第36話 届かぬ声
雪の下で、凍りついた泥が呻いた。
一歩、また一歩。だが、その足音はもはや力強い行軍ではなく——重く、鈍い響きだった。我らスウェーデン軍は、ミンスクを発ってから十日が経過していた。
東へ。モスクワへ。
ミンスクでの決断は覆らなかった。全将軍が撤退を進言したにもかかわらず——
カールは東への進軍を命じた。レーヴェンハウプトが命がけで運んだわずか二割の補給を携えて、我々は退路を断ち、凍てつく大地へと足を踏み入れた。
朝、天幕から出ると、必ず何人かの兵が動けなくなっていた。熱を出して震える者。足の感覚を失った者。ただ座り込んで、虚ろな目で空を見つめる者。
「……また五人、歩けません」
斥候の報告に、私は眉をひそめた。昨日は三人、一昨日は四人。死者はまだ出ていないが、兵士たちは確実に消耗していた。
「部隊の残りの食料は?」
「残り九日分だ、レイフ」
九日。モスクワまでは、まだ三十日以上ある。
「配給を減らせ」
「もうすでに、通常の七割だぞ?」
「仕方ないんだ、半分にしろ」
ヘニングは唇を噛んだが、頷いた。
空を見上げると、薄い雲が広がっていた。その隙間から、白い粉が舞い落ちてくる。雪だ。まだ積もるほどではない。地面に落ちれば、すぐに溶けてしまう。
その夜、緊急の軍議が開かれた。
天幕の中には重苦しい空気が漂っていた。レーネ、私、リューデル、そしてアームフェルトが集まっていた。カールは地図の前に立ち、誰も口を開かなかった。
「現状を報告する」
レーネが地図の前に立った。
「ミンスク出発以来、歩行困難な兵——百三十二名。病に倒れた者——六十八名。脱走——七名。うち戻った者——五名。行方不明——二名」
「食料は残り九日分。モスクワまでは最短でも三十日。つまり——」
「足りない」私が低く言った。
「圧倒的に、足りない」
カールは何も言わず、ただ地図を見つめていた。
「陛下」
アームフェルトが一歩前に出た。
「進路の再考を、お願いします」
カールは顔を上げなかった。
「食料は残り九日分です。モスクワまでは最短でも三十日。このまま進めば、兵が持ちません」
「分かっている」
カールの声は低かった。
「陛下、お願いです」
アームフェルトの声に、何かが震えていた。
「私たちは——兵たちは、限界です。撤退を、ご決断ください」
カールは地図を見つめたまま、動かなかった。
「陛下」
アームフェルトは続けた。
「あなたは王です。王は兵を守らねばならない。彼らを無駄死にさせることは——」
「無駄死に?」
カールが顔を上げた。その目には、冷たい光があった。
「余が進むと決めたのだ。それに従うことが、無駄死になどなるものか」
「ですが——」
「お前は、余を疑っているのか」
その声には、何の感情もなかった。
アームフェルトは唇を噛んだ。
「……いえ」
「ならば、黙っていろ」
カールは再び地図へ視線を落とした。
「お前の意見など、聞いていない」
私はアームフェルトを見た。彼の拳が震えていた。顔は蒼白で、唇から血が滲んでいた。
「陛下……」
アームフェルトの声は掠れていた。
「私は——」
「以上だ」
カールはそう言って、天幕の奥へ歩いていった。
アームフェルトは立ち尽くしていた。その背中が小さく震えている。私は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
やがてアームフェルトは踵を返し、天幕から出ていった。扉を開ける手が震えていた。私は彼を追おうとして——レーネが首を横に振った。
「……そっとしておいてやれ」
レーネの声は低かった。
「あの二人の間に、何があったんだ」
私が尋ねると、レーネは目を閉じた。
「わしにも、分からん。だが——何か、あったのじゃろう」
その言葉に、私は黙った。
翌朝、事件が起きた。
「食料庫が荒らされています!」
天幕の外で声が響き、私は飛び起きた。松明を持った兵士たちが食料庫の前に集まっていた。扉は破られていなかったが、中を確認すると穀物の袋が一つ消えていた。
「見張りは?」
「……用を足しに、ほんの数分だけ」
私は拳を握りしめた。
「探せ。誰が持ち出したか、確認しろ」
兵士たちが散っていったが、誰も何も見つけられなかった。犯人の痕跡は消えていた。
「……内部の誰かですね」
エーリクが小さく呟いた。
「我が軍の誰かが——」
私は何も言わず、ただ雪を見つめていた。
三日後、脱走していた五人が戻ってきた。
顔は泥と涙にまみれ、足は傷だらけだった。彼らは縄で縛られ、広場の中央に引き出された。兵士たちが周囲を取り囲み、重い沈黙が落ちていた。
私が広場に着いた時、カールはすでにそこにいた。彼は馬上にいた。背筋を伸ばし、剣を腰に佩いていたが、その顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。
「陛下」
私は近づいた。カールは私を一瞥したが、何も言わず視線を脱走兵たちへ戻した。
「……すみません」
縛られた兵士の一人が震える声で言った。
「陛下を……裏切りました。許してください……もう二度と——」
「黙れ」
カールの声は低く冷たかった。兵士は口を閉じ、広場に静寂が戻った。
カールは馬から降り、ゆっくりと脱走兵たちの前へ歩いていく。私は胸が締め付けられるのを感じた。彼は何をするつもりだ。
「レーネ」
カールが呼んだ。
「はい、陛下」
レーネが進み出た。
「剣を」
「……陛下?」
「剣を貸せ」
レーネは一瞬ためらったが、剣を抜き、柄をカールへ差し出した。カールはそれを受け取った。刃が松明の光を反射して鈍く光る。
「陛下!」
私は声を上げた。カールは振り返った。その目には何もなかった。感情が消えていた。
「レイフ。黙っていろ」
「しかし——」
「これは、余の軍だ。余の命令に背いた者は——殺すしかない」
剣がゆっくりと持ち上げられた。私はただ見ているだけだった。
彼らは軍紀を犯したのだと。
周囲の兵士たちも息を呑んで見守っていた。脱走兵の一人が泣き出した。
「お許しを……お許しを……」
カールの剣が——止まった。
わずかに。
彼の顔が、一瞬歪んだ。額に汗が滲んでいる。
だが、すぐに剣が持ち上げられた。
「陛下!」
アームフェルトの声が響いた。
「待て!」
アームフェルトの声が響いた。彼が広場へ走り込んできた。長身の体を揺らし、息を切らして。
「陛下、お待ちください!」
カールは剣を止めた。
「……『また』か。アームフェルト」
彼はゆっくりと、アームフェルトへ視線を向ける。
「彼らは戻ってきました」
アームフェルトは言った。
「逃げたが、戻ってきた。それは、まだ陛下への忠誠が残っているということです」
「忠誠?」
カールの声には冷たい嘲りがあった。
「忠誠があれば、最初から逃げぬ」
「人は弱いものです」
アームフェルトは一歩前に出た。
「飢えと寒さに耐えかね、一時の迷いで道を誤ることもある。だが——それでも戻ってきた。その勇気を、陛下は認めるべきです」
カールの目が細められた。
「これは戦争だ。軍紀を将のお前が知らぬか?
命令に背いた者を許せば、軍は崩壊する」
「ですが——」
「お前は、これまで何人の人間を殺してきた?」
カールの声が、鋭くなった。
アームフェルトは、息を呑んだ。
「……陛下?」
カールは一歩近づいた。
「お前がこれまでに斬った敵兵は、何人だ? 焼いた村は、何か所だ? お前の指揮で死んだ者たちは——何人いる?」
アームフェルトは、何も言えなかった。
「余も、」
カールは続けた。
「余も、お前も——血まみれだ。何人も殺してきた。何人もの死を見てきた」
彼は脱走兵たちを指差した。
「そんな人間に、今更、人の死を庇う資格などあるのか?」
「——だからこそです」
アームフェルトの声は、揺るがなかった。
「どういうつもりだ」
カールは言い切った。
「過去を言い訳にして、目の前の死ぬ必要のない命を見捨てるなんて、
到底俺にはできない」
「そうか」
カールはアームフェルトから目線を逸らし、剣を振り上げる。
「陛下!」
アームフェルトが叫び、脱走兵の前に立つ。
「お止めください!」
「どけ、アームフェルト。これ以上血迷うなら軍法会議にかけ処罰を言い渡す。」
カールの声は、絶対的だった。
「これ以上、余の邪魔をするな」
アームフェルトは一歩前に出た。
「陛下。戦争に正義を求めるのは——確かに愚かかもしれません」
アームフェルトは、カールを真っ直ぐ見つめた。
「だからこそ、求めなければならないのです」
カールは、動きを止めた。
「……何?」
「戦争は異常です」
アームフェルトの声が、震えた。
「人が人を殺す。村を焼く。罪なき者が巻き込まれる——すべてが、狂っている」
彼は続けた。
「だからこそ、その中で正義を求めなければ——我々は、ただの殺人者になる」
「殺人者?」
カールの目に、何かが燃えた。
「余は、王だ。国を守るために戦っている余を殺人者と呼ぶ気か貴様」
「違います、呼ばせないため、だからこそなのです!」
アームフェルトは頷いた。
「——過去に何人殺してきたか、死なせてきたかは関係ありません」
アームフェルトは、脱走兵たちを見た。
「過去に何人死んだとしても——今、目の前で死ぬ必要のない命を、死なせてはならない」
私は——その言葉を聞きながら、自分の手を見つめていた。
何人殺してきたのだろう。
クルツェニで。デュナ川で。クルツィクで。ワルシャワで。
命令を下し、兵を動かし——何人もの人間を、殺しに手を染めさせた。
そんな自分でも、愛する者の手を握れるのか。
エルサとの対談で、私は答えを出していた。
血に塗れていても、手を握ることはできる。
ただし——自分の信念を捨てなければ。
アームフェルトは今、同じ結論に達している。
自分が何人殺そうとも——目の前の命を、救える。
前は救えなかった、手の届く命を——今度こそ。
「戯言を」
カールの声が、冷たくなった。
「それは、ただの感傷だ」
「いいえ」
アームフェルトは首を振った。
「それは——人間であるための、最後の一線です」
「人間……」
カールは、小さく笑った。
「余が人間であることに、何の意味がある?」
「意味があります」
アームフェルトの声が、強くなった。
「人間だからこそ、正しくあれるのです。人間だからこそ——間違いを正せるのです」
「間違い?」
カールの目が、鋭くなった。
「余が、間違っているとでも?」
「……はい」
アームフェルトは、静かに言った。
「あなたは——間違っています」
広場に、静寂が落ちた。
誰も、呼吸をしなかった。
カールは、アームフェルトを見つめた。その目には——怒りがあった。深く、冷たい怒りが。
「ならば——」
カールの剣が、持ち上げられた。
だが——それは、脱走兵ではなく、アームフェルトへ向けられた。
剣が、振り下ろされた。
「陛下ッ!!」
私は叫び、剣に手をかけた——
だが。
金属音が、響いた。
アームフェルトの剣が、カールの剣を受け止めていた。
私の手は、剣の柄で止まった。
広場が、凍りついた。
カールは、剣を押し付けた。
アームフェルトも、押し返した。
二つの刃が、震えた。
「お前は——」
カールの声が、掠れた。
「余に、刃を向けるのか」
「刃を向けているのではありません」
アームフェルトは言った。
「私は——私の正義のために、立っているのです」
その言葉に、カールの目が見開かれた。
そして——
剣が、下ろされた。
カールは、アームフェルトから視線を外した。
「……好きにしろ」
彼は、背を向けた。
「だが、次はない」
カールは去っていった。
その背中は——真っ直ぐだった。
揺るぎなく、孤独に。
アームフェルトは、その場に立ち尽くしていた。
剣を持つ手が、震えていた。
だが——彼は、下ろさなかった。
私は——二人を見つめた。
王と、将軍。
立場の違う彼らの二つの信念が、ぶつかり合った。
そして——
亀裂が、生まれた。
その夜、私はレーネを訪ねた。
「……入れ」
天幕の中は薄暗く、レーネは地図の前に座っていた。
「レーネ」
私は口を開いた。
「あの二人の間に、何があったんだ」
レーネは、長い沈黙の後、口を開いた。
「……わしには、全ては分からん。だが——何かが、あったのじゃろう」
「何か、とは」
「フロウシュタット」
レーネは呟いた。
「あの戦いで、何かがあった。だが、わしにも詳しくは分からん。ただ——」
彼は目を閉じた。
「アームフェルトは、あの日から変わった。何かを、後悔しているような顔をしておる」
私は何も言えなかった。
フロウシュタット。
あの戦い。
私は——何も知らない。
翌日、一週間後の軍議が開かれた。
「陛下、決断を。このままでは兵が持ちません」
私が言った。
「……分かっている。だが、西へも戻れん。補給路は焦土に変わり、本格的な冬が道を閉ざす」
「ならば——」
「ならば、どうする?」
カールは顔を上げた。その目には深い疲労があった。
「東にも進めず、西にも戻れず——我々は、詰んでいる」
誰も答えられなかった。その時——
「一つだけ、道があります」
扉が開き、レーヴェンハウプトが入ってきた。彼はまだ完全には回復していなかった。脇腹に包帯を巻き、顔は蒼白だったが、その目には炎があった。
「ハウプト!お前傷は大丈夫なのか....?お前、目が」
「ああ、体調は大丈夫だ。左目は戻らなかったが、他は万全だ」
彼はいつもと同じような笑みを浮かべる。
その姿に私は安堵を覚える。
「レーヴェんハウプト、お前のいう道とはなんだ」
「南です。ウクライナ」
全員がその場所を見つめた。
「ウクライナには、コサックがいます。騎馬と槍を持ち、草原を支配する民です。そして——その首領が、マゼッパです」
「マゼッパ……」レーネが呟いた。
「イヴァン・マゼッパ。ウクライナ・コサックの頭領にして、ピョートルに仕える者」
「いえ」
レーヴェンハウプトは首を振った。
「部下の諜報員による情報ですが、彼は表上はピョートルに謙っているが、内心では奴を警戒している。」
「もし我々が手を組めば——食料、兵力、冬を越す場所。すべてが手に入る可能性があります」
「それは確かなのか?」
私が尋ねた。
「確かではありません。だが、可能性はある。賭けです。ですが——他に道はありません」
カールは長い沈黙の後、地図を見下ろした。その指がゆっくりと南へと動いた。ミンスクから、ウクライナへ。
「……南だ」
彼は地図上の赤線を南へと引いた。
「進路を変える。ウクライナへ向かう」
「陛下」
レーネが口を開く。
「それは冒険です! マゼッパが味方するという保証は——」
「他に道はない」
カールの声は静かだが絶対的だった。
「余は、まだ剣を捨てていない」
その言葉に、もはや誰も反論できなかった。
レーネはやがて頭を下げた。
「……御意」
その夜、私はカールの天幕を訪れた。
「入れ」
中から声がした。天幕の中は薄暗く、小さな蝋燭が一つだけ灯っていた。カールは地図の前に座っていた。
「……何の用だ、レイフ」
彼は顔を上げなかった。私はしばらく黙っていた。
「今日のことで、お話を」
「余は正しい判断をした」
カールが遮った。
「軍紀は守られねばならない」
「はい」
私は頷いた。
「ですが、アームフェルトも——」
「アームフェルトは感傷に流された」
カールは地図上の赤線を指でなぞった。南へ、南へ。
「余は、それを許せぬ」
沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れる。
「……お前も、そう思うのか」
カールが顔を上げた。その目が、私を捉えた。
「レイフ。お前も、余を——疑っているのか」
私は答えられなかった。
カールは小さく笑った。
「ナルヴァを覚えているか」
彼は私の前に立った。
「余は今でも思い出す。あの勝利の昂りを、兵士の熱気を」
「……はい」
「リヴォニアでもそうだ。デュナ川、クルツィク、トルン、ワルシャワ、フロウシュタット..... 全てだ」
カールの声が低くなった。
「だが、まだ足りない.... 」
その様は、まるで足りない何かを欲し続ける、空腹の獣のようだった。
北方の獅子と呼ばれた若き天才。
救国の若王。
その英雄は、私の目の前に立っていた。
だが、私の知っていたあの少年はどこにも見当たらない。
「——陛下、あなたは変わられた。」
「変わっただと。」
カールが目を細め、私の方を向く。
「お前こそ変わったな。今まで従順だったお前も、いつしか余に抵抗するようになった。」
私は続けられなかった。
「お前はいつから余の剣で無くなったのか」
「剣……」
私は、その言葉を繰り返した。
カールは私を見つめていた。蝋燭の光が、彼の顔に影を落とす。
「お前が忘れるわけがないだろう。お前が、死ぬのを辞め、余に忠誠を誓ったその日から、ずっと、お前は余の剣だ」
彼は一歩近づいた。
「剣は、持ち主を選ばない。疑わない。ただ——振るわれるだけだ。
それを忘れてきているのではないか」
私は拳を握りしめた。
「……私は」
「何だ」
「私は——もうあなたの剣では、ありません」
カールの目が、わずかに見開かれた。
私は彼を見つめた。
「私は人間でいたい。
剣ではなく——あなたと共に歩みたい。あなたを信じる、一人の臣として」
沈黙が落ちた。
カールは動かなかった。ただ、私を見つめていた。その目には——何があるのだろう。怒りか。失望か。それとも——
彼は小さく息をついた。
「——なぜ皆理解しない。王たる者の役目を。」
「陛下.... 」
カールは一歩前に出た。
「王たるものは孤独でないといけない!兵士は余を神と崇め、将は余にひれ伏す。ヨガ間違うはずなどあってはならない!」
彼は顔を歪ませて言う。その顔にどのような感情が含まれていたのか、私には分からない。だが、カールのこのような顔を見るのは久しかった。
「共に歩む者など、必要ないことを理解せぬか!余は、余達は....
お前達と同じ人間じゃない」
私は、息を呑んだ。彼がそのことを明言するのは初めてだった。
「……人間じゃない、ですか」
「そうだ」
カールの声は静かだった。
「余は王だ。人である前に——王だ」
彼は窓の外を見た。
「父上も、そうだった。父上は、余に言われた」
カールは呟いた。
「『お前は王だ。人間じゃない』と。」
私は何も言えなかった。
「お前はまだ分からないか?余はお前達とは違う。違わないといけない」
カールは地図を見下ろした。
「ナルヴァで。リヴォニアで。ワルシャワで——全てで、余は一人で決めた。誰にも頼らず、誰にも迷わされず」
彼の指が、地図上の赤線をなぞる。
「それが、正しかった」
カールは、そう言って——動きを止めた。
右手で、頭を抱えた。
「陛下?」
私は駆け寄ろうとした。
「……来るな」
カールの声は低かった。
彼は椅子に座り込んだ。頭を抱えたまま、動かない。
「陛下、医師を——」
「必要ない」
カールは顔を上げた。その顔は蒼白だった。
「……何でもない。ただの疲れだ」
だが、その目には——何かがあった。
深い、暗い——何か。
私は何も言えなかった。
やがてカールは立ち上がった。地図を見下ろす。
カールは手を下ろした。だが、その手が——わずかに震えていた。
「……陛下」
私は一歩前に出た。
「先王陛下には——レーネがいました」
カールの手が、止まった。
「父上とレーネは——」
「共に歩んでいました」
私は続けた。
「先王陛下は孤独でしたが——それでも、信じる者がいた。傍に立つ者がいた」
「……」
「陛下も、同じはずです」
私の声が震えた。
「私は——陛下の剣でいたい。
ですが、ただの剣ではなく——陛下を信じる、一人の臣として」
カールは、私を見た。
その目には——何かが、揺れていた。
だが、すぐに消えた。
「……お前は、分かっていない」
カールは背を向けた。
「余は父を超えねばならいのだ。そうでないと、余が王である意味など.... 」
「そんなことは決して——」
「ない」
「お前と余の間にあるのは——余の命令と、お前の従順だけだ。
それ以外に、何もない」
その言葉が、胸に突き刺さった。繋がりを、求めているのは私だけなのだろうか。
陛下を助けたいと、一方的に思っているだけなのか。
「陛下、私は——」
私は声を上げた。
「レイフ」
カールが振り返った。その目は、冷たかった。
「お前は、余を信じると言った」
「はい」
「ならば——黙って従え」
彼は地図を指差した。
「明日、我々は南へ向かう。マゼッパを味方につけ、ピョートルを砕く。それが、余の決断だ」
「……陛下」
「疑うのか」
カールの声が、低くなった。
「余の判断を——疑うのか」
私は、唇を噛んだ。
「……いえ」
「ならば、下がれ」
カールは再び地図を見下ろした。
「明日も、行軍だ」
私は動けなかった。
何か何か言わねばならない。
だが、言葉が出ない。
私は深く、頭を下げた。
そして、扉へ向かった。
手が、扉に触れた。
「——レイフ」
背後から声がした。
私は、振り返らなかった。
その声が——何を言おうとしていたのか。
もう、知ることはないだろう。
外では雪が降っていた。
まだ積もらない。
冷たい風が、頬を撫でた。
私は——何も感じなかった。
ただ、空虚だった。
翌朝、スウェーデン軍は南へ向かった。
兵士たちは疲弊し、食料は尽きかけ、未来は見えなかった。だが誰も止まらなかった。
私はカールの後ろを歩いた。
いつものように。
だが——何かが、違っていた。
彼の背中が、遠かった。
アームフェルトは隊列の中にいた。レーネは黙って馬を進めた。レーヴェンハウプトは包帯を巻いたまま、ただ前を見ていた。
我々は、気づけばバラバラになっていた。
同じ道を歩きながら——それぞれが、孤独だった。
雪が降り続けた。
まだ積もらない。
地面に落ちれば、すぐに溶けてしまう。
だが——いずれ積もるだろう。
全てを、白く覆い隠すまで。
私は空を見上げた。
灰色の雲が、どこまでも広がっていた。




