第43話 二人の王と一人の人間
残ったのは、三人。
カールとピョートル。
そして、私。
蝋燭の火が揺れていた。
天幕の外では、雪が、降り続けていた。
沈黙が続いた。
ピョートルはゆっくりと椅子を引き、腰を下ろした。まるで自分の宮殿にいるかのように、堂々と。その仕草は、驚くほど洗練されていた。
カールは立ったままだった。松葉杖に体重を預け、地図の前に立っている。右脚の包帯が、蝋燭の光に白く浮かび上がっていた。
私は天幕の隅に立ち、二人を見つめていた。
なぜ、私が残されたのか。
その理由が、分からなかった。胸の中で不安が渦巻いていた。
「初めて会ったのは、お前の戴冠式の後だったな。ウィーンの舞踏会で」
ピョートルが、非常に丁寧な口調で口を開いた。
「あの時、貴殿は使節団の一員としていらっしゃっていましたね」
カールは短く、だが丁寧に答えた。
「あの夜、貴殿は舞踏会の主役でいらしたはずなのに、どこか人を寄せつけない雰囲気を纏っておられましたね」
ピョートルの声は低く、どこか懐かしむような響きがあった。その言葉遣いは、貴族社交界のそれだった。完璧すぎるほどに。
「あれから随分と時が経ちました」
私は二人のやり取りを見つめていた。ピョートルの態度は、驚くほど礼儀正しい。だが、どこか不自然だった。まるで、演じているような——
「その芝居は、やめろ」
カールが、低く言った。
私は息を呑んだ。
ピョートルの笑顔が、わずかに硬直した。
「芝居? 何を仰っているのです、カール殿。私は——」
「貴様の本性を、余は知っている」
カールは冷たく言った。
ピョートルは黙って聞いていた。
そして——
ピョートルの笑顔が、ゆっくりと消えていった。
それまでの丁寧な態度、親しみやすい雰囲気、すべてが剥がれ落ちた。残ったのは、冷たく、空虚な笑みだけだった。
「……つれないやつだな」
ピョートルは、小さく笑った。
だがその声は、先ほどとは全く違っていた。
「せっかく久しぶりに会えたってのに、もう少し付き合ってくれてもいいだろうに」
私は、この突然の変化に戸惑った。まるで別人のようだった。
「戦争中の敵国の王が、何の用だ。要件を言え」
カールは言った。
「分かった、分かった」
ピョートルは背もたれに深く沈み込んだ。
「お前は昔から、そういうところがあったな。生真面目で、融通が利かない」
彼は外套についた雪を払った。その仕草すら、先ほどまでとは違って見えた。
「まあいい、本題に入ろう」
そうすると彼は手を広げ、カールの顔を見た。
「カール。この戦争を終わらせよう」
その声は低く、冷たかった。
私は息を呑んだ。戦争を終わらせる? 一体、何を——
「お前は今、苦境に立たされている。補給は途絶え、兵は疲弊し、冬は厳しい。このままポルタヴァに進めば、待っているのは破滅だけだ」
「……それで?」
カールの声は静かだった。
「降伏を勧告しに来たのか」
「いや」
ピョートルは首を振った。
「お前は降伏に応じないことを知ってる。だから持ってきたのは講和だ」
その言葉に、私は驚きを隠せなかった。
降伏ではなく、講和。
それは、対等な立場での交渉を意味する。敵国の皇帝が、自ら敵陣に乗り込んで、講和を提案する——そんなことが、あり得るのか。
「現実的な条件を提示しよう」
ピョートルは続けた。
「お前はスウェーデンに戻れ。バルト海沿岸の一部の領土は譲ってもらうが、本国と主要な領土は保持できる。賠償金も最小限に抑える」
「兵士たちの命も、お前の地位も、すべて守られる。敗戦の王としてでなく、平和を選んだ王として名声を保てる」
その提案は、驚くほど寛大だった。
私は、この男の真意が測れなかった。なぜ、ここまで譲歩するのか。
普通なら、ここまで追い詰められた敵に対して、もっと過酷な条件を突きつけるはずだ。
だが——
「断る」
その一言は、即座に発せられた。
私は驚いた。こんな好条件を、なぜ——
沈黙が落ちた。
ピョートルは、わずかに首を傾げた。
「……そうか」
彼は、小さく笑った。
「まあ、そうだろうな」
その声には、何の驚きもなかった。
まるで、最初から分かっていたかのように。
「要件はそれだけか?」
カールが、低く言った。
「それだけなら、使者を寄越せばよかったはずだ」
そうだ——なぜ、ピョートル自らが?
「なのに、王自ら何をしに来た」
カールの目が、ピョートルを見つめた。
ピョートルは答えなかった。
ただ、静かに笑っている。
「お前こそ」
ピョートルは、ゆっくりと言った。
「なぜ、王自ら軍を率いてロシアのこんな奥深くまで来た」
その問いに、カールの目が揺れた。
「将軍に任せてお前はストックホルムの宮殿でふんぞり帰っていればよかったのに」
ピョートルは続けた。
「なのに、お前は来た」
沈黙が落ちた。
私は、二人のやり取りに引き込まれていた。
二人とも——同じことをしている。
王自ら、戦場に。
「俺たちは似ている」
ピョートルは、静かに言った。
「そうだろう?」
カールは何も言わなかった。
「俺は、自分のことしか考えていない」
ピョートルは淡々と言った。
「ロシアのためでも、民のためでもない。ただ、俺自身のために戦っている」
その告白に、私は息を呑んだ。
「そして、お前もだ」
ピョートルの視線が、カールを捉えた。
「お前も、自分のために戦っている」
「違う」
カールは言った。だがその声には、力がなかった。
「いや、同じだ」
ピョートルは首を振った。
「だからこそ——」
彼は、わずかに身を乗り出した。
「俺は、お前と話したかった」
その言葉が、天幕に落ちた。
カールは、何も言わなかった。
「決戦の前に」
ピョートルは続けた。
「お前に会いたかった」
沈黙が落ちた。
私は、この男の真意が測れなかった。
なぜ、ここまで——
「ところで」
ピョートルは、話題を変えた。
「密使から報告が入っている」
カールの目が、わずかに揺れた。
「フロウシュタット、だったか」
その名前に、私は息を呑んだ。
「降伏した兵を、虐殺したそうだな」
ピョートルの声は、淡々としていた。
「8000人だっけ?」
沈黙が落ちた。
カールは何も言わなかった。
ただ、拳を握りしめていた。
「報告によれば」
ピョートルは続けた。
「お前は、それで精神を蝕まれているらしいが、その様子を見るに本当かなこれは」
その言葉に、カールの肩が強ばった。
ピョートルは、わずかに間を置いた。
そして——
その目から、涙が流れた。
私は息を呑んだ。
涙?
ピョートルが——泣いている?
「ああ、可哀想に」
ピョートルは、声を震わせた。
私は、この光景に戦慄した。
何か、根本的に間違っている。
カールも顔を強張らせていた。
何か理解できない存在を見るかのように。
ピョートルは、周囲を見回した。
私と、カールを。
そして——
「あれ?」
彼は、首を傾げた。
「違ったか」
その言葉に、私は凍りついた。
違ったか——何が?
ピョートルは、涙を拭った。
その仕草は、まるで演技を終えた役者のようだった。
その言葉が、天幕に落ちた。
私は、言葉を失った。
この男は——
「貴様」
カールの声が、低く響いた。
「貴様が余を残酷だと糾弾するか」
ピョートルは、何も言わなかった。
ただ、静かに笑みを浮かべている。
「焦土作戦と称して自国民の村を焼き、従わないものは殺して行っただろう。余とは比べ物にならないほどの数の人間を」
「貴様は、何も感じないのか」
その声は、糾弾だった。
「民を殺しても。」
「貴様は——感情が、ないのか?」
カールは珍しく、嘲笑するかのようにピョートルに言葉を投げかける。
その言葉が、天幕に響いた。
沈黙が落ちた。
だが、ピョートルは——
「ん?」
わずかに、笑みを浮かべた。
その笑みには、何かがあった。
いや——何もなかった。
ただ、空虚な笑みだけが。
私は、その笑みを見て、何かが背筋を走るのを感じた。
違和感。
この男——
カールの顔が、歪む。
「貴様——」
その言葉が、途切れた。
ピョートルは答えなかった。
ただ、静かに笑っている。
その笑みは、完璧だった。
だが——その奥に、何もなかった。
沈黙が落ちた。
私も、ようやく理解した。
この男は——
もしかして、感情がないのか?
「お前は今、心身ともに弱っている」
ピョートルは、淡々と言った。
「足の傷で馬にも乗れない。前線にも立てない」
「開戦以来、初めてのことだろう」
カールは何も言わなかった。
「だから、怖いんだ」
ピョートルは続けた。
「勝てなければ、前線に立てない自分に価値がないと思っている」
その言葉は、容赦なかった。
「だから——」
ピョートルの視線が、ゆっくりと私に向けられた。
私は息を呑んだ。
その目には、冷たい観察眼があった。
「君を残した」
ピョートルは言った。
「君の名前は知らない。だが、お前とカールの関係は分かる」
私は動けなかった。
「歪んでいる。依存している」
その言葉に、私は胸が締め付けられるような思いだった。
「カールと話してきたのなら理解しているだろう。彼に人間と王は相容れない」
ピョートルの声は、容赦なかった。
「カールは、お前がいることで自分がまだ人間であることを確認している。
お前は、カールの人間性の依り代なんだ」
私は、その言葉の意味を理解した。
そうだったのか。
陛下は、私を——
ピョートルが、わずかに笑った。
その笑みには、何の温かみもなかった。
「面白い仕組みだ」
その瞬間——
「黙れ」
カールの声が、低く響いた。
ピョートルは、わずかに眉を上げた。
「お前は」
彼は、静かに言った。
「弱い」
その一言が、天幕に落ちた。
カールの顔が、歪んだ。
「人間性を捨てきれず、王にもなりきれない」
ピョートルは続けた。
「だから、こんなにも苦しんでいる」
「黙れと言っている!」
カールが、立ち上がろうとした。
松葉杖を掴み、体を起こす。
だが——
足の傷が、痛んだ。
体が、よろめく。
私は、思わず一歩前に出かけた。
だが——
カールは、机に手をついた。
倒れることだけは、避けた。
その姿は——
息を荒げている。
松葉杖は、床に転がっていた。
だが、カールは立っていた。
机に手をつき、ピョートルを睨みつけている。
沈黙が落ちた。
ピョートルは、動じなかった。
ただ、静かにカールを見つめていた。
「お前は」
ピョートルは、静かに言った。
その声には、何かがあった。
いや——何もなかった。
「俺には、ない何かを持っている」
その言葉が、天幕に響いた。
カールは、何も言わなかった。
「お前は人として死ねない。そして俺は、人として生きられない」
ピョートルは、立ち上がった。
「皮肉だよな」
「それが、俺たちの運命だ」
そうしてピョートルは天幕の出口へ向かった。
「まあ今日はこれぐらいでいいか。じゃあな、カール」
彼は、背を向けたまま言った。
「また『今度』会いに来るぜ。」
そうしてピョートルは天幕の入り口付近まで向かうと、突如立ち止まった。
そして——
初めて私に顔を向けた。
まるで初めて私を認識したかのように。
それまで、彼の視線は常にカールに向けられていた。私は、ただの背景だった。
天幕の隅に立つ、影のような存在だった。
だが今、その冷たい栗色の瞳が、私を捉えた。
私は息を呑んだ。
その顔には薄らと笑みが浮かんでいたが、その視線には、何の感情もなかった。ただ、冷たい観察眼だけがあった。まるで、珍しい標本を眺めるような。
「君の名前は知らない」
ピョートルは言った。
「だが、一つだけ言っておこう」
彼は、わずかに首を傾げた。その仕草は、まるで人間の動作を模倣しているようだった。
「歪んだ依存は、必ず破綻する」
その声は、冷たく、淡々としていた。
「お前がカールを支え続ければ、いずれお前も壊れる」
「カールがお前に縋り続ければ、いずれカールも壊れる」
私は、その言葉の意味を理解した。
だが、反論することができなかった。
「そして——」
ピョートルは、私から視線を外した。まるで、もう興味を失ったかのように。
「二人とも、同じ場所で終わる」
その言葉は、予言のようだった。
「お前は人間だ。だが、カールはもう人間ではない」
「俺も人間ではない」
「だが、お前は違う。お前は、ただの人間だ」
その言葉には、何の侮蔑もなかった。ただ、事実を述べているだけだった。
「人間が、人間でない者を支えようとすれば——」
ピョートルは、そのまま歩き出した。
「必ず、引きずられる」
天幕の入り口が開き、閉じる。
残されたのは、沈黙だけだった。
そして、その言葉の余韻だけが、冷たく響いていた。
残されたのは、沈黙だけだった。
カールは机に手をついたまま、動かなかった。
松葉杖は、床に転がっている。
その姿は——あまりにも、無防備だった。
私は、何も言えなかった。
ピョートルの言葉が、天幕の中に残響のように響いていた。
長い沈黙の後、カールは小さく呟いた。
「……あの男には——」
その声は、震えていた。
私は何も言えなかった。
「何もないんだ」
その言葉が、天幕に落ちた。
沈黙が落ちた。
私は——何を言えばいい。
「だが、余はそれでも退けない」
カールは顔を上げた。その目には、諦めがあった。
「ここまで来てしまった。もう、引き返せない」
「陛下……」
「レイフ」
カールが、私を見た。
その目には、何かがあった。
痛み。そして——依存。
「お前は、余と共に歩めるか」
その問いに、私は答えられなかった。
戦える、と言えば、この破滅への道を認めることになる。
戦えない、と言えば、この人を見捨てることになる。
そして何より——ピョートルの言葉が、頭の中で響いていた。
『歪んでいる。依存している』
私と陛下の関係は、本当に歪んでいるのだろうか。
私は……
「……分からない」
ようやく、言った。
「もう何も、分からない」
その言葉は正直だった。
あまりにも、正直すぎた。
カールは何も言わなかった。
ただ目を逸らした。
「……そうか」
彼は、小さく言った。
その声には失望があった。
それとも諦めだったのだろうか。
カールの声が、低くなった。
私はただ、カールに振り返ることなく天幕を出ていった。
逃げるように。
外に出ると、あたり一面が豪雪に覆われていた。
私は空を仰いだ。
真っ暗な空。何も見えなかった。
星も、月も、何もない。
ただ雪だけが、降り続けていた。
「……私は」
私は、呟いた。
その言葉の続きはいくら待てど出てこなかった。
王に従う臣下か。
平和を求める戦災孤児か。
それともただの、陛下の精神的な支柱か。
ピョートルの言葉が、頭の中で繰り返された。
『お前は彼の、スウェーデン王カール12世の人間性の依り代だ』
「……いつからこんなことになった」
私は、呟いた。
もう何も、分からなかった。
正しいことも。
間違っていることも。
守るべきものも。
すべてが曖昧な虚飾となっていた。
それはまるで、先王が死んだあの日のような。
私は考えるのをやめ、歩き出した。自分の天幕へ。
だが足が重かった。まるで雪に沈んでいくように。
一歩、一歩が辛かった。
背後で、カールの天幕の明かりが揺れていた。
振り返りたい衝動に駆られた。
だが、私は振り返らなかった。
一度歩んだ道は、もう誰も戻れない。
明日も、もう誰も戻らないのかもしれない。
だが、それでも進もうとするのは、逃げないのは、私もおかしいのだろうか。




