第41話 消えゆく雪
天幕の中、カールは椅子に座っていた。地図の前に。蝋燭の光だけが、揺れている。
だがその姿は、いつもと違っていた。足を引きずりながら座り、松葉杖が椅子の脇に立てかけられていた。
右脚には、厚い包帯が巻かれている。先の少年に負わされた傷だ。
私は、その包帯を見つめた。あの子供の、絶望と憎悪に満ちた目を思い出す。
「こんな遅くに何の用だ、レイフ」
彼は、顔を上げなかった。その声はいつもの、あの絶対的な自信に満ちた声ではなかった。どこか、疲れていた。
「すみません陛下、どうしても伺わないといけないことがあり」
私は、中に入った。扉を閉める音が、妙に大きく響いた。
沈黙が落ちた。カールは地図を見つめたまま、動かなかった。その指が、地図の上をなぞっている。ポルタヴァを。何度も、何度も。
私は深呼吸をした。
「フロウシュタットでの件を聞きました。」
その瞬間、カールの指が、止まった。
「そうか」
それだけだった。その声には、驚きも、動揺も、何もなかった。
「教えてください。あの時、なぜ降伏した兵を、殺したのですか」
「火種になるからだ」
カールは、淡々と言った。まるで戦術を説明するように。
「解放すれば、再び武器を取る可能性があった」
「可能性? それで殺したのですか、8000人もの、命乞いをした者たちを?」
私の声が、わずかに上ずった。
「そうだ」
カールは、頷いた。
「それが最善だった」
最善。
その言葉が、胸に突き刺さった。
「陛下は、それが正しいと思っているのですか」
「正しい?」
カールは、ようやく顔を上げた。
その目を見て、私は息を呑んだ。そこには何もなかった。感情が、ない。まるでガラス玉のような、空虚な目だった。
「戦争に正しさなど、ない。あるのは勝利だけだ」
その言葉は冷たかった。氷のように。
「余は勝たねばならぬ。それ以外に道はない」
彼は地図に視線を戻した。その手が、わずかに震えた。
「三日後にロシア軍を打ち破り、ポルタヴァを落とす。そうすれば勝てる」
彼は病にうなされる時の譫言のように繰り返す。
その言葉を何度聞いたか分からない。
もううんざりだ。
私は彼を見つめた。その横顔を。そこには焦燥があった。深い、深い焦燥が。まるで溺れている者が、水面を求めるような。
「陛下。足の傷は」
「問題ない」
カールは、短く言った。だがその声は、わずかに震えていた。
「ですが、馬には、乗れないはずです」
沈黙が落ちた。カールは何も答えなかった。ただ拳を握りしめていた。その手が白くなるほど、強く。
「初めてだ」
彼の声が、小さくなった。
「余が前線に立てないのは」
その声は震えていた。
「開戦以来、初めてだ」
私は何も言えなかった。ただ彼を見つめていた。カールは地図を見つめたまま、動かなかった。だが、その目には恐怖があった。
「教えてください。陛下の最善で心は痛まなかったのですか。そして、今の行軍は本当に勝利への『最善』なのですか」
私は聞く。ずっと考えてきたが言う勇気がなかった。
だが、不思議と今は何も考えずに言葉が出てきた。
カールは地図を見つめたまま、動かなかった。
「三日後」
彼は、唐突に言った。
「三日後にポルタヴァを落とす。そうすれば勝てる。ピョートルを打ち破れる」
その声は平坦だった。まるで何かを暗唱するように。悪夢にうなされる子供のように。
「ポルタヴァを落とせば——」
「陛下..... 」
私の声が、大きくなった。
「三日後」
カールは、同じ言葉を繰り返した。
「三日後に——」
その瞬間、私の手が動いていた。
カールの胸ぐらを掴んだ。
「陛下!!」
私は叫んだ。
カールの目が、大きく見開かれた。驚き——そして、何か別のものが浮かんだ。
「あなたの判断で、命が消えたんだ! 8000人もの!」
私の手が震えていた。
「そしてこのままだと、また消えていく! あの平原で、何千、何万人も!」
カールは何も言わなかった。ただ私を見つめていた。
「現実から目を背けるな、逃げるな!」
私は、彼を揺さぶった。
「あなたは王だ!王なら、現実を見ろ!」
その瞬間。
カールが、私の手を払った。
その力は強かった。私は、よろめいた。
「現実?」
カールの声が、低くなった。
「お前に、何が分かる」
彼は立ち上がろうとした。だが足の傷が痛み、よろめく。松葉杖を掴んで、ようやく立った。
「かつてのあなたは兵を生かすために戦った。勝利のために最善の策を選んだ」
私は、拳を握りしめた。
「だが今は。今のあなたは自分の勝利のために、兵を死地へ誘っている」
「黙れ!」
カールが、叫んだ。
「明日の進軍を見ればわかる! あの平原に遮蔽物は何もない! 大砲の射程で四万の敵が待ち受けている! それでも進むのは、勝たなければ、あなたの存在意義が消えるからだ!」
「黙れと言っているのが分からないのか!」
カールが、立ち上がろうとした。だが足の傷が痛み、よろめいた。彼は松葉杖に手を伸ばすが、届かない。
私はそれを見ていた。ただ見ていた。手を差し伸べることもできず。
カールは椅子に座り込んだ。息を荒げていた。その姿は王ではなかった。ただの、傷ついた若者だった。
「陛下」
私は、静かに言った。
「あなたはもう何も見えていない。そして今、一番大事にしていた勝利さえも失おうとしている」
カールの声が、震えた。
「お前に....」
「あの日、自ら命を断とうとしていたお前に」
彼の声が裂けた。
「父に託された責任から逃げようとしたお前が……余に責任を語るか!!」
その言葉に、私は息を呑んだ。
カールは、初めてあの日のことを口にした。
だが——怒りは、湧かなかった。
ただ、胸が痛かった。
「今の陛下を見れば、きっと先王も悲しむだろうな」
私はポツリと呟いた。
その言葉はただ私の中から溢れ出してきた。
その瞬間、カールが机を叩いた。
「何だと....」
彼の声は震えていた。
「たかが臣下の分際で、お前に、お前に.... 一体余の何がわかるッ……!!?」
「分かる」
私は、彼を見た。もう後には引けなかった。
「この数年、あなたを横で支え続けた。あなたの人間らしさを私は知っている。あなたはもう、民のために戦っていない。ただ自分のために、勝とうとしているだけだ」
「黙れッ!!余がいなければ.....!」
カールが、叫んだ。
彼は、机に手をつき体を乗り出した。
そして私の胸ぐらを掴む。その手が震えていた。
「余がいなければ、スウェーデンは、ここまで来られなかった!」
その声は、もはや王のものではなかった。何かが、崩れ始めていた。
「誰が指揮を取れた!? 誰もが余を子供と嘲り、見下していた。だがそんな奴らを余は屈服させ、打ち破ってきた!」
彼の声が、さらに荒れた。
「余がいなければ三カ国同時に相手して優位に立ち回れたか!?欧州の覇を望めたか!!?」
彼は松葉杖で床を叩いた。
「なぜ民は、兵士は余を崇めている?なぜ敵は余を恐れる!?勝利だ、強さだ!」
「だからこそ……余は勝ち続けなければならない! それが余の存在意義だ!」
彼の顔が歪む。
「負けたら、余はもはや"何でもない"!」
その叫びは悲鳴のようだった。
そして、天幕の中に沈黙が落ちる。
その瞬間は、外の豪雪の音だけがはっきりと聞こえてきた。
カールは息を荒げていた。松葉杖にもたれかかったまま、動けないでいた。
私は何も言えなかった。ただ彼を見つめていた。
やがてカールは、椅子に座り込んだ。
そして、顔を上げた。
その目には、何かがあった。私に訴えかける何かが。
「レイフ」
彼の声は低かった。
「お前は、なぜそこまで人の命を気にかける」
私は息を呑んだ。
カールは私を見た。
「お前は臣下だ。命令に従うだけでいい。なぜ、そこまで——」
彼は言葉を切った。
「民の命など、気にかける」
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
今まで心に在った何かが。
「陛下」
私の声が震えた。
「あなたに今、初めて話します」
カールの目が、わずかに見開かれた。
私は深く、息を吸った。
「私は戦災孤児です」
不思議とその瞬間は、過去の記憶が蘇らなかった。
ただ、目の前のカールしか目に入らなかった。
カールは私に何も言わなかった。ただ私を見つめていた。
その目に、初めて何かが浮かんだ。
驚き——そして、何か別のもの。
「父も、母も、村も、焼かれた」
言葉にするたびに、あの日の光景が鮮明になる。
「母は兵士たちに、嬲られた。父は抵抗して、殺された。そして私は、隠れて見ていた」
カールの顔が、蒼白になった。
「だから剣を取った。先王陛下に拾われて、もう誰も悲しむ者がいない世界を作るために」
私は拳を握りしめた。
「初めは大義を信じていた。祖国を守る。民を守る。正義のために戦う」
「そして」
私は、カールを見た。
「あなたに、憧れていた。若くして、誰よりも先陣を切る。強く、勇敢で、理想の王だと思っていた」
カールは何も言わなかった。ただ私を見つめていた。
私は、ふと気づいた。
彼も——黙っていた。
フロウシュタットを。
そして私も、黙っていた。
自分の過去を。
私たちはお互いに——何一つ、話していなかった。
「でも」
私は、声を震わせた。
「今日、あなたの膝を撃った子供。あの子の父親を殺したのは、あなただった。村を焼いたのも、妹を奪ったのも」
「レイフ」
カールが、初めて私の名を呼んだ。
だが私は、止まらなかった。
「あの子が私を見る目は、私が、かつて憎んだ"侵略者"を見る目だった」
私の声が裂けそうだった。
「いつの間に私は、あの子を生み出す側になったんだ」
沈黙が落ちた。重い、重い沈黙が。
天幕の扉が風で開き、雪が舞い込んでくる。
その雪は机に落ちたかと思うと、ゆっくりと溶けていく。
「陛下。答えてください。なぜ、ですか。なぜ私は、私たちはこうなってしまったんですか」
カールは、長い沈黙の後、口を開いた。カールの目に、何かが浮かんだ。理解、だろうか。それとも——
「余は」
その声は小さかった。まるで子供のような。
「余は生まれたときから、王だった」
私は黙って、聞いていた。
「父は教えた」
カールは、続けた。
「涙を見せるな。怒りを見せるな。慈悲を見せるな。人である前に王であれと」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「父上は偉大な王だった」
カールの声が、わずかに震えた。
「余は——それを、超えねばならなかった」
彼は地図を見つめた。
「だが」
カールは、机を掴んだ。
「父上が死んだ時」
彼の声が、震えた。
「余は——」
言葉が途切れた。
彼は顔を背けた。
「それから、余は何のために戦っているのか、分からなくなった」
カールの声が、さらに小さくなった。
「父上に認められるために戦っていたのに、父上はもういない。ならば、誰が余を認めるのか」
その問いに、答えはなかった。
「だから」
カールは、椅子に深く座り込んだ。
「勝つしか、なかったんだ。勝利だけが、余の存在を証明してくれた」
その声は震えていた。まるで何かに縋るように。
「でも」
彼は、顔を覆った。
「負けたら、余は終わりだ。余という存在が消える。残るのは、王でも人間でもない、『何か』だけだ」
私は何も言えなかった。ただ立ち尽くしていた。
初めは困惑、そして純粋な怒りだった。
だが、今は....
天幕の中で沈黙が続いた。
カールは顔を覆ったまま、動かなかった。その肩が、わずかに震えている。
私は——何を言えばいい。
昔の、少年だった頃の彼の姿が浮かぶ。
剣を握る手。開かれた書物。街を歩く姿。
私は、ずっとそれを見ていた。
横から。後ろから。
こんなに長く、彼と向き合ったことはなかった。
「陛下」
私は、ようやく口を開いた。
「私は」
言葉が途切れた。何を、言おうとしていたのか。
「憎みたい。多くの命を奪ったあなたを憎みたい」
私は、言った。
「だけど——」
声が震えた。
言葉が出ない。ただ胸が痛かった。
カールは顔を上げた。その目が揺れている。
「あなたを見捨てることなんて.....」
私は、拳を握りしめた。喉が締め付けられる。
その言葉が天幕に響いた。
カールの目が揺れた。そして何かが、その目から消えた。
沈黙が落ちた。重く、息苦しい沈黙が。
かつて主従だった二人。
かつて互いを必要としていた二人。
だが今は....
もう届かない。どんなに手を伸ばしても届かない距離に、いた。
「陛下」
私は、言った。
「今からでも止まってください」
初めてカールに止まれといった。
初めて戦うのをやめろ、と。
もっと早く言うべきだったのか、そうすれば何か変わったのだろうか。
「このまま進めば破滅しかありません。皆が死んでしまいます」
私の声が震えた。
「私たちは、もう十分すぎるほど血を流しました。これ以上失うものはありません。だから、止まって和平を結びましょう。」
カールは目を閉じた。長い、長い沈黙が続いた。
「無理だ」
彼は、小さく言った。
「余は止まれない」
その声は、諦めに満ちていた。
「なぜ」
「ここで止まれば」
カールは、目を開けた。
「あの死者たちの犠牲が、すべて無駄になる。彼らは余を信じて、散っていった」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「ここで引き返すことは」
カールは、私を見た。
「余を信じて散っていったものたちへの侮辱だ。そして余にとっての、死だ。」
その目には覚悟があった。進むことも止まることも、どちらも破滅だと知っている。それでも進むしかない。そんな覚悟が。
私は何も言えなかった。ただ胸が痛かった。
「レイフ」
カールが、私を見た。
その目は静かだった。
「お前は余と共に、戦えるか」
その問いに、私は答えられなかった。
戦える、と言えば、この破滅への道を認めることになる。
戦えない、と言えば、この人を見捨てることになる。
私は……
「分からない」
ようやく、言った。
「もう何も、分からない」
その言葉は正直だった。あまりにも、正直すぎた。
カールは何も言わなかった。ただ目を逸らした。
「そうか」
彼は、小さく言った。
その声には失望があった。それとも諦めだったのだろうか。
「ならば下がれ」
カールの声が、低くなった。
その声はもう、王の声に戻っていた。いつもの命令。
私は何も言え図、ただ深く、頭を下げた。
そして振り返って、天幕を出た。
外に出ると、雪が降り続けていた。白く、冷たく。すべてを埋め尽くすように。
私は空を仰いだ。真っ暗な空。何も見えなかった。星も、月も、何もない。ただ雪だけが、降り続けていた。
私は歩き出した。自分の天幕へ。だが足が重かった。まるで雪に沈んでいくように。
一歩、一歩が辛かった。
背後で、カールの天幕の明かりが揺れていた。振り返りたい衝動に駆られた。
だが、私は振り返らなかった。
もう、戻れない。
そう思った。
雪は、降り続けていた。白く、冷たく。すべてを埋め尽くすように。
私の足跡が、雪に残る。
だが振り返ると、もう最初の数歩は見えなかった。
雪が、すべてを覆い隠していく。
まるで——最初から、何もなかったかのように。




