第34話 レーヴェンハウプトの苦闘
その日、ロシア国内で初めて両軍が衝突した。
ドンッ——という重低音とともに、砲弾が雪原を抉った。土と雪が舞い上がり、爆風が兵士たちを吹き飛ばす。
「伏せろ!」
レーヴェンハウプトの叫びが響く。
スウェーデン軍の砲兵隊が応戦を開始した。だが、数で圧倒的に劣っている。ロシア軍は三方向から砲撃を加えてきた。前方、左翼、そして右翼から。
「完全に包囲されてる!」
「後方も塞がれました!」
報告が次々と飛んでくる。
レーヴェンハウプトは馬上から戦場全体を見渡した。
これは——詰んでいる。
数で劣り、包囲され、補給部隊という性質上、機動力もない。
だが、彼の声に、諦めはなかった。
スウェーデン軍の歩兵が一斉に銃を構える。
ロシア軍の歩兵が接近してくる。百メートル、八十メートル、六十メートル——
「撃てッ!」
一斉射撃の轟音が雪原を震わせた。硝煙が立ち上り、ロシア兵が次々と倒れる。だが、彼らは止まらない。倒れた兵の上を踏み越え、さらに前進してくる。
「第二列、射撃!」
再び轟音。再び硝煙。
だが、ロシア軍の数は減らない。まるで黒い波のように、次から次へと押し寄せてくる。
「左翼が持ちません!」
「右翼も崩れかけています!」
レーヴェンハウプトは即座に判断した。
「予備隊を左翼へ! 騎兵隊は右翼を支援しろ!」
彼は自ら馬を駆り、左翼へと向かった。そこでは、スウェーデン軍の歩兵がロシア軍の猛攻に耐えていた。だが、弾薬が尽きかけている。
「弾薬を持ってこい! 急げ!」
補給車から弾薬が運ばれてくる。兵士たちは必死に装填し、射撃を続ける。
だが——
その時だった。風を切る音が聞こえた。
爆発が——
轟音が鳴り響く中、気がつけば地面に倒れていた。
耳が聞こえない。視界が滲む。
口の中に鉄の味。
体のどこかが熱い。脇腹か、腕か分からない。
血が——自分の血が、雪を赤く染めている。
(立たなければ)
レーヴェンハウプトは歯を食いしばった。
「消火だ!急げ!」
声が、喉から出た。
だが、聞こえているのか分からない。
耳鳴りが、全てを覆っている。
「ハウプトさんッ!!」
クラウスの声が、遠くから聞こえてくる。
彼は立ち上がった。
左目が——見えない。
血が滴っている。
だが、立たなければならない。
「ハウプトさん....」
「俺はいい.... このぐらいで死にはしねぇ。だから兵糧を守れ!!」
レーヴェンハウプトは歯噛みした。
あちこちから部下の叫びが聞こえる。
だが、立たねばならない。
レーヴェンハウプトは歯を食いしばり、剣を杖にして体を起こした。足が震える。視界が揺れる。だが——周囲を見渡す。部下たちが見ている。今、倒れるわけにはいかない。
燃える荷車。倒れた兵士たち。血に染まった雪。
補給物資の大半が、失われた。
だが——
「……まだだ」
彼は呟いた。
「まだ、守れるもんがある!」
副官が目を見開いた。
戦闘は真っ昼間の中、2時間ほど続いた。
スウェーデン軍は必死に抵抗したが、状況は刻一刻と悪化していった。
「将軍! こっちはもう持ちません!」
「弾薬が底を尽きました! 砲兵隊も沈黙しています! 補給車の七割が破壊されました! このままでは——」
「……撤退をしましょう……傷も」
「撤退なんかできるわけねぇだろ——」
レーヴェンハウプトは剣を鞘に収めた。
「残った荷を、運ぶ」
「でも! 傷が——」
「分かってる!」
彼は声を荒げた。普段飄々とした彼のそのような姿はあまり見ることはなかった。
「だが、俺は陛下に誓った。必ず届けると。……どんだけ減ろうと、これが無きゃ仲間が飢える....!命かかってんだよ!」
その目には、揺るぎない決意があった。
「残った荷車をすべて中央に集めろ!護衛部隊を周囲に配置。俺たちは——這ってでも、この荷を運ぶ!」
ロシア軍の攻撃が一時的に止んだ隙を突いて、スウェーデン軍は撤退を開始した。
だが、それは撤退というよりも——逃避行だった。
一万二千いた兵士は、今や六千程度に減っていた。補給車の七割は破壊され、残ったのはわずか三十台程度。それでも、レーヴェンハウプトはそれを捨てなかった。
「荷車を囲め! 絶対に離すな!」
彼は叫んだ。
兵士たちは荷車の周囲を固め、ゆっくりと後退していった。負傷者は荷車に乗せ、歩ける者は全員が武器を持って周囲を警戒した。
雪が降り始めた。
視界が悪くなり、足元が滑る。だが、彼らは止まらなかった。
「将軍、ロシア軍が追ってきます!」
斥候が報告する。
「どれくらいだ?」
「およそ千!騎兵中心です」
レーヴェンハウプトは舌打ちした。
「後衛を厚くしろ。荷車を守れ」
追撃戦が始まった。
ロシア軍の騎兵が、何度も襲いかかってきた。その度に、スウェーデン軍は立ち止まり、応戦し、また後退した。
兵士たちは倒れていった。
一人、また一人。
だが、レーヴェンハウプトは荷車を捨てなかった。
「ちくしょうが……」
彼は呟き続けた。
三日間、追撃は続いた。
その間、さらに千の兵が失われた。荷車も半分に減った。
だが——
四日目の朝、追撃が止んだ。
ロシア軍は、それ以上追ってこなかった。
「……どうして?」
副官が呟いた。
レーヴェンハウプトは、理解していた。
「もう、必要ないからだろうな」
彼は苦く笑った。
「補給の七割は破壊した。残りは僅か。それを運ぶ我々は、ボロボロだ。……もう、脅威じゃない」
それは、あまりにも残酷な現実だった。
「クソみたいな気分だちくしょう」
夜の森は、深く暗かった。
残った四千の兵士と、十五台の荷車。それが、レーヴェンハウプトに残されたすべてだった。彼は焚き火の前に座り、じっと炎を見つめていた。
「将軍」
副官が近づいてきた。
「目は大丈夫ですか....」
「ーー左目はもう使い物にならねぇ。だが、片目が生きてて幸いだ」
「それは安心しました....
でも正直に言わせてください。兵たちが、言っています。荷を捨てて、身軽になって逃げようと……」
「……そうか」
レーヴェンハウプトは、静かに答えた。
「お前はどう思う?」
「私は……」
副官は言葉に詰まった。
「正直に言え」
「……その方が、賢明かと。怪我もひどい、すぐに帰って治療をした方が絶対いいはずです」
レーヴェンハウプトは、小さく息をついた。そして——笑おうとした。
「クラウス、お前の言う通りだ。捨てた方が、賢い」
彼は荷車を見つめた。
「教科書に載せてもいいくらいだな。『補給部隊が包囲されたら荷を捨てて逃げろ』ってな」
いつもなら、ここで部下が笑うはずだった。だが、今は誰も笑わない。
レーヴェンハウプトは、続けようとした。何か、もっと軽い言葉を。
だが——言葉が出てこなかった。
脇腹が痛む。視界が、ぼやける。
「……だが、俺は——陛下に誓った。届けると」
軽口が、出ない。
ただ、事実だけが口から漏れる。
「これは……責任だ。俺に、課せられた」
沈黙。
やがて、彼は小さく呟いた。
「……すまねえな。こんな、みっともねえ将で」
その声は、いつもの彼からは考えられないほど弱かった。
そして——
クラウスが、口を開いた。
「冗談きついですよ、将軍」
レーヴェンハウプトは、顔を上げた。
クラウスは、いつもの苦笑いを浮かべていた。
「あなたはいつでも俺達の憧れですから」
周囲の兵士たちが、小さく笑った。
レーヴェンハウプトは、何も言えなかった。
「……ばか野郎」
彼は、顔を背けた。
「行くぞ」
そして、彼らは再び歩き始めた。荷車を引き、一歩ずつ前へ。
歩き始める彼らの背後、空から、白い粉雪が舞い落ちる。
それは岩に当たり、すぐに溶けた。
冬が——彼らの背を追いかけている。




