表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/50

第36話 届かぬ声

雪の下で、凍りついた泥が呻いた。

一歩、また一歩。だが、その足音はもはや力強い行軍ではなく——重く、鈍い響きだった。我らスウェーデン軍は、ミンスクを発ってから十日が経過していた。

東へ。モスクワへ。


ミンスクでの決断は覆らなかった。全将軍が撤退を進言したにもかかわらず——

カールは東への進軍を命じた。レーヴェンハウプトが命がけで運んだわずか二割の補給を携えて、我々は退路を断ち、凍てつく大地へと足を踏み入れた。


朝、天幕から出ると、必ず何人かの兵が動けなくなっていた。熱を出して震える者。足の感覚を失った者。ただ座り込んで、虚ろな目で空を見つめる者。


「……また五人、歩けません」


斥候の報告に、私は眉をひそめた。昨日は三人、一昨日は四人。死者はまだ出ていないが、兵士たちは確実に消耗していた。


「部隊の残りの食料は?」


「残り九日分だ、レイフ」


九日。モスクワまでは、まだ三十日以上ある。


「配給を減らせ」


「もうすでに、通常の七割だぞ?」


「仕方ないんだ、半分にしろ」


ヘニングは唇を噛んだが、頷いた。

空を見上げると、薄い雲が広がっていた。その隙間から、白い粉が舞い落ちてくる。雪だ。まだ積もるほどではない。地面に落ちれば、すぐに溶けてしまう。


その夜、緊急の軍議が開かれた。

天幕の中には重苦しい空気が漂っていた。レーネ、私、リューデル、そしてアームフェルトが集まっていた。カールは地図の前に立ち、誰も口を開かなかった。


「現状を報告する」


レーネが地図の前に立った。


「ミンスク出発以来、歩行困難な兵——百三十二名。病に倒れた者——六十八名。脱走——七名。うち戻った者——五名。行方不明——二名」


「食料は残り九日分。モスクワまでは最短でも三十日。つまり——」


「足りない」私が低く言った。


「圧倒的に、足りない」


カールは何も言わず、ただ地図を見つめていた。


「陛下」


アームフェルトが一歩前に出た。


「進路の再考を、お願いします」


カールは顔を上げなかった。


「食料は残り九日分です。モスクワまでは最短でも三十日。このまま進めば、兵が持ちません」


「分かっている」


カールの声は低かった。


「陛下、お願いです」


アームフェルトの声に、何かが震えていた。


「私たちは——兵たちは、限界です。撤退を、ご決断ください」


カールは地図を見つめたまま、動かなかった。


「陛下」


アームフェルトは続けた。


「あなたは王です。王は兵を守らねばならない。彼らを無駄死にさせることは——」


「無駄死に?」


カールが顔を上げた。その目には、冷たい光があった。


「余が進むと決めたのだ。それに従うことが、無駄死になどなるものか」


「ですが——」


「お前は、余を疑っているのか」


その声には、何の感情もなかった。

アームフェルトは唇を噛んだ。


「……いえ」


「ならば、黙っていろ」


カールは再び地図へ視線を落とした。


「お前の意見など、聞いていない」


私はアームフェルトを見た。彼の拳が震えていた。顔は蒼白で、唇から血が滲んでいた。


「陛下……」


アームフェルトの声は掠れていた。


「私は——」


「以上だ」


カールはそう言って、天幕の奥へ歩いていった。

アームフェルトは立ち尽くしていた。その背中が小さく震えている。私は何か言おうとしたが、言葉が出なかった。


やがてアームフェルトは踵を返し、天幕から出ていった。扉を開ける手が震えていた。私は彼を追おうとして——レーネが首を横に振った。


「……そっとしておいてやれ」


レーネの声は低かった。


「あの二人の間に、何があったんだ」


私が尋ねると、レーネは目を閉じた。


「わしにも、分からん。だが——何か、あったのじゃろう」


その言葉に、私は黙った。



翌朝、事件が起きた。


「食料庫が荒らされています!」


天幕の外で声が響き、私は飛び起きた。松明を持った兵士たちが食料庫の前に集まっていた。扉は破られていなかったが、中を確認すると穀物の袋が一つ消えていた。


「見張りは?」


「……用を足しに、ほんの数分だけ」


私は拳を握りしめた。


「探せ。誰が持ち出したか、確認しろ」


兵士たちが散っていったが、誰も何も見つけられなかった。犯人の痕跡は消えていた。


「……内部の誰かですね」


エーリクが小さく呟いた。


「我が軍の誰かが——」


私は何も言わず、ただ雪を見つめていた。


三日後、脱走していた五人が戻ってきた。

顔は泥と涙にまみれ、足は傷だらけだった。彼らは縄で縛られ、広場の中央に引き出された。兵士たちが周囲を取り囲み、重い沈黙が落ちていた。


私が広場に着いた時、カールはすでにそこにいた。彼は馬上にいた。背筋を伸ばし、剣を腰に佩いていたが、その顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。


「陛下」


私は近づいた。カールは私を一瞥したが、何も言わず視線を脱走兵たちへ戻した。


「……すみません」


縛られた兵士の一人が震える声で言った。


「陛下を……裏切りました。許してください……もう二度と——」


「黙れ」


カールの声は低く冷たかった。兵士は口を閉じ、広場に静寂が戻った。


カールは馬から降り、ゆっくりと脱走兵たちの前へ歩いていく。私は胸が締め付けられるのを感じた。彼は何をするつもりだ。


「レーネ」


カールが呼んだ。


「はい、陛下」


レーネが進み出た。


「剣を」


「……陛下?」


「剣を貸せ」


レーネは一瞬ためらったが、剣を抜き、柄をカールへ差し出した。カールはそれを受け取った。刃が松明の光を反射して鈍く光る。


「陛下!」


私は声を上げた。カールは振り返った。その目には何もなかった。感情が消えていた。


「レイフ。黙っていろ」


「しかし——」


「これは、余の軍だ。余の命令に背いた者は——殺すしかない」


剣がゆっくりと持ち上げられた。私はただ見ているだけだった。

彼らは軍紀を犯したのだと。

周囲の兵士たちも息を呑んで見守っていた。脱走兵の一人が泣き出した。


「お許しを……お許しを……」


カールの剣が——止まった。


わずかに。


彼の顔が、一瞬歪んだ。額に汗が滲んでいる。


だが、すぐに剣が持ち上げられた。


「陛下!」


アームフェルトの声が響いた。


「待て!」


アームフェルトの声が響いた。彼が広場へ走り込んできた。長身の体を揺らし、息を切らして。


「陛下、お待ちください!」


カールは剣を止めた。


「……『また』か。アームフェルト」


彼はゆっくりと、アームフェルトへ視線を向ける。


「彼らは戻ってきました」


アームフェルトは言った。


「逃げたが、戻ってきた。それは、まだ陛下への忠誠が残っているということです」


「忠誠?」


カールの声には冷たい嘲りがあった。


「忠誠があれば、最初から逃げぬ」


「人は弱いものです」


アームフェルトは一歩前に出た。


「飢えと寒さに耐えかね、一時の迷いで道を誤ることもある。だが——それでも戻ってきた。その勇気を、陛下は認めるべきです」


カールの目が細められた。


「これは戦争だ。軍紀を将のお前が知らぬか?

命令に背いた者を許せば、軍は崩壊する」


「ですが——」


「お前は、これまで何人の人間を殺してきた?」


カールの声が、鋭くなった。


アームフェルトは、息を呑んだ。


「……陛下?」


カールは一歩近づいた。


「お前がこれまでに斬った敵兵は、何人だ? 焼いた村は、何か所だ? お前の指揮で死んだ者たちは——何人いる?」


アームフェルトは、何も言えなかった。


「余も、」


カールは続けた。


「余も、お前も——血まみれだ。何人も殺してきた。何人もの死を見てきた」


彼は脱走兵たちを指差した。


「そんな人間に、今更、人の死を庇う資格などあるのか?」


「——だからこそです」


アームフェルトの声は、揺るがなかった。


「どういうつもりだ」


カールは言い切った。


「過去を言い訳にして、目の前の死ぬ必要のない命を見捨てるなんて、

到底俺にはできない」


「そうか」


カールはアームフェルトから目線を逸らし、剣を振り上げる。


「陛下!」


アームフェルトが叫び、脱走兵の前に立つ。


「お止めください!」


「どけ、アームフェルト。これ以上血迷うなら軍法会議にかけ処罰を言い渡す。」


カールの声は、絶対的だった。


「これ以上、余の邪魔をするな」


アームフェルトは一歩前に出た。


「陛下。戦争に正義を求めるのは——確かに愚かかもしれません」


アームフェルトは、カールを真っ直ぐ見つめた。


「だからこそ、求めなければならないのです」


カールは、動きを止めた。


「……何?」


「戦争は異常です」


アームフェルトの声が、震えた。


「人が人を殺す。村を焼く。罪なき者が巻き込まれる——すべてが、狂っている」


彼は続けた。


「だからこそ、その中で正義を求めなければ——我々は、ただの殺人者になる」


「殺人者?」


カールの目に、何かが燃えた。


「余は、王だ。国を守るために戦っている余を殺人者と呼ぶ気か貴様」


「違います、呼ばせないため、だからこそなのです!」


アームフェルトは頷いた。


「——過去に何人殺してきたか、死なせてきたかは関係ありません」


アームフェルトは、脱走兵たちを見た。


「過去に何人死んだとしても——今、目の前で死ぬ必要のない命を、死なせてはならない」


私は——その言葉を聞きながら、自分の手を見つめていた。


何人殺してきたのだろう。


クルツェニで。デュナ川で。クルツィクで。ワルシャワで。


命令を下し、兵を動かし——何人もの人間を、殺しに手を染めさせた。


そんな自分でも、愛する者の手を握れるのか。


エルサとの対談で、私は答えを出していた。


血に塗れていても、手を握ることはできる。


ただし——自分の信念を捨てなければ。


アームフェルトは今、同じ結論に達している。


自分が何人殺そうとも——目の前の命を、救える。


前は救えなかった、手の届く命を——今度こそ。


「戯言を」


カールの声が、冷たくなった。


「それは、ただの感傷だ」


「いいえ」


アームフェルトは首を振った。


「それは——人間であるための、最後の一線です」


「人間……」


カールは、小さく笑った。


「余が人間であることに、何の意味がある?」


「意味があります」


アームフェルトの声が、強くなった。


「人間だからこそ、正しくあれるのです。人間だからこそ——間違いを正せるのです」


「間違い?」


カールの目が、鋭くなった。


「余が、間違っているとでも?」


「……はい」


アームフェルトは、静かに言った。


「あなたは——間違っています」


広場に、静寂が落ちた。


誰も、呼吸をしなかった。


カールは、アームフェルトを見つめた。その目には——怒りがあった。深く、冷たい怒りが。


「ならば——」


カールの剣が、持ち上げられた。

だが——それは、脱走兵ではなく、アームフェルトへ向けられた。



剣が、振り下ろされた。


「陛下ッ!!」


私は叫び、剣に手をかけた——


だが。


金属音が、響いた。


アームフェルトの剣が、カールの剣を受け止めていた。


私の手は、剣の柄で止まった。


広場が、凍りついた。

カールは、剣を押し付けた。

アームフェルトも、押し返した。


二つの刃が、震えた。


「お前は——」


カールの声が、掠れた。


「余に、刃を向けるのか」


「刃を向けているのではありません」


アームフェルトは言った。


「私は——私の正義のために、立っているのです」


その言葉に、カールの目が見開かれた。

そして——

剣が、下ろされた。


カールは、アームフェルトから視線を外した。


「……好きにしろ」


彼は、背を向けた。


「だが、次はない」


カールは去っていった。

その背中は——真っ直ぐだった。

揺るぎなく、孤独に。


アームフェルトは、その場に立ち尽くしていた。

剣を持つ手が、震えていた。


だが——彼は、下ろさなかった。

私は——二人を見つめた。


王と、将軍。


立場の違う彼らの二つの信念が、ぶつかり合った。

そして——


亀裂が、生まれた。



その夜、私はレーネを訪ねた。


「……入れ」


天幕の中は薄暗く、レーネは地図の前に座っていた。


「レーネ」


私は口を開いた。


「あの二人の間に、何があったんだ」


レーネは、長い沈黙の後、口を開いた。


「……わしには、全ては分からん。だが——何かが、あったのじゃろう」


「何か、とは」


「フロウシュタット」


レーネは呟いた。

「あの戦いで、何かがあった。だが、わしにも詳しくは分からん。ただ——」


彼は目を閉じた。


「アームフェルトは、あの日から変わった。何かを、後悔しているような顔をしておる」


私は何も言えなかった。

フロウシュタット。

あの戦い。

私は——何も知らない。


翌日、一週間後の軍議が開かれた。


「陛下、決断を。このままでは兵が持ちません」


私が言った。


「……分かっている。だが、西へも戻れん。補給路は焦土に変わり、本格的な冬が道を閉ざす」


「ならば——」


「ならば、どうする?」


カールは顔を上げた。その目には深い疲労があった。


「東にも進めず、西にも戻れず——我々は、詰んでいる」


誰も答えられなかった。その時——


「一つだけ、道があります」


扉が開き、レーヴェンハウプトが入ってきた。彼はまだ完全には回復していなかった。脇腹に包帯を巻き、顔は蒼白だったが、その目には炎があった。


「ハウプト!お前傷は大丈夫なのか....?お前、目が」


「ああ、体調は大丈夫だ。左目は戻らなかったが、他は万全だ」


彼はいつもと同じような笑みを浮かべる。

その姿に私は安堵を覚える。


「レーヴェんハウプト、お前のいう道とはなんだ」


「南です。ウクライナ」


全員がその場所を見つめた。


「ウクライナには、コサックがいます。騎馬と槍を持ち、草原を支配する民です。そして——その首領が、マゼッパです」


「マゼッパ……」レーネが呟いた。


「イヴァン・マゼッパ。ウクライナ・コサックの頭領にして、ピョートルに仕える者」


「いえ」


レーヴェンハウプトは首を振った。


「部下の諜報員による情報ですが、彼は表上はピョートルに謙っているが、内心では奴を警戒している。」


「もし我々が手を組めば——食料、兵力、冬を越す場所。すべてが手に入る可能性があります」


「それは確かなのか?」


私が尋ねた。


「確かではありません。だが、可能性はある。賭けです。ですが——他に道はありません」


カールは長い沈黙の後、地図を見下ろした。その指がゆっくりと南へと動いた。ミンスクから、ウクライナへ。


「……南だ」


彼は地図上の赤線を南へと引いた。


「進路を変える。ウクライナへ向かう」


「陛下」


レーネが口を開く。


「それは冒険です! マゼッパが味方するという保証は——」


「他に道はない」


カールの声は静かだが絶対的だった。


「余は、まだ剣を捨てていない」


その言葉に、もはや誰も反論できなかった。

レーネはやがて頭を下げた。


「……御意」



その夜、私はカールの天幕を訪れた。


「入れ」


中から声がした。天幕の中は薄暗く、小さな蝋燭が一つだけ灯っていた。カールは地図の前に座っていた。


「……何の用だ、レイフ」


彼は顔を上げなかった。私はしばらく黙っていた。


「今日のことで、お話を」


「余は正しい判断をした」


カールが遮った。


「軍紀は守られねばならない」


「はい」


私は頷いた。


「ですが、アームフェルトも——」


「アームフェルトは感傷に流された」


カールは地図上の赤線を指でなぞった。南へ、南へ。


「余は、それを許せぬ」


沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れる。


「……お前も、そう思うのか」


カールが顔を上げた。その目が、私を捉えた。


「レイフ。お前も、余を——疑っているのか」


私は答えられなかった。

カールは小さく笑った。


「ナルヴァを覚えているか」


彼は私の前に立った。


「余は今でも思い出す。あの勝利の昂りを、兵士の熱気を」


「……はい」


「リヴォニアでもそうだ。デュナ川、クルツィク、トルン、ワルシャワ、フロウシュタット..... 全てだ」


カールの声が低くなった。


「だが、まだ足りない.... 」


その様は、まるで足りない何かを欲し続ける、空腹の獣のようだった。

北方の獅子と呼ばれた若き天才。

救国の若王。

その英雄は、私の目の前に立っていた。

だが、私の知っていたあの少年はどこにも見当たらない。


「——陛下、あなたは変わられた。」


「変わっただと。」


カールが目を細め、私の方を向く。


「お前こそ変わったな。今まで従順だったお前も、いつしか余に抵抗するようになった。」


私は続けられなかった。


「お前はいつから余の剣で無くなったのか」


「剣……」


私は、その言葉を繰り返した。

カールは私を見つめていた。蝋燭の光が、彼の顔に影を落とす。


「お前が忘れるわけがないだろう。お前が、死ぬのを辞め、余に忠誠を誓ったその日から、ずっと、お前は余の剣だ」


彼は一歩近づいた。


「剣は、持ち主を選ばない。疑わない。ただ——振るわれるだけだ。

それを忘れてきているのではないか」


私は拳を握りしめた。


「……私は」


「何だ」


「私は——もうあなたの剣では、ありません」


カールの目が、わずかに見開かれた。

私は彼を見つめた。


「私は人間でいたい。

剣ではなく——あなたと共に歩みたい。あなたを信じる、一人の臣として」


沈黙が落ちた。

カールは動かなかった。ただ、私を見つめていた。その目には——何があるのだろう。怒りか。失望か。それとも——


彼は小さく息をついた。


「——なぜ皆理解しない。王たる者の役目を。」


「陛下.... 」


カールは一歩前に出た。


「王たるものは孤独でないといけない!兵士は余を神と崇め、将は余にひれ伏す。ヨガ間違うはずなどあってはならない!」


彼は顔を歪ませて言う。その顔にどのような感情が含まれていたのか、私には分からない。だが、カールのこのような顔を見るのは久しかった。


「共に歩む者など、必要ないことを理解せぬか!余は、余達は....

お前達と同じ人間じゃない」


私は、息を呑んだ。彼がそのことを明言するのは初めてだった。


「……人間じゃない、ですか」


「そうだ」


カールの声は静かだった。


「余は王だ。人である前に——王だ」


彼は窓の外を見た。


「父上も、そうだった。父上は、余に言われた」


カールは呟いた。


「『お前は王だ。人間じゃない』と。」


私は何も言えなかった。


「お前はまだ分からないか?余はお前達とは違う。違わないといけない」


カールは地図を見下ろした。


「ナルヴァで。リヴォニアで。ワルシャワで——全てで、余は一人で決めた。誰にも頼らず、誰にも迷わされず」


彼の指が、地図上の赤線をなぞる。


「それが、正しかった」


カールは、そう言って——動きを止めた。

右手で、頭を抱えた。


「陛下?」


私は駆け寄ろうとした。


「……来るな」


カールの声は低かった。


彼は椅子に座り込んだ。頭を抱えたまま、動かない。


「陛下、医師を——」


「必要ない」


カールは顔を上げた。その顔は蒼白だった。


「……何でもない。ただの疲れだ」


だが、その目には——何かがあった。


深い、暗い——何か。


私は何も言えなかった。


やがてカールは立ち上がった。地図を見下ろす。

カールは手を下ろした。だが、その手が——わずかに震えていた。


「……陛下」


私は一歩前に出た。


「先王陛下には——レーネがいました」


カールの手が、止まった。


「父上とレーネは——」


「共に歩んでいました」


私は続けた。


「先王陛下は孤独でしたが——それでも、信じる者がいた。傍に立つ者がいた」


「……」


「陛下も、同じはずです」


私の声が震えた。


「私は——陛下の剣でいたい。

ですが、ただの剣ではなく——陛下を信じる、一人の臣として」


カールは、私を見た。

その目には——何かが、揺れていた。

だが、すぐに消えた。


「……お前は、分かっていない」


カールは背を向けた。


「余は父を超えねばならいのだ。そうでないと、余が王である意味など.... 」



「そんなことは決して——」


「ない」


「お前と余の間にあるのは——余の命令と、お前の従順だけだ。

それ以外に、何もない」


その言葉が、胸に突き刺さった。繋がりを、求めているのは私だけなのだろうか。

陛下を助けたいと、一方的に思っているだけなのか。


「陛下、私は——」


私は声を上げた。


「レイフ」


カールが振り返った。その目は、冷たかった。


「お前は、余を信じると言った」


「はい」


「ならば——黙って従え」


彼は地図を指差した。


「明日、我々は南へ向かう。マゼッパを味方につけ、ピョートルを砕く。それが、余の決断だ」


「……陛下」


「疑うのか」


カールの声が、低くなった。


「余の判断を——疑うのか」


私は、唇を噛んだ。


「……いえ」


「ならば、下がれ」


カールは再び地図を見下ろした。


「明日も、行軍だ」


私は動けなかった。

何か何か言わねばならない。

だが、言葉が出ない。

私は深く、頭を下げた。

そして、扉へ向かった。

手が、扉に触れた。


「——レイフ」

背後から声がした。

私は、振り返らなかった。

その声が——何を言おうとしていたのか。

もう、知ることはないだろう。


外では雪が降っていた。

まだ積もらない。

冷たい風が、頬を撫でた。

私は——何も感じなかった。

ただ、空虚だった。



翌朝、スウェーデン軍は南へ向かった。

兵士たちは疲弊し、食料は尽きかけ、未来は見えなかった。だが誰も止まらなかった。

私はカールの後ろを歩いた。

いつものように。

だが——何かが、違っていた。

彼の背中が、遠かった。

アームフェルトは隊列の中にいた。レーネは黙って馬を進めた。レーヴェンハウプトは包帯を巻いたまま、ただ前を見ていた。


我々は、気づけばバラバラになっていた。

同じ道を歩きながら——それぞれが、孤独だった。

雪が降り続けた。

まだ積もらない。

地面に落ちれば、すぐに溶けてしまう。

だが——いずれ積もるだろう。

全てを、白く覆い隠すまで。

私は空を見上げた。

灰色の雲が、どこまでも広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ