第40話 8000
その夜、私は眠れなかった。
天幕の中で、ただ横になっていた。だが目を閉じるたびに、あの光景が浮かんだ。男の首が切り裂かれる瞬間。噴き出す血。見開かれた目。
私は毛布を蹴り、飛び起きた。
外に出ると、雪が降っていた。
違う。
降っているのではない。積もっていた。
膝まで達する深さ。一晩で、これほどまでに。地面はもう見えない。焚き火の明かりさえ、白に呑まれそうだった。
私は歩き出した。どこへ行くでもなく。ただ動いていないと、耐えられなかった。
雪が、靴に食い込む。一歩ごとに、重い。まるで何かに引き止められているように。
気づけば、野営地の端にいた。
そこからポルタヴァが見えた。城塞の灯り。その手前に広がる、白い平原。何もない死地。
明日、我々はあそこを越える。大砲の射程の中を。敵の大軍勢に向かって。
「なぜ」
私は呟いた。
なぜ、こんなことになったのか。なぜ、ここまで来てしまったのか。
フロウシュタットで何があったのか。
知らなければ。
私は拳を握りしめた。
知らなければ、このまま死ぬわけにはいかない。
アームフェルトの天幕には、明かりが漏れていた。
私は扉の前で立ち止まった。雪を払い、扉を叩いた。
「誰だ」
中から、掠れた声がした。
「レイフだ」
沈黙が落ちた。
「帰れ」
「グスタフ、開けてくれ」
「帰れと言っている」
「アームフェルト!」
私は、扉を叩いた。
「開けてくれ!」
しばらく沈黙が続いた。
やがて扉が開いた。
アームフェルトが、立っていた。その顔は蒼白だった。目は赤く腫れ、髪は乱れていた。手には酒瓶が握られていた。
「何の用だ」
私は胸が痛んだ。
「話がある」
私は彼を見た。
「数日後、私たちは死ぬかもしれない」
アームフェルトは何も言わなかった。ただ目を逸らした。
「入れ」
彼は背を向けて天幕の中へ入った。私はその後に続いた。
天幕の中に入った瞬間、匂いが襲ってきた。
酒だ。濃く、甘く、腐ったような匂い。
蝋燭が一つだけ、テーブルの上で揺れていた。その明かりで見えたのは、荒れ果てた部屋だった。酒瓶がいくつも転がり、地図は床に落ちていた。椅子が一つ、倒れている。
アームフェルトは、残った椅子に座り込んだ。酒瓶を握りしめたまま。
彼の呼吸が聞こえた。荒く、浅い。まるで何かから逃れようとしているように。
「何が聞きたい」
彼は低く言った。顔は上げない。
「フロウシュタット」
私は言った。
「あそこで何があった」
アームフェルトの手が、震えた。酒瓶が、わずかに揺れる。
「知らぬ方がいい」
「それを決めるのは私だ」
私は声を上げた。
「知らなければ、このまま死ぬわけにはいかない」
アームフェルトは顔を上げた。その目には深い苦悩があった。蝋燭の光が、その顔に影を落とす。
「話してくれ」
私は、もう一度言った。
アームフェルトは目を閉じた。長い沈黙が続いた。蝋燭の炎だけが、音もなく揺れている。
「レイフ」
彼は震える声で言った。
「お前は、私の友だ」
私は息を呑んだ。
友。
その言葉を、立場が対等な者から言われるのは初めてだった。
「だからこそ、お前には知らせたくなかった」
アームフェルトは酒瓶を床に置いた。それが転がって、他の瓶にぶつかる。鈍い音が響いた。
「話してくれ」
私は言った。
アームフェルトは深く息を吐いた。
「お前は」
彼は私を見た。
「王に何を求めている」
「何?」
「お前の目を見れば分かる」
アームフェルトは私を見つめた。その目には哀しみがあった。
「お前は王に、主である以上の何かを求めている」
私は息を呑んだ。
「それは」
「危険だ」
アームフェルトは言った。
「王はお前が思うような存在じゃない」
「何が言いたい」
「真実を知れば」
彼は目を逸らした。
「お前の中の何かが、壊れる」
私は拳を握りしめた。
「構わない。それでも知らなければならない」
私は一歩前に出た。
「話せないなら、私が陛下に直接聞く」
「待て」
アームフェルトが、私の腕を掴んだ。その手は冷たく、震えていた。
「お前は、覚悟があるのか」
「ああ」
アームフェルトは長い沈黙の後、私の腕を離した。
「座れ」
私は椅子を起こして座った。アームフェルトは、自分の椅子に深く座り込んだ。
そして。
「あれは」
彼は、絞り出すように言った。
「一七〇六年、二月のことだった」
彼はゆっくりと話した。
声は掠れ、時折途切れた。だが、止まらなかった。
フロウシュタットの戦い。
ザクセン軍は敗北し、降伏した。
剣を捨て、旗を下ろし、命乞いをした。
「カール陛下は」
アームフェルトの声が震えた。
「降伏を受け入れると言われた。だから、彼らは武器を置いた」
彼は顔を覆った。
「だが」
その手が、震えた。
「陛下は、命令を変えられた」
私は息を呑んだ。
「全員を、殺せと」
沈黙。
蝋燭の炎が、大きく揺れた。
「私は」
アームフェルトの声が、掠れた。
「私は、止めようとした。これは正義ではないと。だが、陛下は聞かなかった」
彼は顔を上げた。その目は、涙に濡れていた。
「そして、私は」
彼の声が、途切れた。
「従った」
その言葉が、天幕の中に落ちた。
「何人だ」
私は、震える声で尋ねた。
アームフェルトは、長い沈黙の後、答えた。
「8000人」
その数字を聞いた瞬間、息が止まった。
あまりに膨大な数だった。
私の手が、椅子の背を掴んだ。指が、木に食い込む。
蝋燭の炎が揺れる。アームフェルトの声が遠くなる。
その数字が、頭の中で反響した。
私は——ワルシャワで、何をしていた?
一人の少年を救うために、何日かけた? 何人の部下を動かした? 何度、壁にぶつかった?
そして——同じ時刻。
カールは....
理解が、追いつかなかった。
一人を救うのに、あれほど苦しんだ。あれほど悩んだ。あれほど——
だが、カールは。
同じ時に。
私の手から、力が抜けた。
椅子の背から離れた手が、膝の上に落ちる。
「レイフ」
アームフェルトの声が聞こえた。
「すまない」
彼は呟いた。
「箝口令が敷かれていた。話せば処分を受ける。だが、それよりも」
彼は顔を上げた。
「この軍は王への信仰でできている。お前もだ。だから、黙っていようと思った。少なくとも、戦が終わるまでは」
「だが」
彼は肩を落とした。
「気づけば取り返しのつかないところまで来てしまった」
私は、何も言えなかった。
ただ——
私とカールは——最初から、すれ違っていたのだ。
決定的に。
取り返しがつかないほどに。
「違う」
私は、ようやく口を開いた。
「お前のせいじゃない。お前は正しくあろうとした」
アームフェルトは何も言わなかった。ただ、顔を覆った。
「ありがとう」
私は言った。
「話してくれて」
そして立ち上がった。
椅子が、床に音を立てた。
アームフェルトは顔を上げなかった。ただ、そこに座っていた。
私は扉へ向かった。
手が、扉の取っ手に触れた。
「レイフ」
背後から、声がした。
「もう——遅いのかもしれない」
私は振り返らなかった。
「だが」
アームフェルトの声が、震えた。
「お前だけは、生き延びてくれ」
私は扉を開けた。
外に出ると、世界は白に覆われていた。
雪だ。
さらに積もっていた。もう、腰まで達しそうだった。
私は立ち尽くした。
遠くで、焚き火の明かりが揺れている。兵士たちの天幕が、雪に埋もれそうになっていた。
誰かの寝息が聞こえる。
彼らは知らない。
この雪の下に、何が埋まっているのか。
そして——私たちの、すべてが。
私は歩き出した。
雪が、靴に食い込む。一歩ごとに、重い。
だが、止まれなかった。
天幕で、あの男を斬った時も。
フロウシュタットで、8000人を殺した時も。
同じなのだ。
命の重さが——カールには、ないのだ。
私の足が、止まった。
目の前に、天幕があった。
カールの天幕だ。
中から、明かりが漏れている。
私は、拳を握りしめた。
爪が、掌に食い込む。
聞かなければ。
話さなければ。
アームフェルトの言葉が、脳裏をよぎる。
「お前の中の何かが、壊れる」
構わない。
もう——壊れている。
私は、一歩を踏み出した。
雪を踏みしめる音が、静寂を破る。
もう一歩。
また一歩。
天幕が、近づく。
私の足跡が、雪に残る。
だが、すぐに新しい雪が降り積もり、それを覆い隠していく。
まるで——何もなかったかのように。
私は、天幕の前に立った。
手が、扉に触れた。
中から、何かが聞こえる。
地図をめくる音。
そして——
「入れ」
カールの声だった。
私は、扉を開けた。




