第38話 絶望の僻地
バトゥーリンの朝は、いつもと変わらなかった。
マゼッパは天幕から出て、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たす。冬の匂いだ。雪はまだ降っていないが、空気は確実に冷え込んでいる。
野営地では、コサックの騎兵たちが馬の世話をしていた。馬具を磨き、蹄鉄を点検し、飼葉を与える。日常の光景だ。誰かが歌を口ずさんでいる。別の者が笑い声を上げている。
「おはようございます、頭領」
若い騎兵が、マゼッパに頭を下げた。
「おう、おはよう」
マゼッパは手を振った。
「馬の調子はどうだ」
「上々です。もう少しで、スウェーデン軍と合流できますね」
「ああ」
マゼッパは頷いた。
「もうすぐだ」
彼は野営地を歩いた。テントの間を抜け、兵士たちの様子を確認する。誰もが日常の作業に没頭していた。武器の手入れ、食事の準備、火の番。
平和な朝だった。
だが——
マゼッパは、ふと足を止めた。
何か、違和感があった。
何だろう。
彼は周囲を見渡した。だが、何も変わったところはない。兵士たちはいつも通り働いている。馬もいつも通り嘶いている。
だが——
空気が、違う。
マゼッパは鼻を鳴らした。そして、気づいた。
煙の匂いだ。
だが、野営地の焚き火の匂いではない。もっと強く、刺激的な匂い。
焼ける木の匂い。
彼は空を見上げた。
遠く、バトゥーリンの方角に——黒い煙が立ち上っていた。
「……くそ」
マゼッパは呟いた。
平和な朝は、そこで終わった。
「集合をかけろ!」
マゼッパは副官に叫んだ。
「全員を集めて、南へ退く。急げ!」
副官が駆け出していく。マゼッパは周囲を見渡した。コサックの騎兵たちが慌ただしく馬に鞍をつけ、武器を取り、散り散りになっていた野営地を後にしようとしている。
だが、遅い。集まるのが遅すぎる。
「もっと急げ!」
彼は再び叫んだ。
バトゥーリンの炎が、見る見るうちに大きくなっていく。黒煙が空を覆い、風に乗って灰が飛んでくる。
ピョートルだ。
奴が来たのだ。
思ったより早い。いや——自分の読みが甘かったのか。
マゼッパは舌打ちした。
「頭領!」
騎兵の一人が叫んだ。
「敵です! 北から——」
その声が、途切れた。
矢が、騎兵の喉を貫いていた。
マゼッパは、息を呑んだ。
そして——
背後で、何かが動いた。
マゼッパが振り返ろうとした瞬間、巨大な腕が彼の首に回された。熊のような力で締め上げられ、息ができなくなる。彼は抵抗しようとしたが、相手の力は圧倒的だった。
「よう、裏切り者」
低い声が、耳元で囁いた。
マゼッパは目を見開いた。その声を、彼は知っていた。
「ピョートル……」
「正解だ」
ピョートルは笑った。その笑いには、何の温かみもなかった。
「お前が俺を裏切るって聞いた時、正直驚いたぜ。まさかお前がそんな真似をするとはな」
マゼッパは必死に腕を掴んだが、ピョートルの腕はびくともしなかった。
「だがまあ、裏切り者には相応の報いがある。そうだろ?」
ピョートルの手に、短剣が握られていた。刃が、マゼッパの喉元に当てられる。
「貴様のような男を信頼できるわけがない」
マゼッパは掠れた声で言った。
「お前に従えば我々コサックは滅ぼされる....!」
彼は懐から短剣を俊敏な動作で取り出し、ピョートルの脇腹目掛けて振りかざす。
だが、ピョートルは空いている片手でそれを止める。
そして笑った。
「ひでぇよマゼッパ。俺に嘘ついてたなんて悲しいぜ。」
マゼッパの顔が引き攣る。
そして、ピョートルの刃が、一気に引かれた。
「お前には期待してたんだがな、所詮はこの程度の男か。」
マゼッパの喉が切り裂かれ、血が噴き出した。彼の体が崩れ落ち、雪の上に倒れる。視界が暗くなっていく中、最後に見えたのは——燃えるバトゥーリンの空だった。
さっきまで平和だった野営地は、もう地獄に変わっていた。
ピョートルは短剣を雪で拭い、立ち上がった。周囲では、ロシア兵たちがコサックの野営地を襲撃している。悲鳴と剣戟の音が、朝の静寂を引き裂いていた。
「残りも片付けろ」
ピョートルは部下に命じた。
「一人も逃がすな」
---
その報せが、スウェーデン軍に届いたのは、三日後だった。
「バトゥーリン、陥落。マゼッパ——死亡」
伝令の声に、天幕の中が凍りついた。私は立ち上がった。
「何....だと!?」
「ピョートル自らが奇襲をかけ、バトゥーリンを焼き払いました。マゼッパは——その場で殺されたと」
私は、息を呑んだ。マゼッパが、死んだ。あの老獪な男が。つい数日前に会ったばかりなのに。
「コサックの騎兵隊は?」
アームフェルトが尋ねた。
「壊滅です。生き残った者もいるようですが、統率を失い、散り散りになっています」
沈黙が落ちた。重く、暗い沈黙が。
私は——拳を握りしめた。マゼッパの顔が浮かんだ。道化のように笑いながら、だが鋭い目で私を見つめていたあの顔が。
「君自身の心に従え」
あの言葉が、まだ耳に残っていた。そして今、彼は死んだ。ピョートルの手によって。
怒りが、胸の奥から湧き上がってきた。私は今まで、ピョートルという男に会ったことはない。顔も知らない。だが——この瞬間、確かな敵意が生まれた。
自らの国の住民を平気で殺す彼に、この時初めて恐怖以外の感情が湧いた。
「くそったれが!」
レーヴェンハウプトが、テーブルを叩いた。その顔には、怒りがあった。
「ピョートルのクソ野郎が、俺と全く同じことをしやがって」
彼は立ち上がった。
レーヴェンハウプトは脇腹を押さえた。そこには、まだ包帯が巻かれている。
「奴は戦争を——殺しを、楽しんでいる」
私は、何も言えなかった。ただ、拳を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
「とりあえず、今は陛下に報告をしよう」
レーネが静かに言った。
「状況は、一変した。我々に猶予はもうないのじゃ」
カールは、地図の前に立っていた。
報告を聞いても、彼は動かなかった。ただ、地図を見つめていた。その横顔には、何の感情もなかった。
「……陛下」
私は口を開いた。
「マゼッパが——」
「聞いた」
カールは言った。
「バトゥーリンは焼かれ、コサックは壊滅したか」
彼は地図上のバトゥーリンを指で押さえた。
「つまり——援軍は、来ない」
沈黙が落ちた。
「補給も、できない」
カールは続けた。
「我々が期待していたすべてが、消えた」
彼は顔を上げた。その目には——何かがあった。焦燥か。絶望か。それとも——
「だから、変える」
カールは地図を見下ろした。
「作戦を変える。長期戦は不可能だ。ならば——短期決戦で決める」
「陛下?」
レーネが尋ねた。
「コサックの力を借りずして、我々だけでポルタヴァを落とす」
カールは地図上のポルタヴァを指差した。
「全兵力を投入して、一気に攻め落とす。要塞を奪い、ドニエプル川を渡る。そこで冬を越せば——」
「陛下」
アームフェルトが口を開いた。
「ポルタヴァには、ロシア軍が守備についています。要塞は堅固で——」
「それでも、やる」
カールの声は、絶対的だった。
「他に道はない。退けば全滅、止まれば冬と飢えが襲う。
——前に進むしかない」
彼は将軍たちを見渡した。
「ポルタヴァを落とせば、勝てる。落とせなければ——」
彼は言葉を切った。だが、その続きは誰にでも分かった。
落とせなければ、終わりだ。
「……御意」
レーネが頭を下げた。他の将軍たちも、それに続いた。だが、誰の顔にも希望はなかった。ただ、諦めと疲労があるだけだった。
軍議が終わり、私は天幕の外に出た。雪が降り続けていた。まだ積もらない。だが、確実に冬は深まっている。
「レイフ」
アームフェルトの声がした。振り返ると、彼が立っていた。
「マゼッパのことは——残念だったな」
「ああ」
私は頷いた。
「お前は彼を気に入っていたんだろう?」
「ああ、興味深い人だった」
アームフェルトは空を見上げた。
「だが、もう彼はいない。我々も——いつまで生きていられるか」
「アームフェルト」
「分かっている」
彼は私を見た。その目には、深い疲労があった。
「弱音を吐くなと言いたいのだろう。だが、もう限界だ。兵も、将も——誰もが、疲れている」
彼は背を向けた。
「だが、それでも進むしかない。なぜなら——」
「退けないから」
私が言うと、アームフェルトは頷いた。
「そうだ。退けないから」
彼は去っていった。その背中は、小さく見えた。
---
翌日、スウェーデン軍は再び行軍を開始した。
ポルタヴァへ。最後の賭けへ。
だが——その道のりは、はっきり言って地獄だった。
村々は、すべて焼かれていた。井戸は砕かれ、畑には塩が撒かれ、家屋は骨組みだけを残して崩れていた。ピョートルの焦土作戦が、この地にも及んでいた。
最初の村を通り過ぎた時、私はまだ希望を持っていた。次の村には、何かあるかもしれない。食料が、水が、何かが——
だが、次の村も焼かれていた。その次も、その次も。
延々と続く廃墟。どこまで行っても、同じ光景が続く。焼け焦げた木材、崩れた石壁、砕かれた井戸。そして——何もない静寂。
「……また、何もない」
副官のエーリクが呟いた。その声には、疲労と絶望があった。
「ここにも、ありませんでした」
私は、廃墟を見つめた。ここにも、かつては人がいたはずだ。子供が走り、老人が笑い、生活があった。だが——今は、何もない。
ただ、白い雪が積もるだけ。
「次へ行こう」
私は言った。だが、その声には力がなかった。
兵士たちが、重い足取りで進んでいく。誰も口を開かない。ただ、黙々と歩くだけ。その顔には、疲労と諦めがあった。
三日目。
「将軍、兵たちが——」
エーリクが私のもとに来た。
「どうした」
「もう、限界だと。このまま進んでも、何もないと。そう言っています」
私は、周囲を見渡した。兵士たちが座り込んでいる。立ち上がろうともしない者もいる。その目には、光がなかった。
「立て」
私は言った。
「まだ行軍は続く」
だが、誰も動かなかった。
「立てと言っている!」
私は声を荒げた。だが、それでも兵士たちは動かなかった。ただ、虚ろな目で私を見つめるだけ。
私は——何も言えなくなった。
彼らを責められない。私も、同じ気持ちだった。延々と続く廃墟を見て、何度も絶望した。ここには何もない。希望も、未来も——何もない。
ただ、死に向かって歩いているだけだ。
私は、自分の手を見つめた。
戦災孤児だった自分が、今度は孤児を生み出す側にいる。村を焼き、民を追い立て、何人もの人生を破壊してきた。
そして今、その報いを受けている。
焼かれた村々が、私を嘲笑っているようだった。
お前も同じだ、と。
お前も、破壊者だ、と。
「将軍」
エーリクの声が聞こえた。
「どうしますか」
私は——答えられなかった。
どうすればいいのか、分からなかった。
ただ、一つだけ分かっていることがあった。
私たちは、もう引き返せない。
前に進むしかない。たとえ、その先に何があろうとも。
その夜、私は一人で火を見つめていた。
マゼッパの言葉が、まだ耳に残っていた。
「君自身の心に従え」
だが、私の心は何を望んでいるのか。もう、分からなくなっていた。
カールを支えたい。彼を救いたい。
だが、彼はもう救えないのかもしれない。
いや、最初から救えなかったのかもしれない。
彼は王として、前に進むことしかできない。たとえ、それが破滅への道であっても。
そして私は——彼の傍にいる。
割り切ったはずなのに、
今になって迷いが浮かんでくる。
そんな自分の弱さが、嫌になってくる。
そんな私を監視するかのように、村は轟々と燃え続けていた。
まるで、あの日の私の故郷のように。
火が、ゆっくりと燃えていた。薪のはぜる音が、夜の静けさを満たしていた。
だが、その音は——もう、温かみを感じさせなかった。
ただ、冷たく、虚ろに響くだけだった。
遠くで、兵士たちの低い話し声が聞こえた。
「もう、無理だ」
「帰りたい」
「なぜ、こんなところに——」
その声には、絶望があった。深い、底なしの絶望が。
そして——それは、軍全体に広がっていた。
将も、兵も、誰もが——もう、限界だった。
それでも、明日も行軍は続く。
ポルタヴァへ。運命の地へ。
そこで、何が待っているのか。
勝利か。それとも——
私は、火を見つめた。
その炎の中に、何かが見えた気がした。
だが——それが何なのか、私には分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
私たちは、もう引き返せない。
前に進むしかない。
絶望の果てへ。




