、祖国へ帰る」
私たちは頷いた。
陛下の目には、微かだが、再び炎が灯っていた。
確実に。
全てを燃やし尽くす炎ではない。何か、新たな炎。
城壁の外では、異国の風が吹いていた。でも私たちの心は、北を向いている。祖国へ。いつか帰る、あの地へ。
その日まで、私たちは諦めない。
それがカロリアンの誇りを持つ私たちの使命だ。




