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第37話 バトゥーリンの狂人

もはや時間がなかった。


あの夜から三日が経っていた。カールと私は一言も言葉を交わしていない。彼は軍の先頭を行き、私はその後ろを歩いた。いつものように。だが、何かが違っていた。彼の背中が、遠かった。


本格的な冬が来る前に我々に残された猶予は消えつつあった。白い粉が時折舞い落ちるが、まだ積もらない。だが、いずれ積もるだろう。その時、道は完全に閉ざされる。


進むも地獄、退くもまた地獄。我らはただ、死に向かう方角を選ばされているようだった。


南へ。マゼッパのいるバトゥーリンへ。


その日の夕刻、異変が起きた。


「陛下が倒れました!」


伝令の声に、私は馬を走らせた。兵士たちが円を作って何かを囲んでいる。その中心に、カールがいた。雪の上に膝をつき、額に手を当てて。


「陛下!」


私が駆け寄ると、彼はゆっくりと顔を上げた。その顔は蒼白で、額には冷たい汗が浮かんでいた。


「問題ない」


彼は立ち上がろうとしたが、足が震えて再び膝をついた。私は兵士たちに天幕の準備を命じ、カールを抱えて運んだ。熱があった。明らかに、高い熱だった。


彼の身辺の世話をこうして行うのは、あまりに久しぶりだった。幼い頃から近くに仕えていた私には、彼が「王」となって以降、次第に遠くなった距離があった。だが今、熱にうなされる彼の手から力が抜けているのを見ると、なぜか懐かしさすら覚えた。かつて彼は、こんなふうに弱さを見せることができた。


夜が更けるにつれて、彼の熱はさらに上がっていった。私は冷水に布を浸して額を拭いた。彼はうわごとのように何かを呟いていたが、言葉は途切れ途切れで意味を成さなかった。


火が落ちたとき、私は新たな薪をくべた。そのときふと、寝台の王の指がわずかに動いた。目を開けた。


「レイフか」


声はかすれていたが、意識は戻っていた。


「はい、陛下。ご容体を見ておりました」


カールは視線を天幕の天井に向けたまま、しばし何も言わなかった。やがて、まるで独り言のように呟いた。


「まだ、時間はあるのか」


私は言葉に詰まった。本当のところ、もう時間はなかった。だが私は言った。


「少しだけなら、残っています」


カールは静かに目を閉じた。そして、長い沈黙の後。


「レイフ。余は、王だ」


何度その言葉を聞いたか。もはや、彼を縛る呪縛のようだった。


「王は迷ってはならぬ。疑ってはならぬ。ただ、進むのみだ」


彼は身を起こした。


「馬を用意せよ。会わねばならぬ男がいる。マゼッパだ。バトゥーリンへ向かう」


私は驚いた。


「陛下、お体が」


「構わぬ。勝利のために、余は会わねばならぬ」


私は何も言えず、ただ頷いた。


翌朝、我々は南へ向かった。カールは馬上にいた。顔色は悪く、時折体が揺れたが、決して弱音を吐かなかった。私は何度も様子を窺った。


「陛下、少し休まれては」


「必要ない」


「ですが」


「レイフ。余は、止まれぬ」


その言葉に、私は黙った。


三日後、我々はバトゥーリンに到着した。マゼッパの使者が我々を迎え、城塞の一角へと案内した。


会談の間は薄暗く、蝋燭だけが灯っていた。石壁には古い絵が掛けられ、重厚な木のテーブルが中央に置かれていた。


「ようこそ、ようこそ!」


扉が開くと同時に、声が響いた。マゼッパは毛皮の外套を翻して入ってきた。彼は老いていた。白い髭、深い皺。だが、その動きは妙に軽快で、両手を広げて笑っていた。


「北の獅子がついに来た! いや、待てよ」


彼は首を傾げた。


「獅子というより、窶れた猫か? ははは!」


カールの目が、鋭くなった。


「冗談だ、カール十二世。そう怒るな。長く生きるにはな、笑っていなければならぬのだよ」


マゼッパは笑った。彼は今まで見たことがないような人物だった。飄々としているが、その目の奥には何か鋭いものが潜んでいる。


「マゼッパ殿、話を始めましょう」


私は前に出た。


「おお、こちらは真面目な顔だ」


マゼッパは私を見た。その目には、何か値踏みするようなものがあった。彼はカールを見た。


「では、単刀直入に。ピョートルは、貴公らがウクライナへ向かっていることを知っている」


彼はテーブルに地図を広げた。


「そして、私が裏切ることも予測している。正直、バトゥーリンは、もはや安全ではない」


「ならば、どこで戦うつもりだ」


カールが口を開いた。


「ポルタヴァだろうな」


マゼッパは地図を指した。


「ポルタヴァの要塞を抑えれば、ドニエプル川を渡れる。対岸には、まだ焦土が及んでいない地がある。そして何より、そこでピョートルを迎え撃てる」


カールは地図を見下ろした。その目がゆっくりと動く。


「分かった」


「おお、分かった? それは良い。では、早く誓いを」


「まあ待て」


マゼッパが笑みを浮かべながら言う。


「その前に、一つだけ確認させてもらう」


彼の声は軽いままだった。だが、その次の言葉で空気が変わった。


「貴公は、壊れている」


空気が、凍りついた。カールは動かなかった。ただ、マゼッパを見つめていた。


「初対面の私でもわかる。貴公は今、正常ではない」


マゼッパの笑顔が、消えた。そこには道化の仮面ではなく、何十年も戦場を生き延びてきた老兵の顔があった。


「このまま進めば、必ず砕ける。そして、周りの者も巻き込む」


彼の目が、私を一瞬見た。


「余を侮辱するか」


カールの声が、低くなった。


「侮辱ではない。事実だ」


マゼッパは首を振った。笑みは戻らない。


「私は長く生きてきた。多くの指導者を見てきた。そして、貴公のような者も見てきた。勝利に酔い、敗北を知らず、ただ前へ進むことしかできない者を」


「黙れ」


カールの声が震えた。


「お前に何が分かる」


「分かるさ」


マゼッパは静かに言った。


「今まで誰にも指摘されてこなかったのだろうな。王とは孤独なものだ。だが、その孤独に溺れれば、待っているのは破滅だけだ」


「貴様、もう一度侮辱すれば」


カールは立ち上がり、剣に手をかけた。


「貴様を斬る」


「陛下」


私は前に出た。


「お待ちください」


「レイフ、下がれ」


「いえ」


私は、カールとマゼッパの間に立った。


「陛下、剣を収めてください」


「レイフ。お前も、余を疑うのか」


彼は再びその言葉を言う。何回聞いたか、嫌になるほど頭の中で回る。


「疑ってなどおりません」


私は言った。


「ですが、一国を背負う者が、感情に任せて剣を抜くなど」


私は声を張った。


「それでも王ですか!」


カールは、息を呑んだ。私は初めて彼に向かって声を荒げた。彼の目が揺れた。怒りか、驚きか、それとも別の何かか。彼の唇が震え、剣を持つ手が僅かに緩んだ。


沈黙が落ちた。長い、重い沈黙が。


やがて、彼は剣から手を離した。だが、その動きは緩慢で、まるで糸の切れた人形のようだった。


「好きにしろ」


彼は椅子に座り込んだ。その背中は、小さく見えた。


「マゼッパ殿も、軽率な態度はお控えください」


そんな私の顔を見て、マゼッパは再び笑みを浮かべた。道化の仮面が戻ってくる。


「おお、見事だ。カール十二世、君は良い臣下を持っている。いや、もったいないくらいだ」


彼は立ち上がった。


「では、話を続けよう。ポルタヴァで、我々は合流する。私の騎馬隊と、貴公の歩兵隊。それで、ピョートルを迎え撃つ」


カールは、地図を見つめた。


「分かった」


「では、誓いを」


マゼッパは短剣を取り出した。


「血をもって」


カールも短剣を抜いた。二人は指を切った。血が、テーブルの上に落ちる。


「おお、美しい! 赤が白に染み込む。まるで、我々の運命のようだ」


マゼッパが笑った。だが、カールの目には何もなかった。ただ、空虚だけがあった。


会談が終わり、我々は部屋を出た。カールは一言も発さず先に行った。私は彼の後を追おうとして、


「ちょっと待ってくれないか、従者の君」


マゼッパの声が私を呼び止めた。私は振り返った。マゼッパは扉の前に立っていた。その顔には、もう笑みはなかった。


「少しだけ、話がある。君だけに」


私はカールの背中を見た。彼はもう、廊下の向こうへ消えていた。


「分かりました。手短にお願いします」


私は再び部屋へ戻った。マゼッパは窓の外を見ていた。


「君は忠実だな」


「私はただの臣下です」


「いや」


マゼッパは首を振った。


「君は、それ以上だ」


彼は私を見た。その目には、もう狂気はなかった。ただ、鋭い何かがあった。


「君に聞きたい。なぜ、彼を見捨てないのだ」


私は、息を呑んだ。


「私は」


「主従の関係だから、と言うだろうな。だが、違う。君と彼の間には、何かある。そうでなければ、あのように声を荒げることなどできぬ」


マゼッパは一歩近づいた。


「君は、彼に何を望んでいる。何を見たいのだ」


私は、何も言えなかった。その問いは、私自身も答えを出していなかった部分だった。


「私は」


言葉が、出てこなかった。だが、マゼッパは待っていた。ただ、静かに待っていた。


やがて、私は口を開いた。


「陛下には、王である前に人間であってほしい」


その言葉が、自然と出てきた。


「王としての責任を負いながらも、人としての心を失わないでいてほしい。苦しみを感じ、迷いを持ち、それでも前を向く。そんな人間であってほしい」


マゼッパは、何も言わなかった。ただ、私を見つめていた。


「私が見捨てられないのは、かつて陛下が私を救ってくれたからです。私に生きる理由をくれたのは、紛れもなく陛下でした」


私は続けた。


「だから今度は、私が陛下を支えたい。王ではなく、一人の人間として」


「そうか」


マゼッパは、小さく笑った。だが、その笑いには温かみがあった。


「君は、いい男だ。」


私は、何も言わなかった。ただ、頷いた。


「ならば、これだけは覚えておけ」


マゼッパの目が真剣になった。


「いつか、君が選ぶ日が来る。彼と共に砕けるか、それとも、自分の道を歩むか」


「私は」


「まだ答える必要はない」


マゼッパは手を上げた。


「だが、その時が来たら、君自身の心に従え。主君への忠誠も大切だ。だが、君自身の人生も大切にしろ」


彼は窓の外を見た。


「私も長く生きてきた。多くの忠臣が、主君と共に滅びるのを見てきた。それは美しいが、同時に悲しいことでもある」


マゼッパは私を見た。


「君には、まだ未来がある。それを忘れるな」


私は、深く頭を下げた。


「お言葉、胸に刻みます」


「行け」


マゼッパは手を振った。


「もう、会うこともないだろう」


私は部屋を出た。廊下に出ると、冷たい風が吹いていた。私は立ち尽くしていた。マゼッパの言葉が、まだ耳に残っていた。


「君自身の心に従え」


その夜、私は天幕で一人、火を見つめていた。マゼッパの問いに答えたことで、私の中で何かが明確になった。


私はカールを、王としてではなく、一人の人間として見ている。彼の苦しみを理解し、支えたいと思っている。それは、主従の関係を超えたものだ。


だが同時に、私には自分の人生もある。いつか選ばなければならない日が来るかもしれない。その時、私はどうするのか。


まだ、答えは出ていない。だが、一つだけ確かなことがあった。私は、もう傍観者ではない。カールが剣を抜こうとした時、私は止めた。彼が間違おうとした時、私は諫めた。それは、剣としての役割ではない。人間としての選択だった。


火がゆっくりと燃えていた。薪のはぜる音が、夜の静けさを満たしていた。私は立ち上がった。


明日も、行軍だ。ポルタヴァへ。運命の地へ。そして、そこで何が起きるのか、まだ誰も知らなかった。

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