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第35話 白い包囲網

ミンスクを占領してから、三日が経った。

私は城壁の上に立っていた。空は低く垂れ込め、大地を覆っていた。青と黄の旗が、風もない空気の中で垂れている。

街は、静かだった。

民は戸を閉ざし、鐘も歌も響かない。足音だけが、石畳を打っていた。兵たちの顔に、笑みはなかった。

玉座もなければ、歓呼もなかった。

三日間。我々は、待ち続けていた。

レーヴェンハウプトを。補給を。


それが来なければ——この遠征は、終わる。

誰もが、それを知っていた。

だが、戦いはなかった。

占領してから三日間、ロシア軍の姿は一度も見なかった。街は無抵抗で陥ち、倉庫は空で、民は黙って家に閉じこもった。

兵士たちは、手持ち無沙汰だった。


「敵は、どこにいるんだ?」


「本当に、戦争なのか?」


「このまま、モスクワまで行けるんじゃねえか」


そんな声が、野営地に広がり始めていた。

警戒は、緩んでいた。

斥候は村を巡回し、兵士たちは焚き火を囲み、将校たちは酒を酌み交わした。三日間、何も起きなかった。だから——何も起きないと、思い始めていた。

私も、その一人だった。

城壁の上で、私はヘニングと並んで立っていた。


「平和なもんだな」


ヘニングが呟いた。


「ああ」


私は頷いた。


「こんな戦争もあるのか」


だが——その言葉を口にした瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。

平和。静けさ。敵の不在。

それは——安心ではなく、不安ではないのか。


「レイフ」


ヘニングが私を見た。


「どうした」


「……いや」


私は首を横に振った。


「何でもない」


その違和感は消えなかった。


そのまま夜を迎えようとしていた。

その時だった。

天幕に伝令が急いで駆け込んできた。


「将軍殿! 北の森より——レーヴェンハウプト将軍が!」


誰もが顔を上げた。

だが、誰も声を出さなかった。

私は城壁を駆け下りた。

天幕の入口が、開いた。

いや——倒れ込むように、開いた。

レーヴェンハウプトだった。

だが、それは知っている男ではなかった。


姿を現したレーヴェンハウプトは、もはや立っているのがやっとだった。

いつも着飾っていた軍服は血と泥にまみれ、外套は引き裂かれていた。

脇腹を押さえた手は血に染まり、足は黒ずんでいた。顔は蒼白で、唇は紫色に変わりかけていた。


片目が——なかった。

眼帯の下から、血が滲んでいた。

彼を支える副官クラウスもまた、満身創痍だった。その背後には、わずかな兵士たち。皆、立っているのがやっとだった。

私は駆け寄った。


「ハウプト!」


彼が顔を上げた。

残った片目が、私を見た。


「……よお、レイフ」


その声は、掠れていた。


「お前、一体何があった!?」


私は彼の肩を掴んだ。そ


「いやまずは、休ませるべきだ。こいつの怪我、相当酷い」


アームフェルトはそういう。


「いや——」


レーヴェンハウプトは首を振った。


「まず、報告が」


彼は一歩を踏み出した。

だが——膝が崩れた。

前のめりに倒れかけた彼を、私とクラウスが支えた。


「無理するな」


「無理しなきゃ——」


彼が笑った。

血を吐きながら。


「俺の仕事が、終わらねえ」


そんな時、奥からレーネが駆けつけた。


「ハウプト!お主、一体、何があった!」


「よおレーネ、久しぶりだな」


彼が二人を見た。


「悪いな、みっともねえ姿で」


「馬鹿言うな」


レーネの声が、震えていた。


「——俺の補給隊は、ピョートル自らの襲撃を受けた」


レーヴェンハウプトが、彼の言葉を遮った。


「一万二千の兵で出立し——」


息が、途切れる。


「多分、7千人を失った」


天幕の中が、静まり返った。


それは——壊滅に近かった。


「補給物資も——」


レーヴェンハウプトの手が、懐に伸びた。

震えながら、何かを取り出した。

羊皮紙だった。

血に染まり、皺だらけの。


「八割が——」


その手から、羊皮紙が滑り落ちた。

私はそれを拾い上げた。

クラウスが、震える声で読み上げた。


「弾薬……三十樽。穀物……八十袋。防寒具……わずか」


彼の声が、止まった。


「合計……約二割」


二割。

それは——二ヶ月分だった。

冬を越すには、足りない。モスクワまで進むには、足りない。

だが、撤退するには——十分だった。

レーヴェンハウプトの目が、濡れていた。


「……すまねぇ。俺のせいで」


彼が呟いた。


「俺は——」


「届けた」


私は彼を見た。


「お前はそれでも、届けた」


私は彼の肩を掴んだ。


「お前にしか、できなかった」


レーヴェンハウプトは——何も言わなかった。

ただ、目を閉じた。


「……そうか」


その声は、小さかった。


「そう、か」


意識を失った彼を、兵士たちが担架で運び出していった。

私は、その背中を見送った。


その夜、軍議が開かれた。

天幕の中央に地図が広げられ、ミンスクから東へ伸びる赤い線がモスクワへと続いている。将軍たちが集まっていた——レーネ、アームフェルト、私、そしてリューデル。カールの姿はなかった。

沈黙が続いた。誰も地図から目を離さなかった。


「……撤退するしかない」


私が口を開いた。


「レーヴェンハウプトが運んでくれた補給は二ヶ月分。これじゃあ到底冬を越せない。」


アームフェルトが頷いた。


「同意だ。今ならリヴォニアまで戻るには十分だ。このまま東へ進めば、俺達はロシア軍ではなく冬に殺される。」


リューデルでさえ何も言わなかった。彼もただ地図を見つめていた。


「レーネ」


私は彼を見た。最年長のレーネでさえ、この状況に顔を歪ませていた。


「……わしも、お主らに同意じゃ」


その声は低く、重かった。


「この戦を無理に進める必要はない」


沈黙が落ちた。


その瞬間、天幕の扉が開いた。

それはカールだった。

誰もが立ち上がり、彼は地図の前へ歩いた。

黒いマント、金の髪、氷のような蒼い双眸。

彼の姿を見るのは、とても久しぶりに感じた。


「レーヴェンハウプトはどこにいる」


「天幕で休んでおります」とリューデルが答えた。

カールは頷いた。


「奴はよくやった。これで、進める」


私の胸に、何かが引っかかった。


「陛下」


私は一歩前に出た。


「我々は、撤退すべきです」


カールが私を見た。この蒼い双眸と目を合わせるのはいつぶりだろう。

この目は本当に私を見ているのだろうか。


「レーヴェンハウプトは多くの部下を失いながらも届けてくれた。彼らの犠牲を無駄にしないためにも——」


「無駄になんてしない」


カールの声が私の言葉を遮った。


「余が、モスクワへ進むことで」


違う。言葉が喉まで出かかった。

だが、私は飲み込んだ。そして——やはり、言った。


「あなたは最初から撤退するつもりなどなかった」


カールの目が、わずかに細められた。


「レーヴェンハウプトがたとえ全滅しようが、あなたは東へ進んだ。

もっと兵士と、現実と、向き合ってください」


静寂が天幕を満たした。

レーネもアームフェルトも、何も言わなかった。リューデルは地図を見つめたまま、動かなかった。私は自分の心臓の音を聞いていた。

カールは私を見ていた。その目に、何が映っているのか——私には、分からなかった。


「レイフ」


その声は、低かった。


「余は、向き合っている」


嘘だ。だが、私はそれを口にしなかった。


「これは命令だ」


カールの声が、空気を断ち切った。


「全軍、三日後、モスクワへ向けて進軍を開始する」


アームフェルトが、立ち上がった。


「陛下、お待ちください——」


「議論の余地はない」


カールは振り返った。


「以上だ」


アームフェルトの顔が、蒼白になった。彼は何かを言おうとして——唇を噛んだ。拳が震えていた。

そして、天幕の扉から会議の終了を待たずして出ていった。


「グスタフ!」


レーネが呼び止めた。だが、彼は振り返らなかった。扉を開け、外へ出ていく。

天幕に残ったのは、カール、リューデル、レーネ、そして私だった。


「他に、何かあるか」


カールが問うた。

誰も、答えなかった。


「ならば、下がれ」


レーネが立ち上がり、頭を下げて天幕を出た。私も従おうとした。


「レイフ」


カールが呼んだ。

私は振り返った。

カールは地図を見ていた。


「余を、疑っているのか」


その問いに——私は、答えられなかった。何を言えばいいのか。何を言うべきなのか。


「……分かりません」


カールは何も言わなかった。


「だが」


私は続けた。


「あなたが何を考えているのか、もう分からない」


カールの横顔が、わずかに動いた。だが、それだけだった。私は待った。何かを言ってくれることを。だが、カールは黙っていた。

私は天幕を出た。


外では、雪が降り始めていた。音もなく、静かに。

アームフェルトが、遠くで立ち尽くしていた。その背中は小さく見えた。私は彼のところへ行こうとして——やめた。何を言えばいいのか、分からなかった。

レーネが私の隣に来た。


「わしらは、これから何と戦うのじゃろうな」


「敵と、ですか」


レーネは首を横に振り、空を見上げた。


「いや、『白い脅威』じゃ。そして——」


その声が消えた。私たちは黙って立っていた。

雪が降り続けていた。私の手が、冷えていくのを感じた。


遠く天幕の中で、カールは一人地図の前に立っていた。手が胸元に触れ、何かを取り出した——小さな本、詩集。カールはそれを開いたが、すぐに閉じて胸に仕舞い込み、再び地図に戻った。指が赤い線をなぞる。


翌朝、命令が下された。


「全軍、東へ」


兵士たちは黙って準備を始め、荷をまとめ、武器を手に取り、列を作った。歌も笑いもなかった。私も馬に乗り、前を見た。東、モスクワ——その方向に何があるのか、答えは出なかった。

出発の合図が鳴り、軍が動き始めた。足音が大地を叩き、荷車が軋み、馬が嘶いた。歓声はなく、重い足音だけが雪の中を進んでいく。


私は振り返った。ミンスクが遠ざかっていく。

空を雪が降り始めていた。白く、冷たく、静かに。

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