第4話 砕けた鏡
湖畔から戻った翌朝、私はカールの執務室に呼ばれた。
扉を叩くと、短く「入れ」という声が返ってきた。
室内に入ると、カールは窓を背にして立っていた。朝日が逆光となり、彼の表情は影に沈んでいる。
「レイフ」
「はい」
「昨日、お前は余に国を見せてくれた」
カールは地図を見つめたまま言った。
「だが――余はお前を、何も知らない」
私は息を呑んだ。
「陛下……?」
「お前の過去。お前の望み。お前が何者なのか」
カールは私を見た。
「余は、知りたい」
その瞳には、何か切実なものがあった。
だが私は――言葉を返せなかった。
喉まで出かかった言葉が、そこで止まる。
昨日、あの湖畔で。
言えなかった真実が、今もまだ私を縛っている。
「……私は」
言葉を探す。
「ただの兵士です。陛下にお仕えする以外、語るべきことなど――」
「嘘だ」
カールが遮った。
「お前は何かを隠している」
私は目を逸らした。
沈黙。
やがてカールは、小さく息を吐いた。
「……いい」
「陛下」
「余も、お前に語れぬことがある」
「なら、お互い様だな」
顔は珍しく少年らしく無邪気にニヤリと笑っていたが、その声には諦めに似た響きがあった。
「まあいい、下がれ」
「はい」
扉に手をかけたとき、背後からカールの声が届いた。
「レイフ」
振り返ると、カールは相変わらず窓の外を見ていた。
「なぜ、陛下は私を選ばれたのですか」
思わず、口をついて出た。
あの塔の夜から、ずっと疑問だった。
なぜ私を止めたのか。
なぜ私を側に置いたのか。
カールは長い沈黙の後、小さく呟いた。
「……わからない」
「陛下?」
「余にも、わからないのだ」
カールは振り返った。
その瞳には、何か戸惑いに似たものがあった。
「お前を見た時――」
そこで言葉を切った。
「……いや」
「陛下」
「下がれ」
今度は強い口調だった。
私は頭を下げ、部屋を出た。
扉を閉める直前、振り返った。
カールは窓辺に立ったまま、動かなかった。
あの湖畔で見せた柔らかさは、もう消えていた。
まるで、あの日のことが幻だったかのように――
廊下を歩きながら、私は胸の奥に重いものを感じていた。
陛下は、私を知りたいと言った。
だが私は、語ることができなかった。
そして陛下もまた、何かを隠している。
なぜ私を選んだのか――その答えさえも。
この距離は――いつか、私たちを引き裂くのだろうか。
「レイフ・エークマン殿、と言ったな」
背後から声がかかり、振り返った。
そこにいたのはアクセル・フレミング。
三代にわたり国政を支え、宮廷の奥深くを知る重臣。白髪と深い皺に刻まれた顔には、長年の経験が宿っている。
政治の表舞台に立つその人と、私のような戦場育ちの兵士が言葉を交わすなど、今までなかった。
「はい。……何か御用でしょうか」
私の声は少し硬かった。
カール陛下の周囲に侍るようになってから、私への視線は変わった。重臣たちの一部は好意を隠さず、また一部は疎ましさを隠しもしなかった。
この男はどちらなのか――探るように目を見た。
フレミングは小さく笑い、首を振った。
「警戒するな。そなたを責めに来たのではない」
「……では」
「陛下のことで、悩んでおるようじゃな」
私は息を呑んだ。
「何を――」
「顔に出ておるぞ」
フレミングは窓辺に歩み寄った。
外は月が雲間に隠れ、石畳の中庭は闇に沈んでいる。
「そなたは陛下に近しい。だが――陛下の"核"を見ようとして、壁にぶつかっておるのじゃろう」
私は言葉を失った。
「陛下の核……とは」
フレミングは私を見た。
「そなたが何を知るべきか、語っておこう。我ら老臣の記憶にしか残っていない、かの御方の"始まり"を」
その声はただの昔語りではなかった。
長年、王を見つめてきた者の、祈りにも似た重さがあった。
「……聞かせていただけますか」
フレミングは頷いた。
「まだ彼が"王子"と呼ばれていた頃の話だ」
十歳の春、彼は初めて戦場に連れて行かれた。
「先王――カール十一世陛下は、勇敢で聡明な君主であられた」
フレミングは目を閉じた。
「じゃが……とても良い父親とは言えなかった」
私は黙って聞いていた。
「戦の行く末を、幼い王子は父と共にただ丘の上から眺めておられた。溢れ出る血、絶え間ない叫び、地面を覆うかつて人間だった肉塊――」
私の胸が締め付けられた。
十歳で、あれを見たのか。
「王子は目を背けようとされた。じゃが――」
「……できなかった?」
「先王がそれを許さなかった」
フレミングの声は静かだった。
「目を背ければ、頬を叩かれた。そうして戦場の記憶は、まざまざと王子の目に染み付いていった」
私は拳を握った。
私も、幼い頃に死を見た。
村が焼かれ、父が殺され、母が――
だが私は被害者だった。
しかし陛下は――加害者として、死を与えたのか。
「そして、その時が来た」
フレミングは続けた。
「捕虜となった敵兵が陣へと引き出されてきた。屈強な兵士ではなく、若い兵士だったそうじゃ」
「まさか――」
「先王の命は冷たく下された。『殺せ』と」
私は息を呑んだ。
「十歳の、子供に……?」
「子供の手には重すぎる剣。小さな胸は恐怖で震え、鎧の下で汗が冷たく流れていたという」
フレミングは目を開けた。
「想像してみよ、レイフ殿。十歳の少年が、父王の命を背にして剣を握る姿を」
私は目を伏せた。
想像したくなかった。
だが――脳裏に浮かんでしまう。
幼いカールが、震える手で剣を握る姿。
「王子の手は震えていたという。捕虜は外国語で何かを叫んでいた。何を言っていたのかは分からぬが、その声色は怯えており、戦意を喪失していた」
「……陛下は」
「選択肢はなかった」
フレミングは言った。
「捕虜の瞳に映った自分自身を見ないように、顔をそむけて剣を振り上げた。そして――振り下ろした」
沈黙。
「その瞬間、何かが音を立てて壊れた。血は冷たく、鉄の匂いが強烈だった。夜になってもその匂いは鼻から離れず、焚き火の前で王子は震えたという」
私は拳を握りしめた。
「先王は……慰めなかったのですか」
「いいや」
フレミングは首を振った。
「父王は息子を抱きしめることも、慰めることもなかった。そして告げた」
「……何と」
「『次だ』」
私は息を呑んだ。
「次……?」
「そうして捕虜を再び呼び寄せる、その声は焚き火よりも冷たかったという」
私は言葉を失った。
なぜ――
なぜ、そこまで。
「なぜ先王陛下は、そこまで……」
私は声を絞り出した。
フレミングは悲しげに首を振った。
「強い王を作ろうとしたのじゃ。弱さを持たぬ、完璧な王を」
「しかし――」
私は言葉を探した。
「それは、王ではなく、兵器ではないですか」
フレミングは私を見た。
その瞳には、深い後悔があった。
「そうかもしれん。じゃが、わしらは止められなかった」
「……」
「十二歳の誕生日の夜には、さらに苛烈な言葉が突きつけられた」
フレミングは続けた。
「『友を持つな。情を捨てろ。法を知り、誰よりも先に動き、誰より遅く倒れよ』」
それは――
「言葉の奥には、父としての愛など微塵も感じられなかったという。それは父を恐れる王子にとって、もはや呪文のような言葉だった」
私の胸が痛んだ。
「そして最後に、決定的な一言が告げられた」
フレミングは私を見た。
「『お前はもはや人間ではない。王だ』」
私は言葉を失っていた。
先王陛下――
あなたは私を拾ってくれた。
絶望の淵から、引き上げてくれた。
だが――
あなた自身の息子を――
「その夜、わしは王子の部屋の扉の前を通りかかったのだ」
フレミングは窓の外を見つめた。
「扉はわずかに開いており、中の蝋燭の光が廊下に漏れていた」
「……何を」
「王子は剣を抜き、鏡の前に立っていた。まだ幼い顔だが、涙はなかった。ただ、その瞳の奥で何かがゆっくりと死んでいくのが見えた」
私は息を呑んだ。
「鏡の中の自分に向かって、少年は小さく囁いていたという」
フレミングは目を閉じた。
「『俺は、弱くない。俺は、背を見せない。俺は……王だ。余は――王だ。――王だ!』」
一人称が変わっていく。
「俺」から「余」へ。
人間から、王へ。
「その声は細く震えていたが、次第に硬さを帯びていった。そして次の瞬間――」
フレミングは拳を握った。
「少年の手のピストルが火を噴いた。乾いた破裂音とともに、鏡は砕け散った」
私は目を見開いた。
「鏡を……」
「蝋燭の光が砕けた鏡片に揺れ、少年の影を幾重にも映したという」
フレミングは私を見た。
「私が王子を――カール陛下を見たのはそれが最後じゃった。だからこそ、戴冠式で彼を再度見た時には、あまりに立派で荘厳な姿で驚いた」
「……」
「壊れた鏡の前で、彼はもう弱さを映す顔を見ることはなくなったのじゃ」
フレミングは目を閉じた。
「だが同時に――自らを省みる鏡もまた、砕け散ってしまったのかもしれん」
私は息を呑んでいた。
父王が息子に刻んだものは、王としての誇りではなく――
決して癒えぬ孤独と恐怖だったのだと。
「そなたが陛下をどう見るか。それは任せよう」
フレミングは振り返り、深い皺の中に微かな悲しみを宿して言った。
「じゃが忘れるな、あの御方は最初から孤独の中で、ただ一人で"王"に成らざるを得なかった」
「……はい」
「先王はあなたに若きカール様を託されたと聞く」
フレミングは私の肩に手を置いた。
「だからレイフ殿……あの方に寄り添ってあげてくれ」
その声は、老臣としての忠告であり、ひとりの臣下の嘆きでもあった。
「あの方は強く、賢い王になるだろう……じゃが、内には外には見せない弱さがある」
私は頷いた。
「……承知しました」
フレミングは小さく笑った。
「そなたなら、きっと――」
そこで言葉を切った。
「いや、期待しすぎるのも酷か」
そして背を向けた。
「じゃが、頼んだぞ。」
その背中は、老いて小さく見えた。
老臣が去った後、私は一人、窓辺に立った。
暗い石畳の先に、月明かりに照らされた大聖堂の尖塔が見えた。
その先に思い描くのは、玉座に座す少年の姿。
いや、玉座ではない。
孤独の中で剣を握り、鏡を撃ち砕き、自らを王たらしめた――あの冷たい瞳。
その瞳の奥には、いまだに砕けた鏡の欠片が刺さっているのかもしれない。
(彼を導け、か)
私は胸の奥で、かすかに呟いた。
(先王……私は一体どうすればいいのでしょうか)
私自身が、まだ癒えぬ傷を抱えているというのに。
足音が近づいてきた。
振り返ると――
カールが立っていた。
いつからそこにいたのか。
「……陛下」
「お前は、フレミングと話していたな」
私は息を呑んだ。
聞いていたのか?
カールは無表情のまま言った。
「余の過去を、聞いたのだろう」
「……はい」
沈黙。
月明かりがカールの横顔を照らす。
やがてカールは小さく言った。
「――それでも、お前は余の傍にいるか」
その声は、あまりにも静かだった。
まるで、拒絶されることを恐れているかのように。
私は答えた。
「はい。陛下」
カールは一瞬、目を伏せた。
「……なぜだ」
「陛下が、私を生かしてくださったからです」
私は言った。
「あの塔の夜、陛下は私を止めてくださった。だから――」
「それだけか」
カールが私を見た。
「同情ではないのか。哀れみではないのか」
私は首を振った。
「違います」
「では何だ」
私は言葉を探した。
そして――
「私は、陛下の傍にいたいのです」
カールの目が、わずかに見開かれた。
「……何を言っている」
「理由など、わかりません。ただ――」
私はカールを見た。
「陛下の傍にいたい。それだけです」
沈黙。
風が廊下を吹き抜ける。
カールは私をじっと見つめていた。
その瞳には、何か――飢えに似たものがあった。
「……レイフ」
「はい」
「お前は」
カールは言葉を探すように、視線を彷徨わせた。
「お前は、余から離れないか」
「離れません」
「誓えるか」
その声には、切迫したものがあった。
「誓います」
カールは目を閉じた。
「……そうか」
それだけ言って、背を向けた。
「下がれ」
「はい」
私は廊下に一人残された。
月明かりだけが、冷たく床を照らしている。
私はどうすべきなのだろう。
わからない。
だが一つだけ、確かなことがある。
陛下は――私を必要としている。
それは主従の関係を超えた、何か。
私にも名前のつけられない、何か。
依存、と呼ぶには重すぎる。
友情、と呼ぶには歪んでいる。
私たちは互いに、何かを求めている。
私は陛下の傍にいたい。
陛下は私に、離れないでほしいと願う。
それは――正常な関係なのだろうか。
わからない。
だが、もう遅い。
私は知ってしまった。
陛下の孤独を。
陛下の傷を。
陛下の――砕けた鏡を。
知ることは、重い。
知らなければ、ただ仕えることができた。
だが今、私は思ってしまったのだ。
この人を支えなければならない、と。
それが、私の選んだ道だった。
窓の外では、雲が切れ、月が姿を現した。
冷たく、美しい光。
その光の中で、私は静かに誓った。
陛下を、一人にはしない。
たとえ陛下が鏡を砕き、自らを省みることをやめたとしても。
私が――その鏡になろう。
その時の私は、まだ知らなかった。
その誓いが、どれほどの重さを持つのかを。
そして――いつか、その誓いが試される日が来ることを。
だが今は、ただ一つだけ。
私は陛下の傍にいる。
陛下もまた、私を必要としている。
それは歪で、危うい。
だが――
それが、私たちの真実だった。
月光だけが、静かに私たちの歪な絆を見守っていた。




