第47話 手を取る者
夜の野は、静かだった。
私は、まだ歩いていた。足が重い。息が上がる。だが、止まれない。
気づけば、朽ちた十字架のある小さな村に辿り着いていた。中心の教会に、明かりが見えた。
私は、その扉を開けた。
焦げた屋根の下で、彼はいた。椅子にもたれ、顔を伏せていた。金色の髪が、薄暗い光の中で沈んでいた。
「陛下」
王は顔を上げた。その目は、虚ろだった。
かつて戦場で誰よりも速く剣を抜き、誰よりも先に前へ出た男が、まるで影のようだった。
「レイフ」
その声は、もう王のものではなかった。
私は立ち尽くした。胸の中で、何かが渦巻いた。
無意識に、私は期待していたのだ。王が、何とかしてくれると。王が、道を示してくれると。
私は、その場に膝をついた。床に手をついて、王を見上げる。
「陛下、これから、どうするのですか」
私の声は震えていた。喉が渇いている。言葉が出てこない。
沈黙。
「指示を、ください」
王は何も言わない。ただ俯いている。
「何か、言ってください」
王は顔を上げた。その目を見た瞬間、私の体が凍りついた。
そこには何もなかった。答えも、道も、光も。
ただ虚無だけがあった。
私の胸の中で何かが沸き上がってくる。熱いものが込み上げる。
「何やってるんですか!」
私は叫んだ。
「何で、何で、そんな顔してるんですか!」
「レイフ」
王の声が小さく聞こえた。だが私は止まらない。止められない。
「大勢が死んだんだぞ!」
私の声が響く。割れる。
「ヘニングが、エーリクが死んだ!リューデルも....」
目から涙が溢れる。止まらない。
「皆、あなたのために死んだ! あなたを信じて!」
私は王の前に歩み寄った。胸ぐらを掴みたかった。
本当は彼の顔を殴りたかった。
だが、手が震えて動かない。
「なのに」
私の声が震える。
「なのに、あなたは、そこで座ってるだけですか.....」
涙が頬を伝う。
「何か言えよ!言ってくれよ.....」
「すまぬ」
王の声が小さく聞こえた。その声は震えている。
王は顔を覆った。その肩が震えている。
私は何も言えなくなった。怒りが、どこかへ消えていく。
代わりに、別の何かが胸を満たした。空虚。ただの空虚。
私はその場に座り込んだ。もう立っていられない。
火を見つめる。炎が揺れている。だが、その温かさが届かない。
王も、何も言わなかった。
ただ、俯いていた。
その肩が、小さく震えていた。
夜が、深くなっていった。
気がつけば、私は眠っていた。
疲労が、私を引きずり込んでいた。
どれくらい眠ったのか、分からなかった。
ふと、何かの気配で目を覚ました。
王が、いなかった。
椅子は、空だった。
「陛下?」
私は、立ち上がった。
教会の中を見回す。
だが、王の姿はなかった。
扉が、わずかに開いていた。
私は、外に出た。
月明かりが、村を照らしていた。
そして、遠くに、人影が見えた。
村の外れ。
崖の方へ。
私の心臓が、跳ね上がった。
「陛下ッ!」
私は、走り出した。
王は、崖の縁に立っていた。
下を見つめて。
その背中が、月明かりに照らされていた。
何を考えているのか、虚な顔を浮かべて。
だが、別の人影が、そこにいた。
彼は、少し離れた場所に立っていた。王を見つめて。
そして、
「陛下」
その声は、静かだった。
焦りも、恐れも、何もなかった。
ただ、静かに、王の名を呼んだ。
王は、振り返った。
「レーネか」
その声は、小さかった。
「死ぬ気ですか」
レーネの問いに、王は何も答えなかった。
ただ、再び崖を見た。
「お答えください」
レーネは、ゆっくりと近づいた。
その足音が、雪を踏む音だけが、響いた。
「余は」
王の声が、震えた。
「余は、もう」
言葉が、途切れた。
レーネは、王の正面まで歩いてきた。
だが、距離は開いている。
「全てを、終わらせたい」
王が、呟いた。
「余には、もう、耐えられぬ」
レーネは、何も言わなかった。
ただ、黙って聞いていた。
「皆を、死なせた」
王の声が、かすれた。
「余の命令で、余の判断で」
王の手が、震えた。
「何千、何万の命を、余は奪った。余の勝利のために、余のくだらない執念のために」
王は、自分の手を見た。
「この手で」
その手が、震えていた。
「余には、もう、生きる資格など」
「余には、もう、生きる資格など」
「ならば」
レーネの声が、静かに響いた。
王は、顔を上げた。
「死んで、どうなさるのですか」
レーネは、王を見た。
「あなたが死ねば、楽になる。それは確かです」
風が、吹いた。
「ですが——残された者は、どうなります」
王の息が、止まった。
「あなたが死んだところで、死んだ者は戻りません。国は救われません。」
レーネは、一歩近づいた。
「残るのは、王を失った国と、行き場を失った兵だけです」
王は、何も言えなかった。
「陛下」
レーネの声が、低くなった。
「あなたは、全てを背負いすぎている」
王が、顔を上げた。
「なのに、あなたは一つ忘れておられる」
「……何を」
「私たちが、いることをです」
レーネは、自分の胸に手を当てた。
彼は王を見た。
「私たちは、同じ戦場に立ってきました。同じ命令を聞き、同じ判断を支持してきた」
王の手が、震えた。
「それは余の——」
「いいえ」
レーネは、首を振った。
「それは、私たちの選択です」
その声に、何かがあった。
「あなたは命令を下した。ですが、私たちはそれに従うことを選んだ」
レーネは、王の目を見た。
「死んだ兵たちも、そうです。彼らは、あなたについていくことを選んだ」
王の唇が、震えた。
「だから——」
レーネの声が、わずかに震えた。
「あなたが一人で全てを背負い、一人で死ぬことは、彼らの選択を否定することになる」
沈黙が、落ちた。
「無礼を承知で言わせてもらいます。陛下。あなたは、王です」
レーネは言った。
「ですが、それ以前に——あなたは、私たちの戦友です」
王の目が揺れた。
「10年、戦場で共に人生を歩んできました。そこに王も将も兵も関係ありません。私たちは、あなたを必要としています。ただの王ではなく——」
レーネは、わずかに笑った。
「カール12世、あなたという人間を」
沈黙が、落ちた。
風が、吹いた。
雪が、舞い上がった。
レーネは、王を見つめていた。
その目には、何があったのか。
怒りでもなく、憐れみでもなく。
ただ、静かな――何かがあった。
そしてカールの顔が揺れる。
彼はその時何を感じていたのだろう。
だが、彼は顔を再び逸らす。
「ですが」
レーネは、小さく呟いた。
「こう言っても、あなたの意思は動かないのでしょう」
カールの顔が、ぴくりと反応した。
「あなたを止められるのは、私ではありません」
王は、顔を上げた。
レーネは、遠くを見た。
沈黙。
ただ、風の音だけが聞こえた。
そして――
遠くから、足音が聞こえた。
雪を蹴る音。
荒い息づかい。
レーネは、小さく笑った。
「来ましたね」
その言葉と同時に、私が辿り着いた。
「陛下ッ!」
息を切らしながら。
王は、私を見た。
その目に、驚きがあった。
「レイフ..... 」
私は、王の姿を見た。
崖の縁に立つ、その姿を。
「一体、何を.... 」
私の声は、震えていた。
王は、答えなかった。
ただ、崖を見つめていた。
私は、一歩近づこうとした。
その時だった。
レーネが、私の肩を軽く小突いた。
「遅いぞ」
その声は、いつもの調子だった。
その目が私を見下ろす。笑みを浮かべながら。
その眼が私に何をすべきか、訴えかけているような気がした。
私は、レーネを見て、彼は、小さく頷いた。
そして――
静かに、後ろへ下がった。
「これは」
レーネは、言った。
「お二人の問題です」
その言葉を残して、レーネは離れた。
遠くから、見守るように。
私と王だけが、崖の前に残された。
沈黙。
風が、吹いた。
私は、王の隣に立った。
「陛下」
王は、顔を背けた。
「来るな、レイフ」
その声は、小さかった。
「余に、近づくな」
私は、止まらなかった。
もう一歩、近づいた。
私は口をひらく。
「もうすぐ、10年ですね」
その言葉に、王は顔を上げた。
「何が」
「陛下が、私を救ってくれた日から」
私は、空を見上げた。
「あの日、塔での日を覚えていますか?」
王の目が、見開かれた。
私は、王を見た。
「陛下にとっては何気ない日でも、私にとっては運命が変わった大事な日なんです」
彼の蒼い双眸が久しぶりに私を捉える。
「あの頃の私は、自暴自棄で、もはや生きる意味が分からなくなっていました」
「でも」
私は、崖を見下ろした。
深い。
底が、見えない。
「あなたが、止めてくれた」
王の唇が、震えた。
私は、自分の手を見た。
「手を差し伸べてくれた。『立て』と、言ってくれた」
王の目から、涙が流れた。
「だから」
私は、手を差し伸べた。
「今度は、私が」
王は、その手を見た。
震える目で。
だが――
手を伸ばさなかった。
「余の手は」
王は、自分の手を見た。
「余の手は、血に塗れている」
その声は、かすれていた。
「何千、何万の血で」
王の手が、震えた。
「こんな手で、そなたの手を――」
私は、王の手を見た。
震える、その手を。
そして――
私は、その手を掴んだ。
王が、息を呑んだ。
「レイフ」
「血に塗れていても」
私は、王の手を握りしめた。
「手がある限り、人の手を掴むことができる」
王の目が、見開かれた。
「それが」
私は、王を見た。
「それが、生きている証です」
王の目から、涙が溢れた。
「私も」
私の声が、震えた。
「私も、血に塗れています」
「自分の都合で何人の命を奪ってきたか、もう覚えてすらいない。お世辞にも立派な人間なんて呼べない....」
私はカールに歩み寄り、カールの手を握りしめた。
「でも、私には、まだこの手がある」
「あなたの手を、掴むことができる」
王は、何も言えなかった。
ただ、泣いていた。
「あなたは」
私は、言った。
「あなたは、人間です。完璧じゃない。神じゃない」
私は、王を引き寄せた。
「私と、同じです。」
王は、崩れ落ちるように、私にもたれかかった。
「すまぬ」
その声は、震えていた。
「すまぬ」
私は、何も言わなかった。
ただ、王を支えていた。
王は、泣いていた。
声を上げて、泣いていた。
私の肩に、顔を埋めて。
遠くで、レーネが立っていた。
黙って、見守っていた。
その目には、涙があった。
どれくらい、そうしていたのか、分からなかった。
やがて、王の震えが、収まった。
「レイフ」
その声は、小さかった。
「余はまだお前達を導けるのか.....その資格があるのか」
私は、頷いた。
「私は、私たちはあなたが良いんです。だからあなたのために命を賭してきた。」
王は、自分の手を見た。
私が握りしめている、その手を。
「余も、繋がりを求めて良いのか....」
「ええ。普通に生きて良いんです。孤独な王としてでなく、一人の青年として。」
王の目から、また涙が流れた。
だが、その目には、何かがあった。
「ありがとう」
王は、小さく呟いた。
「レイフ。お前がいてくれてよかった.... 」
私は、王の肩を叩いた。
「戻りましょう、陛下」
王は、頷いた。
ゆっくりと、立ち上がる。
足が、震えていた。
私は、王を支えた。
レーネも、近づいてきた。
王を支えた。
三人で、教会へ戻った。
雪の中を。
ゆっくりと。
誰も、何も言わなかった。
ただ、雪を踏む音だけが、響いていた。
教会に戻ると、王は再び椅子に座った。
だが、その目は違っていた。まだ虚ろで、まだ壊れていたが、何かがそこにあった。
私は火を起こし、レーネも黙って座った。王も黙っていた。誰も何も言わず、ただ火を見つめていた。炎がゆらゆらと揺れ、その光が王の顔を照らしていた。
やがて王が口を開いた。
「余は、まだ分からぬ」
その声は小さかった。
「何をすべきか。どう生きるべきか」
王は火を見つめていた。
「だが」
王は自分の手を見た。私が握りしめた、その手を。
「だが、余は生きてみようと思う。そなたらが、そう言うなら」
その声は震えていたが、確かに何かを決めた声だった。
私は何も言わず、ただ頷いた。レーネも頷いた。
王は小さく笑った。その笑みは悲しげだったが、確かにそこにあった。
夜が深くなっていった。私は火の前で眠りについた。王も眠っていた。まだ震え、まだ壊れていたが、生きていた。それで十分だった。
夜が明けた。
私は火の前で目を覚ました。王は椅子にもたれ、その目は開いていた。レーネも起きていた。誰も何も言わず、ただ夜明けの光が教会に差し込んでいた。
王が動いた。ゆっくりと椅子から立ち上がる。足が震え、体が揺れていたが、私は立ち上がろうとはしなかった。レーネが手で制したからだ。
王は一人で立った。震えながら、一歩踏み出した。足が震え、体が揺れていたが、倒れなかった。もう一歩、また一歩。ゆっくりと、まるで歩き方を忘れた子供のように、だが確かに歩いていた。
王は教会の扉に向かい、そして扉を開けた。
外には朝の光があった。
そして――
二人の将軍が、立っていた。
レーヴェンハウプトとアームフェルトだった。
二人とも傷だらけで、軍服は血と泥にまみれ、疲労が顔に刻まれていた。だがその目には、まだ光があった。
王は、二人を見た。
二人も、王を見た。
沈黙が落ちた。
やがてレーヴェンハウプトが、一歩前に出た。
「陛下」
その声は掠れていたが、力があった。
「お話が、あります」
王は何も言わなかった。ただ頷いた。
「中へ」
王は、教会の中へ戻った。
レーヴェンハウプトとアームフェルトも、中に入った。私とレーネも立ち上がり、火の周りに集まった。
五人が、火を囲んで座った。
誰も、何も言わなかった。
炎の音だけが、響いていた。
長い沈黙。
やがて王が、口を開いた。
「余は」
その声は小さかった。
「余は、皆に謝らねばならぬ」
王は、自分の手を見た。
「余の判断で、余の命令で、多くの命が失われた」
レーヴェンハウプトが口を開こうとしたが、王は手を上げてそれを制した。
王の声が、震えた。
「余は、間違っていた。退くべき時に進み、聞くべき時に聞かず、皆を死地へ送った。余には、王としての資格など」
「陛下」
アームフェルトの声が、静かに響いた。
王は、顔を上げた。
「言わせてください」
アームフェルトは、首を振った。
「私たちは、あなたを止められませんでした。それもまた、事実です」
レーヴェンハウプトも、頷いた。
「俺も、補給を失いました。それが、無ければ今頃は勝てたかもしれなかった」
「違う」
王は、首を振った。
「余が、お前を送った。余の責任だ」
「いいえ」
レーネが、口を開いた。
「私たちは、皆責任を背負っています。皆で、ここまで来たのです」
王は、何も言えず、沈黙が、また落ちた。
やがて王が、顔を上げた。
「余は」
その声は、震えていた。
「余は、南へ向かう。オスマン帝国へ」
王は、皆を見た。
「スウェーデンへの帰路は閉ざされている、今はロシアの敵国のオスマンを頼る他ない。そこで何ができるか、分からぬ。だが、立ち止まっているよりは、ましだろう」
王の声が、少しだけ強くなった。
「ついてくる者は――」
言葉が、途切れた。
レーヴェンハウプトが、立ち上がった。
「当然です」
その声には、迷いがなかった。
アームフェルトも、立ち上がった。
その声も、揺るがなかった。
レーネも、立ち上がった。
私も、立ち上がった。
「それが、俺たち....カロリアンですから」
私はそう笑いながら彼を見た。
王は、皆を見た。その目元に涙が浮かぶ。
「……ありがとう」
その声は、小さかった。
彼は涙を拳で拭い、王は、扉を見た。
「余の最後の役目がある」
五人は、教会の扉へ向かった。王が先頭に立ち、私たちがその後ろを歩いた。
王が扉を開けた。
外には、数十名の兵がいた。
皆、傷つき、疲れ果てていた。軍服はぼろぼろで、顔は血と泥にまみれていた。だが、そこにいた。黙って、立っていた。
王は、兵たちの前に立った。
兵たちは、王を見た。
誰も、何も言わなかった。
風が、吹いた。
雪が、舞い上がった。
王は、ゆっくりと頭を下げた。
深く、深く。
その背中が、震えていた。
兵たちは、息を呑んだ。
そして――
一人、また一人と、頭を下げた。
誰も、何も言わなかった。
ただ、黙って、頭を下げ続けた。
どれくらい、そうしていたのか分からなかった。
やがて王が、顔を上げた。
その目には、涙があった。
「出発だ」
その声は、小さかった。
だが、確かに響いた。
「ついてくる者は、来い」
王は、歩き始めた。
一歩、また一歩。
震えながら、だが止まらなかった。
兵たちは、何も言わなかった。誰も歓声を上げず、誰も膝をつかなかった。
ただ、黙って、後ろを歩き始めた。
一人、また一人。
私たちも、歩き始めた。王の後ろを、レーヴェンハウプト、アームフェルト、レーネ、そして私。
誰も何も言わない。雪を踏む音だけが響く。
王の背中が前方に見える。震えながらも、前を向いて歩いている。
私は自分の手を見た。王の手を握りしめた、この手を。血に塗れた手。だが、人の手を掴むことができる手。それが、生きている証だ。
私たちは、歩き続けた。雪の中を、傷だらけの体で。だが止まらなかった。
王が歩く限り、私たちも歩き続ける。
遠くに、地平線が見えた。
その向こうに、何があるのか。
まだ、分からない。
だが――
歩き続ける。
第3章完結
こんな長い話を、ここまで読んでいただいてありがとうございます!
これにて第3章は完結となります。
この次の章から明確に話の転換点に入っていきます。
また投稿するので楽しみにしてください!
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