第48話 決死の南下
南の暗い森の中を、私たちは影に紛れて進んだ。月明かりすらない。木々が空を覆い隠し、足音を殺して息を潜めながら、ただ南へ。
オスマン帝国へ。
それが王が我々に課した使命だった。
私の後ろには百人ほどの兵がいた。皆、音を立てない。
訓練された動き。
時折、誰かが枝を踏む音がすると、全員が立ち止まり、息を止めて耳を澄ませた。
追っ手はいない。まだ。
「進め」
小さく声をかけると、また歩き始める。
それは、ポルタヴァから逃れた最初の夜だった。
カールとの崖でのやり取りの後、焼け落ちた家々の間で、私たちは火を焚いた。
陛下がいた。レーネがいた。そして私がいた。三人だけだった。他の兵たちは少し離れた場所で休んでいた。
沈黙が続いた。火の音だけが聞こえた。
やがて王が口を開いた。
「レーネ」
レーネが顔を上げた。
「はい」
「戦局は、どうだった」
短い問いだった。その問いには重さがあった。
王は足を負傷していた。あの少年の狙撃。右脚に深い傷。馬に乗れない。前線に立てない。ポルタヴァでは指揮を執れなかった。カールにとって開戦以来、初めてのことだった。
レーネは少し間を置いてから答えた。
「壊滅的でした」
その声は平坦だった。感情を押し殺している。
「ロシア軍の砲撃は想定以上でした。塹壕からの一斉射撃、そして数的優位。我が軍は持ちこたえられませんでした」
王は黙って聞いていた。その拳が握られていた。
「何人、残っている」
「正確には把握できていません」
レーネは目を伏せた。
「開戦時、6万の兵がおりました。戦闘でおそらく半数近くを失いました」
沈黙。重い沈黙。
「残りは」
王の声が低く響いた。
「ペレヴォロチナの地で」
レーネは言葉を切った。そして、ゆっくりと続けた。
「1万以上の兵が、降伏しました」
誰も何も言わなかった。火だけが燃えていた。
「私が命じました」
レーネの声は変わらなかった。平坦なまま。その奥に何かが潜んでいた。
「撤退を指揮する中で、多くの負傷兵がおりました。深い傷を負った者。歩けない者。このまま連れて行けば全滅する。そう判断しました」
レーネは火を見つめた。
「何十年も軍にいたからこそ、多くの仲間や部下がいました。ヨハン、エリクソン、トーマス。他にも数え切れないほど。彼らは皆、陛下のことを思っていました。陛下のために最後まで戦いたい、と」
「ですが彼らの多くは深い傷を負っていました。全く自分のことさえ顧みない彼らの必死の訴えに、流石の私も揺らいでしまいました」
「彼らを全員連れて行くことは不可能でした。ロシア軍の追撃が迫っていました。部隊の速度を落とせば、残った者も全滅します」
レーネは拳を握った。
「だから私は彼らに『剣を置け』と命じました。『降伏しろ』と」
沈黙。
「彼らはそれは想像を絶するほど嫌がりました。『まだ戦える』『陛下に付き従いたい』と。ですが」
レーネの声が少しだけ沈んだ。
「私は命じました。部隊が生き延びるために。彼らもロシア軍に殺されてはいないはずです。運が良ければ治療を受けられる者もいるでしょう」
彼は王を見た。
「私は彼らの尊厳に、誇りに泥を塗ってしまいました。降伏した兵という汚名を着せてしまいました。それでも、彼らが戦うこともできず無惨に殺されるのを見たくはなかったのです」
「結果として現在、陛下に従う兵は約2万。開戦時の3分の1程です」
王は黙っていた。拳が握られたまま。右脚の包帯が目に入った。あの傷。あの傷が王から前線を奪った。王は自分を責めているのだろう。「余が前線に立てていれば」そう思っているのだろう。
レーネは目を伏せた。
「陛下。私の判断が正しかったのか。それは私にも分かりません」
その声はまだ平坦だった。その奥に苦悩が見えた。
「ですがこれ以上の選択肢はありませんでした」
彼は顔を上げた。
「報告は以上です」
沈黙が落ちた。
私はレーネを見た。彼の顔には感情がなかった。いつもの冷静な顔。その目の奥に何かが潜んでいた。あまりに多くの命を彼一人で決めた。その重さ。
やがて王が口を開いた。
「レーネ」
レーネが王を見た。王はゆっくりと立ち上がった。右脚を引きずりながら。
「お前は間違っていない」
その声は静かだった。確かに届いた。
レーネの目がわずかに見開かれた。
「陛下……」
王はレーネの前に立った。
「余が前線に立てなかった。それが全ての原因だ」
王は右脚を見た。
「余があの時、馬に乗れていれば。兵を率いることができていれば。いや、根本的にもう少し冷静なら、もっと多くの兵が死ぬことはなかったのだろうな」
王の拳が震えた。それは数多の命を握る者にしか分からない感情だったのだろう。
「余は立てなかった。お前に全てを任せた」
王はレーネを見た。
「そしてお前は最善を尽くした」
王の声に力があった。
「1万の兵を救い、2万を残した。彼らは今、生きている。捕虜になったかもしれない。命はある」
王はレーネの肩に手を置いた。
「お前のおかげで祖国は、スウェーデンは、まだ終わっていない」
レーネは目を閉じた。そして小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その声はかすれていた。確かだった。
王はレーネの肩を叩いた。そして全員を見回した。
「明日から分散して南下する」
短い言葉だった。
「2万を小隊に分ける。100人、200人の単位で。別々の道を行く」
私は眉をひそめた。
「危険では? 各個撃破される可能性が」
王は頷いた。
「ああ。このまま2万で動けば目立つ。ロシア軍に見つかれば追撃される。分散すれば一部が捕まっても全滅はしない」
レーネも同調する。
「大きな博打ですが、これしか生き残る術はない」
「ああ」
王は火を見た。
「これは賭けだ。余たちに他の選択肢はない。だから余を信じてくれるか」
その顔は今まで見たことのないような顔だった。まるで赦しを求めるような。
沈黙が落ちた。
やがて私が口を開いた。
「勿論です。分散して生き延びる。それが今、私たちにできる最善です」
王は私を見た。そして小さく頷いた。
「ありがとう、レイフ」
その夜、私たちは計画を立てた。
そして後日、他の将達と合流したのち、火を囲んで、レーネが地図を広げ、アームフェルトが小隊の編成を提案し、レーヴェンハウプトが合流地点を指した。議論は深夜まで続いた。
目的地はオスマン帝国とロシアの国境付近の街、ベンデル。そこを目指す私たちの壮絶な南下が始まった。
南下3日目。
食料が尽きた。朝、最後のパンを分け合ったが、一人に小さな一切れずつしか行き渡らなかった。
「これから、どうするんですか」
若い兵が聞いた。
「狩りをする」
私は答えた。心の中では分かっていた。この森に獲物などいない。戦争で全てが逃げた。私たちは飢えるだろう。
1週間目。
最初の小隊が消えた。合流地点に現れなかった。200人。どこへ行ったのか誰も知らない。ロシア軍に捕まったのか。道に迷ったのか。それとも。
私たちは半日待った。来なかった。
「進もう」
私はそう言った。兵たちは黙って頷いた。誰も何も言わなかったが、皆分かっていた。もう会えないかもしれないと。
2週間目。
川を見つけた。
「水だ!」
兵たちが駆け寄った。私も膝をついて手で水を掬った。冷たかった。喉が潤った。
「ありがたい……」
誰かが呟いた。私たちはしばらく休んだ。久しぶりに笑顔が見えた。
その時、私の小隊の中でも目立って若い兵が近づいてきた。
「隊長、水がこんなに美味しいなんて」
彼は笑っていた。その笑顔が眩しかった。
「名前は?」
「オーケと言います」
彼はオドオドしながら名乗った。
「そうか」
私は頷いた。
「もう少しでロシアを抜ける。だから耐え抜くぞ」
「本当ですか!」
「ああ」
私は純粋無垢な少年に嘘をついた。道のりがどれだけ残っているのかなんて分かるわけがない。地図やコンパスすらないのだ。その嘘でさえ必要に思えた。
「生きてて良かったな」
「はい」
オーケは頷いた。その笑顔が、心に焼き付いた。
長くは続かなかった。
銃声が響いた。
「伏せろ!」
私は叫んだ。兵たちが地面に倒れ込んだ。川の向こう、木々の間に影が動いた。ロシア軍だ。待ち伏せだった。
「撤退する! 森へ!」
私たちは走った。背後で銃声が続いた。誰かが倒れた。振り返ればオーケだった。
「隊長……!」
彼が手を伸ばした。私は目を逸らした。前を見るしかできなかった。
止まれば全滅する。それは正しかった。
私は走り続けた。森の奥へ。闇の中へ。オーケを置いていった。
その夜、数を数えた。12人がいなかった。死んだのか。捕まったのか。分からなかった。その中にはオーケもいた。あの若い兵。
「もう少しだ」
私は最後もまた彼に嘘をついてしまった。その「もう少し」に彼は辿り着けなかった。
兵たちは黙り込んでいた。私も何も言えなかった。ただ火を見つめていた。
止まれば全滅する。それは正しかった。倒れた兵の顔が見えた。オーケの顔が。彼も誰かの息子だった。誰かの友人だった。私は彼を置いていった。
それが指揮官の役目だと言い聞かせた。心が痛かった。
3週間目。
やっと地平線が開けた。森を抜けた。
そこには草原が広がっていた。遠くに建物が見えた。その向こうに霧があった。薄い白い霧。雪ではない。
雪はポルタヴァにあった。全てを埋め尽くす雪が。ここには霧がある。道を隠す霧が。
私はその霧を見つめた。この先に何があるのか分からなかった。
「あれは……」
隣の兵が呟いた。
「オスマンの砦だ」
私は答えた。
「着いたぞ。オスマン帝国だ」
兵たちの間にどよめきが起きた。誰かが泣いていた。
「生き延びた……」
小さな声だった。確かに聞こえた。
私は深く息を吐いた。ようやく。ようやく着いた。ここから、どうするのか。祖国は遠い。戻る道はない。私たちはどこへ行くのか。
オスマンの砦に近づくと、兵士たちが出てきた。彼らは私たちを見て驚いた。
ぼろぼろの軍服。泥と血にまみれた顔。飢えて目が窪んだ兵たち。一人の将校らしき男が前に出て私たちを問い詰める。何を言っているのか分からない。
トルコ語か。必死すぎて言語が通じないことを忘れていた。
私は焦りを覚えたが、前に出て説明をした。
「スウェーデン軍です。カール12世陛下に従う者たちです」
意思疎通ができない。将校は私を怒鳴りつけ、現場が緊迫してくる。私は何か身分を証明できるものはないかと見渡し、思い出した。
エーリクの形見とも言える軍旗を持っていたことを。
私は胸元から青と黄の軍旗を取り出した。今はもう汚れ、色褪せていたが、それでもまだ言い表し難い光を持っていた。
それを見て将校は察したような顔を浮かべ、一人の男を呼びつけた。その男は私たちの姿を見て驚き、質問をしてきた。
「私が通訳だ。あなた方はスウェーデン軍の方々で間違いないな?」
「はい。我々は1ヶ月ほど前にロシア軍にポルタヴァの地で敗れ、ここまで逃れてきました」
その通訳は兵たちを見回した。そして頷いた。
「分かった。上に報告する。ここで待て」
待つこと1時間。別の将校が来た。
「カール12世陛下は、どこにおられる」
「別の小隊で南下されています。間もなくここに到着するはずです」
将校は頷いた。
「皇帝陛下の命により、あなた方を保護する。ベンデルという町へ案内しよう」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「まずは休むといい。食事と水を用意させる」
その夜、久しぶりに屋根のある場所で眠った。パンとスープをもらった。兵たちはむさぼるように食べた。私も食べた。温かかった。こんなに温かい食事はいつ以来だろう。
涙が出た。なぜか分からなかった。いや、分かっていた。ここにいない者たちのことを。
私の親友ともいうべき彼らから、知り合ったばかりの若者、そして名も知らない兵。彼らはこの温かさを知らない。私はここにいる。生きている。それが申し訳なかった。
涙が止まらなかった。考えのまとまらない中、その温かい感情だけが心を満たしてくれた。
数時間後、王の小隊が到着した。私は砦の入口で待っていた。そして王の姿が見えた。馬に乗っている。右脚をかばいながら。生きている。
「陛下」
私は駆け寄った。王が馬を止めた。
「レイフ」
その声は疲れていた。確かに届いた。
「無事でしたか」
「ああ」
王は馬から降りた。右脚を引きずっている。
「お前は?」
「はい。12人を失いましたが、他は無事です」
王は頷いた。
「そうか」
短い言葉だった。その目には安堵があった。
次の日。次の日も。また次の日も。小隊が到着し続けた。
アームフェルトの小隊。レーネの小隊。そして遅れて森から現れた小隊があった。レーヴェンハウプトの小隊だった。
「レイフ!」
レーヴェンハウプトが笑った。彼の後ろにはクラウスもいた。
「レイフさん!」
二人の声を聞いて、私の胸が熱くなった。
「生きてて嬉しいぜこのやろう」
「お前もな」
私は笑った。レーヴェンハウプトは私の首を抑え、頭をわしゃわしゃと嬉しそうに触る。私は彼の腕を掴んだ。強く。
「何やってんすか二人とも」
クラウスが笑いながら私たちを見ていた。本当に、本当に良かった。
「生きてて良かった」
私は小さく呟いた。レーヴェンハウプトが動きを止めた。そして。
「ああ」
彼も小さく答えた。
「俺もだ」
自然と笑顔が溢れた。久しぶりの笑顔だった。
そんな私たちの様子を見て、少し離れた場所でカールがやれやれとした顔で微笑んでいた。
その笑顔を見て、私は思った。王は変わった。かつての王なら、こんな顔はしなかった。兵の抱擁を冷たく見ていただろう。
今の王は微笑んでいる。疲れた顔で。確かに微笑んでいる。
あの夜、廃村でのあの夜。「もう一度歩いてみようと思う」あの言葉が王を変えたのだろうか。完璧な王ではなく。不完全な人間として。それが今の王だった。
全ての小隊が戻ったわけではなかった。数を数えた。2万で出発した。戻ってきたのは1万7千。3千が消えた。道に迷ったのか。ロシア軍に捕まったのか。飢えて死んだのか。誰も知らなかった。
それを考えると胸が締め付けられる思いだった。6万を数えた軍が、もうこんなに減ってしまったのか。
オスマンの役人が私たちを案内した。
「ベンデルという町です。ここでしばらく休んでください」
小さな町だった。石造りの建物が並んでいた。私たちは離宮の一角に案内された。
「皇帝陛下からの返答を待ってください」
役人はそう言って去った。私たちは部屋に入った。ようやく、ようやく屋根のある場所だった。兵たちは床に倒れ込んだ。誰も何も言わなかった。ただ、生き延びた。それだけが確かだった。
私たちはもう体力が限界に近かった。唯一分かるのは、ここに辿り着いた者たちが疲れ切っており、そのようなことを考える余裕など残っていなかったということだけだった。
流石に疲れた。
でも生きている。私はまだ生きている。
ヘニング。エーリク。
視界が霞む。お前たちはもういないんだな。
足が崩れた。すまない。
意識が朦朧とする。視界に靄がかかり歪む。カールの声が遠ざかっていくことだけが分かったが、体が追いつかない。
そうして私はその場に倒れ込んでしまった。南の暗い森の中を、私たちは影に紛れて進んだ。月明かりすらない。木々が空を覆い隠し、足音を殺して息を潜めながら、ただ南へ。
オスマン帝国へ。
それが王が我々に課した使命だった。
私の後ろには百人ほどの兵がいた。皆、音を立てない。
訓練された動き。
時折、誰かが枝を踏む音がすると、全員が立ち止まり、息を止めて耳を澄ませた。
追っ手はいない。まだ。
「進め」
小さく声をかけると、また歩き始める。
それは、ポルタヴァから逃れた最初の夜だった。
カールとの崖でのやり取りの後、焼け落ちた家々の間で、私たちは火を焚いた。
陛下がいた。レーネがいた。そして私がいた。三人だけだった。他の兵たちは少し離れた場所で休んでいた。
沈黙が続いた。火の音だけが聞こえた。
やがて王が口を開いた。
「レーネ」
レーネが顔を上げた。
「はい」
「戦局は、どうだった」
短い問いだった。その問いには重さがあった。
王は足を負傷していた。あの少年の狙撃。右脚に深い傷。馬に乗れない。前線に立てない。ポルタヴァでは指揮を執れなかった。カールにとって開戦以来、初めてのことだった。
レーネは少し間を置いてから答えた。
「壊滅的でした」
その声は平坦だった。感情を押し殺している。
「ロシア軍の砲撃は想定以上でした。塹壕からの一斉射撃、そして数的優位。我が軍は持ちこたえられませんでした」
王は黙って聞いていた。その拳が握られていた。
「何人、残っている」
「正確には把握できていません」
レーネは目を伏せた。
「開戦時、6万の兵がおりました。戦闘でおそらく半数近くを失いました」
沈黙。重い沈黙。
「残りは」
王の声が低く響いた。
「ペレヴォロチナの地で」
レーネは言葉を切った。そして、ゆっくりと続けた。
「1万以上の兵が、降伏しました」
誰も何も言わなかった。火だけが燃えていた。
「私が命じました」
レーネの声は変わらなかった。平坦なまま。その奥に何かが潜んでいた。
「撤退を指揮する中で、多くの負傷兵がおりました。深い傷を負った者。歩けない者。このまま連れて行けば全滅する。そう判断しました」
レーネは火を見つめた。
「何十年も軍にいたからこそ、多くの仲間や部下がいました。ヨハン、エリクソン、トーマス。他にも数え切れないほど。彼らは皆、陛下のことを思っていました。陛下のために最後まで戦いたい、と」
「ですが彼らの多くは深い傷を負っていました。全く自分のことさえ顧みない彼らの必死の訴えに、流石の私も揺らいでしまいました」
「彼らを全員連れて行くことは不可能でした。ロシア軍の追撃が迫っていました。部隊の速度を落とせば、残った者も全滅します」
レーネは拳を握った。
「だから私は彼らに『剣を置け』と命じました。『降伏しろ』と」
沈黙。
「彼らはそれは想像を絶するほど嫌がりました。『まだ戦える』『陛下に付き従いたい』と。ですが」
レーネの声が少しだけ沈んだ。
「私は命じました。部隊が生き延びるために。彼らもロシア軍に殺されてはいないはずです。運が良ければ治療を受けられる者もいるでしょう」
彼は王を見た。
「私は彼らの尊厳に、誇りに泥を塗ってしまいました。降伏した兵という汚名を着せてしまいました。それでも、彼らが戦うこともできず無惨に殺されるのを見たくはなかったのです」
「結果として現在、陛下に従う兵は約2万。開戦時の3分の1程です」
王は黙っていた。拳が握られたまま。右脚の包帯が目に入った。あの傷。あの傷が王から前線を奪った。王は自分を責めているのだろう。「余が前線に立てていれば」そう思っているのだろう。
レーネは目を伏せた。
「陛下。私の判断が正しかったのか。それは私にも分かりません」
その声はまだ平坦だった。その奥に苦悩が見えた。
「ですがこれ以上の選択肢はありませんでした」
彼は顔を上げた。
「報告は以上です」
沈黙が落ちた。
私はレーネを見た。彼の顔には感情がなかった。いつもの冷静な顔。その目の奥に何かが潜んでいた。あまりに多くの命を彼一人で決めた。その重さ。
やがて王が口を開いた。
「レーネ」
レーネが王を見た。王はゆっくりと立ち上がった。右脚を引きずりながら。
「お前は間違っていない」
その声は静かだった。確かに届いた。
レーネの目がわずかに見開かれた。
「陛下……」
王はレーネの前に立った。
「余が前線に立てなかった。それが全ての原因だ」
王は右脚を見た。
「余があの時、馬に乗れていれば。兵を率いることができていれば。いや、根本的にもう少し冷静なら、もっと多くの兵が死ぬことはなかったのだろうな」
王の拳が震えた。それは数多の命を握る者にしか分からない感情だったのだろう。
「余は立てなかった。お前に全てを任せた」
王はレーネを見た。
「そしてお前は最善を尽くした」
王の声に力があった。
「1万の兵を救い、2万を残した。彼らは今、生きている。捕虜になったかもしれない。命はある」
王はレーネの肩に手を置いた。
「お前のおかげで祖国は、スウェーデンは、まだ終わっていない」
レーネは目を閉じた。そして小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その声はかすれていた。確かだった。
王はレーネの肩を叩いた。そして全員を見回した。
「明日から分散して南下する」
短い言葉だった。
「2万を小隊に分ける。100人、200人の単位で。別々の道を行く」
私は眉をひそめた。
「危険では? 各個撃破される可能性が」
王は頷いた。
「ああ。このまま2万で動けば目立つ。ロシア軍に見つかれば追撃される。分散すれば一部が捕まっても全滅はしない」
レーネも同調する。
「大きな博打ですが、これしか生き残る術はない」
「ああ」
王は火を見た。
「これは賭けだ。余たちに他の選択肢はない。だから余を信じてくれるか」
その顔は今まで見たことのないような顔だった。まるで赦しを求めるような。
沈黙が落ちた。
やがて私が口を開いた。
「勿論です。分散して生き延びる。それが今、私たちにできる最善です」
王は私を見た。そして小さく頷いた。
「ありがとう、レイフ」
その夜、私たちは計画を立てた。
そして後日、他の将達と合流したのち、火を囲んで、レーネが地図を広げ、アームフェルトが小隊の編成を提案し、レーヴェンハウプトが合流地点を指した。議論は深夜まで続いた。
目的地はオスマン帝国とロシアの国境付近の街、ベンデル。そこを目指す私たちの壮絶な南下が始まった。
南下3日目。
食料が尽きた。朝、最後のパンを分け合ったが、一人に小さな一切れずつしか行き渡らなかった。
「これから、どうするんですか」
若い兵が聞いた。
「狩りをする」
私は答えた。心の中では分かっていた。この森に獲物などいない。戦争で全てが逃げた。私たちは飢えるだろう。
1週間目。
最初の小隊が消えた。合流地点に現れなかった。200人。どこへ行ったのか誰も知らない。ロシア軍に捕まったのか。道に迷ったのか。それとも。
私たちは半日待った。来なかった。
「進もう」
私はそう言った。兵たちは黙って頷いた。誰も何も言わなかったが、皆分かっていた。もう会えないかもしれないと。
2週間目。
川を見つけた。
「水だ!」
兵たちが駆け寄った。私も膝をついて手で水を掬った。冷たかった。喉が潤った。
「ありがたい……」
誰かが呟いた。私たちはしばらく休んだ。久しぶりに笑顔が見えた。
その時、私の小隊の中でも目立って若い兵が近づいてきた。
「隊長、水がこんなに美味しいなんて」
彼は笑っていた。その笑顔が眩しかった。
「名前は?」
「オーケと言います」
彼はオドオドしながら名乗った。
「そうか」
私は頷いた。
「もう少しでロシアを抜ける。だから耐え抜くぞ」
「本当ですか!」
「ああ」
私は純粋無垢な少年に嘘をついた。道のりがどれだけ残っているのかなんて分かるわけがない。地図やコンパスすらないのだ。その嘘でさえ必要に思えた。
「生きてて良かったな」
「はい」
オーケは頷いた。その笑顔が、心に焼き付いた。
長くは続かなかった。
銃声が響いた。
「伏せろ!」
私は叫んだ。兵たちが地面に倒れ込んだ。川の向こう、木々の間に影が動いた。ロシア軍だ。待ち伏せだった。
「撤退する! 森へ!」
私たちは走った。背後で銃声が続いた。誰かが倒れた。振り返ればオーケだった。
「隊長……!」
彼が手を伸ばした。私は目を逸らした。前を見るしかできなかった。
止まれば全滅する。それは正しかった。
私は走り続けた。森の奥へ。闇の中へ。オーケを置いていった。
その夜、数を数えた。12人がいなかった。死んだのか。捕まったのか。分からなかった。その中にはオーケもいた。あの若い兵。
「もう少しだ」
私は最後もまた彼に嘘をついてしまった。その「もう少し」に彼は辿り着けなかった。
兵たちは黙り込んでいた。私も何も言えなかった。ただ火を見つめていた。
止まれば全滅する。それは正しかった。倒れた兵の顔が見えた。オーケの顔が。彼も誰かの息子だった。誰かの友人だった。私は彼を置いていった。
それが指揮官の役目だと言い聞かせた。心が痛かった。
3週間目。
やっと地平線が開けた。森を抜けた。
そこには草原が広がっていた。遠くに建物が見えた。その向こうに霧があった。薄い白い霧。雪ではない。
雪はポルタヴァにあった。全てを埋め尽くす雪が。ここには霧がある。道を隠す霧が。
私はその霧を見つめた。この先に何があるのか分からなかった。
「あれは……」
隣の兵が呟いた。
「オスマンの砦だ」
私は答えた。
「着いたぞ。オスマン帝国だ」
兵たちの間にどよめきが起きた。誰かが泣いていた。
「生き延びた……」
小さな声だった。確かに聞こえた。
私は深く息を吐いた。ようやく。ようやく着いた。ここから、どうするのか。祖国は遠い。戻る道はない。私たちはどこへ行くのか。
オスマンの砦に近づくと、兵士たちが出てきた。彼らは私たちを見て驚いた。
ぼろぼろの軍服。泥と血にまみれた顔。飢えて目が窪んだ兵たち。一人の将校らしき男が前に出て私たちを問い詰める。何を言っているのか分からない。
トルコ語か。必死すぎて言語が通じないことを忘れていた。
私は焦りを覚えたが、前に出て説明をした。
「スウェーデン軍です。カール12世陛下に従う者たちです」
意思疎通ができない。将校は私を怒鳴りつけ、現場が緊迫してくる。私は何か身分を証明できるものはないかと見渡し、思い出した。
エーリクの形見とも言える軍旗を持っていたことを。
私は胸元から青と黄の軍旗を取り出した。今はもう汚れ、色褪せていたが、それでもまだ言い表し難い光を持っていた。
それを見て将校は察したような顔を浮かべ、一人の男を呼びつけた。その男は私たちの姿を見て驚き、質問をしてきた。
「私が通訳だ。あなた方はスウェーデン軍の方々で間違いないな?」
「はい。我々は1ヶ月ほど前にロシア軍にポルタヴァの地で敗れ、ここまで逃れてきました」
その通訳は兵たちを見回した。そして頷いた。
「分かった。上に報告する。ここで待て」
待つこと1時間。別の将校が来た。
「カール12世陛下は、どこにおられる」
「別の小隊で南下されています。間もなくここに到着するはずです」
将校は頷いた。
「皇帝陛下の命により、あなた方を保護する。ベンデルという町へ案内しよう」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「まずは休むといい。食事と水を用意させる」
その夜、久しぶりに屋根のある場所で眠った。パンとスープをもらった。兵たちはむさぼるように食べた。私も食べた。温かかった。こんなに温かい食事はいつ以来だろう。
涙が出た。なぜか分からなかった。いや、分かっていた。ここにいない者たちのことを。
私の親友ともいうべき彼らから、知り合ったばかりの若者、そして名も知らない兵。彼らはこの温かさを知らない。私はここにいる。生きている。それが申し訳なかった。
涙が止まらなかった。考えのまとまらない中、その温かい感情だけが心を満たしてくれた。
数時間後、王の小隊が到着した。私は砦の入口で待っていた。そして王の姿が見えた。馬に乗っている。右脚をかばいながら。生きている。
「陛下」
私は駆け寄った。王が馬を止めた。
「レイフ」
その声は疲れていた。確かに届いた。
「無事でしたか」
「ああ」
王は馬から降りた。右脚を引きずっている。
「お前は?」
「はい。12人を失いましたが、他は無事です」
王は頷いた。
「そうか」
短い言葉だった。その目には安堵があった。
次の日。次の日も。また次の日も。小隊が到着し続けた。
アームフェルトの小隊。レーネの小隊。そして遅れて森から現れた小隊があった。レーヴェンハウプトの小隊だった。
「レイフ!」
レーヴェンハウプトが笑った。彼の後ろにはクラウスもいた。
「レイフさん!」
二人の声を聞いて、私の胸が熱くなった。
「生きてて嬉しいぜこのやろう」
「お前もな」
私は笑った。レーヴェンハウプトは私の首を抑え、頭をわしゃわしゃと嬉しそうに触る。私は彼の腕を掴んだ。強く。
「何やってんすか二人とも」
クラウスが笑いながら私たちを見ていた。本当に、本当に良かった。
「生きてて良かった」
私は小さく呟いた。レーヴェンハウプトが動きを止めた。そして。
「ああ」
彼も小さく答えた。
「俺もだ」
自然と笑顔が溢れた。久しぶりの笑顔だった。
そんな私たちの様子を見て、少し離れた場所でカールがやれやれとした顔で微笑んでいた。
その笑顔を見て、私は思った。王は変わった。かつての王なら、こんな顔はしなかった。兵の抱擁を冷たく見ていただろう。
今の王は微笑んでいる。疲れた顔で。確かに微笑んでいる。
あの夜、廃村でのあの夜。「もう一度歩いてみようと思う」あの言葉が王を変えたのだろうか。完璧な王ではなく。不完全な人間として。それが今の王だった。
全ての小隊が戻ったわけではなかった。数を数えた。2万で出発した。戻ってきたのは1万7千。3千が消えた。道に迷ったのか。ロシア軍に捕まったのか。飢えて死んだのか。誰も知らなかった。
それを考えると胸が締め付けられる思いだった。6万を数えた軍が、もうこんなに減ってしまったのか。
オスマンの役人が私たちを案内した。
「ベンデルという町です。ここでしばらく休んでください」
小さな町だった。石造りの建物が並んでいた。私たちは離宮の一角に案内された。
「皇帝陛下からの返答を待ってください」
役人はそう言って去った。私たちは部屋に入った。ようやく、ようやく屋根のある場所だった。兵たちは床に倒れ込んだ。誰も何も言わなかった。ただ、生き延びた。それだけが確かだった。
私たちはもう体力が限界に近かった。唯一分かるのは、ここに辿り着いた者たちが疲れ切っており、そのようなことを考える余裕など残っていなかったということだけだった。
流石に疲れた。
でも生きている。私はまだ生きている。
ヘニング。エーリク。
視界が霞む。お前たちはもういないんだな。
足が崩れた。すまない。
意識が朦朧とする。視界に靄がかかり歪む。カールの声が遠ざかっていくことだけが分かったが、体が追いつかない。
そうして私はその場に倒れ込んでしまった。




