第45話 黄昏の命令
午後三時が迫っていた。
初戦の開始からすでに六時間以上。
私が前線に戻った時、そこは地獄だった。
血と泥と硝煙が渦巻き、悲鳴と砲声が耳を劈く。足元には倒れた兵の亡骸。赤く染まった雪。白い息を吐きながら、震える手で剣を握る若い兵たち。
私は走った。雪を蹴り、泥を踏み、倒れた馬を飛び越えた。
だが、すぐに気づいた。陣形など、もうなかった。
スウェーデン軍は砕け散り、各部隊は孤立し、硝煙の中で誰が誰だか分からない。ヘニングの姿も、エーリクの姿も見えない。探している余裕はなかった。
砲弾が着弾する。雪が舞い上がり、兵が吹き飛ぶ。
戻れない。部隊に戻ることは、できない。
ならば。
私は駆けた。丘の中腹へ。足が滑る。泥が跳ねる。だが止まらない。
倒れた旗手の傍を通り過ぎる。雪の中に、スウェーデンの旗が倒れていた。
私はそれを掴んだ。重い。布が血で濡れている。だが、掲げた。
丘の中腹。まだ硝煙に覆われていない場所。前線からも、後方からも見える場所。
私は、旗を高く掲げた。
そして、叫んだ。
「スウェーデン軍!」
声が、裂けそうだった。喉が痛い。だが、止まらない。
「撤退だ!!」
その声が、戦場を走った。
「王命である! 全軍、退却せよ!!」
風が、旗を靡かせる。青と黄色の旗が、雪の中で揺れた。
私は、叫び続けた。
「退け! 秩序を保て! 生きろ!!」
声が枯れる。息が上がる。だが、叫び続けた。
前線で、動きが止まった。兵たちが、私を見た。旗を見た。そして、信じられないという顔で、立ち尽くした。
「撤退……?」
誰かが呟いた。
「陛下が、退くというのか……?」
だが、やがて、動き始めた。剣を引き、後ろへ下がる。負傷した仲間を引きずり、倒れた友の亡骸を乗り越える。
私は、旗を掲げ続けた。手が震える。腕が痛い。だが、降ろさなかった。
この旗が、この旗だけが、今の私たちの道標だった。
少し離れた場所で、レーヴェンハウプトが剣を握りしめていた。
「は.....?」
剣を握る手が、震えていた。
「撤退だと.....?ふざけんじゃねぇ!」
彼の副官、クラウスが肩に手を置いた。
「ハウプトさん、もう」
レーヴェンハウプトは、その手を振り払った。だが、剣を振り上げることはなかった。その手が、止まった。
そして、ゆっくりと、剣を下ろした。
「まだ....まだ贖いきれてねぇんだよ、俺は」
彼は、膝をついた。雪の中に。片目を失った顔を、片手で覆った。
クラウスが、彼の肩に再び手を置いた。
「後にしましょう、今は命令を。」
レーヴェンハウプトは、ゆっくりと立ち上がった。その目は、虚ろだった。だが、足を動かした。後方へ。
丘の上では、アームフェルトとレーネが立っていた。二人は、戦場を見下ろしていた。旗を掲げるレイフの姿を。退き始める兵たちの姿を。
アームフェルトの顔が、曇っていた。
「間違いではないのか、本当に退くのか」
レーネは、小さく息を吐いた。
「限界だったのだ、王も。我々も」
彼は顔を上げ、兵たちを見回した。そして、大声で叫んだ。
「全軍、退却せよ!!」
その声が、戦場を走った。
アームフェルトは、レーネを見た。
「レーネ!」
レーネは答えなかった。ただ、苦しげな顔を浮かべながら、その巨躯を戦場から翻した。
「王がそう命じたのなら、それに従うのが将だ。」
「それに、グスタフお前もわかってるじゃろう」
レーネは静かに空を見た。
「この戦いは初めから詰んでいた、と」
アームフェルトは、何も言えなかった。ただ、戦場を見下ろしていた。退いていく兵たちを。崩れていく陣形を。
やがて、彼も剣を下ろした。そして、レーネに続いた。
私は、旗を掲げ続けた。兵たちが、私の前を通り過ぎていく。
ヘニングが、肩から血を流しながら駆けてきた。
「レイフ! お前……」
彼は、私の姿を見て、言葉を失った。旗を掲げ、立ち尽くす私を。
「……そうか」
彼は、小さく呟いた。
「そうするしか、なかったんだな」
私は、何も言えなかった。ただ、旗を掲げ続けた。
ヘニングは、部下たちに向き直った。
「聞いたな! 退くぞ! 置いていかれるな!」
その声が、雪の中に響いた。
エーリクもまた、若い兵を支えながら通り過ぎる。
「将軍……」
その目には、涙があった。
私は、頷いた。
「行け。生きろ」
エーリクは、唇を噛んだ。だが、頷き、後方へと下がっていった。
だが、最前線には、まだ動かない部隊があった。
親衛隊。リューデル率いる、王の剣。
私は、旗を地面に突き立てた。そして、走った。雪を蹴り、硝煙の中を突き進む。
最前線。そこには、親衛隊が陣形を保ったまま立っていた。ロシア軍の砲撃を受けながら、一歩も退かずに。
「リューデル!」
私は叫んだ。
彼が振り向いた。その顔には、血が流れていた。だが、その目は、いつもと変わらず冷徹だった。
「レイフ将軍か」
その声には、いつもの棘があった。
「王命だ!早く退け!」
リューデルは、首を横に振った。
「我々は残る」
「何を言っている!このままだと死ぬぞ!」
「ああ、死ぬだろうな」
彼は、戦場を見回した。退いていく兵たちを。崩れていく陣形を。
「このままでは、陛下は完全な敗北で終わる。それだけは、あってはならない」
私は、彼の胸ぐらを掴んだ。
「責任を果たさずに死ぬ気か! お前が死んで何になる!」
リューデルは、私の手を払いのけた。その目が、鋭く光った。
「責任だと?」
彼は、私を睨んだ。
「このまま撤退しても、生き残れる者は少ない。追撃を受ければ、全滅だ。陛下も、死ぬかもしれない」
「だからこそ」
リューデルは、剣を構えた。
「誰かが殿を務めなければならない。我々がここで時間を稼ぐ。その間に、陛下と本隊は逃げろ。それが、俺の.....王の剣としての責任だ」
私は、何も言えなかった。彼の目には、迷いがなかった。覚悟が、決まっていた。
「リューデル....」
彼が振り返り、その姿が西陽に照らされる。そして彼の体から流れる血が橙色に光る。彼がどんな顔を浮かべていたのかは、光のせいで見えなかった。
「お前は行け、レイフ、陛下にはお前が必要だ。」
リューデルは、私に背を向けた。そして、低く、だが確かな声で言った。
「レイフ・エークマン将軍、最後に覚えておけ!!俺は.... お前にはなれない!」
そして息を吸い、叫んだ。
「だがな.....お前も決して、俺にはなれない!」
私はその場で敬礼をし、その場を去った。
リューデルは、決して振り向かなかった。
私は、踵を返した。走った。後方へ。
やがて、前線から、歓声が聞こえた。ロシア軍の歓声。勝利の雄叫び。それが、雪の中を伝わってくる。
私たちは、負けた。初めて、負けた。
ロシア軍の陣地。ピョートル一世は、遠ざかるスウェーデン軍を見つめていた。丘の中腹に立つ、旗を掲げる一人の男を。
「十年だ」
彼は、呟いた。
「俺たちはあの獅子を倒すのに、十年もかかっちまった」
傍らの将軍が、勝利の報告を待っていた。だが、ピョートルは黙っていた。ただ、遠ざかる敵を見つめていた。
「カール」
彼は俯き、消えるようにふと、そう呟いた。
そして、急に起き上がったかと思うと、彼は髪を掻き上げ、夕陽を背中に立った。
「全軍、追撃だ。北の獅子をここで確実に討ち取る」
私は、ようやく旗を降ろした。腕が、もう動かなかった。手が震え、膝が笑う。
だが、まだ、終わっていなかった。
私は、旗を引きずりながら、後方へと下がり始めた。
雪は、降り続けていた。白く、冷たく。足元の雪が、血で赤く染まっている。
倒れた兵の亡骸を、踏まないように避ける。だが、避けきれない。
許してくれ。心の中で、そう呟いた。
夜が迫っていた。赤い夕日が、地平に沈もうとしていた。
雪原が、オレンジ色に染まる。
その色は、私にかつての王都での凱旋を思い出させた。
だが今は何もかも状況が違う。
私は、ただ歩き続けた。周囲の兵たちも、同じだった。皆、黙って駆け足で走る。誰も、何も言わない。ただ、雪を踏む音だけが、響いていた。
後方から、馬の蹄の音が聞こえた。私は、振り返った。伝令だった。
「レイフ将軍! ロシア軍が追撃を開始しました! 急いでください!」
私は、声を張り上げた。
「全軍! 速度を上げろ! ロシア軍が追ってくる!」
兵たちの顔が、恐怖に染まる。だが、足を速めた。疲労で、もう限界だったはずなのに。恐怖が、彼らを動かした。
私も、走った。雪を蹴り、泥を踏み、後ろへ下がった。
夜の闇が、迫ってくる。赤い夕日が、完全に沈もうとしていた。
雪は、降り続けていた。白く、冷たく。
私の頬に降り注ぎ、涙のように流れ落ちていった。
だが、それが雪なのか、涙なのか、もう分からなかった。
私は、ただ走り続けた。
そして、私が憧れた王が、もういないという現実を、受け入れられないまま。
闇が、迫ってくる。その闇の中に、私たちは消えていった。
1709年 ポルタヴァの地で我々は初めて敗北した。




