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第33話 予想外来ゆる

スウェーデン王国、リヴォニア地方——


カール十二世の遠征軍がロシアの大地へ踏み込んでから、すでに二ヶ月が経過していた。


その間、本国では次なる一手が準備されていた。レーヴェンハウプト指揮下の補給部隊だ。一万二千の兵、そして遠征軍の命運を握る膨大な物資を携えて、彼らは凍てつく東方へと向かった。


リガの港を発った日の朝、霧は濃かった。

白い靄が街路を這い、石畳に冷たい湿気を落としていた。兵たちは重い荷を背負い、馬は鼻息を白く吐きながら列を作った。長い、長い隊列だった。弾薬車、穀物を積んだ荷車、防寒具を満載した輸送馬車——それらが延々と連なり、街道を埋め尽くしていた。


その先頭近くで、レーヴェンハウプトは馬上から部下たちに声をかけていた。


「おい、クラウス。そんな顔してたら霜焼けが悪化するぞ。笑え笑え、笑顔は最高の防寒具だ」


レーヴェンハウプトは五十を過ぎていたが、背筋は驚くほど伸びていた。

顔には深い皺が刻まれているものの、その目は若々しく輝き、言葉には独特の軽さがあった。

部下たちは彼のそうした性質を知っていた。

冗談を言い、場を和ませ、だが命令は正確で容赦がない。それが彼のやり方だった。


「はいはい、ハウプトさん。いつものやつですね」


彼の副官のクラウスがやれやれと言った顔で応じる。


「おいおい、返しが雑いぞこの野郎」


レーヴェンハウプトはそう言いながら、実は自分自身の緊張を誤魔化していることを自覚していた。


この補給部隊は、ただの物資輸送ではない。

カール本軍と合流し、冬が本格化する前にロシアに決定的な勝利をもたらす——その鍵を握っている。アームフェルトやレイフといった歴戦の将校たちが前線で血を流している間、自分の任務は「運び切ること」だ。ただそれだけ。だが、それこそが戦の勝敗を左右する。


彼は隊列を見渡した。

弾薬車の車輪が軋む音。馬の嘶き。兵士たちの足音。それらすべてが、彼の肩にのしかかる重みとして感じられた。


「弾薬、問題なし。穀倉、積載確認済み。……ただ、馬が少し疲れてるな。今夜は早めに野営するか」


参謀が地図を広げながら頷いた。


「次の村まであと十五キロです。そこで一泊しましょう」


「ああ、そうしてくれ」


レーヴェンハウプトは馬を進めながら、遠く東の空を見つめた。そこには、まだ見ぬ戦場がある。そして、自分を待つ若き国王がいる。



最初の異変に気づいたのは、四日目の夕刻だった。


「将軍、村が……」


斥候が青ざめた顔で戻ってきた。その表情に、レーヴェンハウプトは嫌な予感を覚えた。


「どうした?」


「焼かれています。跡形もなく」


村は、完全に灰燼に帰していた。


家屋は骨組みだけを残して崩れ落ち、教会の尖塔は黒く焦げて傾いていた。井戸は埋められ、畑は踏み荒らされ、家畜の死骸が雪の上に転がっていた。そして——人の姿は、一つもなかった。


「……いつだ?」


レーヴェンハウプトは馬を降り、焼け跡を見つめた。


「二日、いや三日前かと。まだ煙の匂いが残っています」


参謀が灰を手に取り、確認する。


「住民は?」


「痕跡すらありません」


レーヴェンハウプトは黙って周囲を見渡した。

静かだった。

あまりにも、静かすぎた。


風が吹き、焼けた木材が軋む音だけが響いている。鳥の声も、犬の吠える声も、何もない。まるで世界から音が消えたかのような静寂だった。


「……次の村へ向かう」


彼は短く命令した。

だが、次の村も同じだった。

その次も。

そのまた次も。

すべての村が、焼かれていた。家は崩れ、井戸は埋められ、人は消えていた。まるで、何かが彼らの進路を先回りして、すべてを破壊していったかのように。


「これは……焦土戦術か」


彼は呟いた。


「ロシア軍が、我々の補給を断つために……」


その時に、背筋が凍る予感がした。


「本隊が危険だ....!」


彼は焼け跡を見つめた。

焦土戦術なら、もっと効率的にやるはずだ。だが、これは——徹底的すぎる。まるで、何かを伝えようとしているかのように。


「将軍、斥候からの報告です」


伝令が駆けてきた。


「前方五十キロ圏内、ロシア軍の姿なし。偵察部隊も、哨戒線も、何も確認されておりません」


レーヴェンハウプトの眉が寄った。


「……何もか?」


「はい。まるで、この一帯から軍が消えたかのように」


それは、ありえない。

ロシア軍がこれほど大規模な補給部隊を見逃すはずがない。必ず、どこかで待ち伏せしているはずだ。だが、斥候は何も見つけられない。


「斥候の数を倍にしろ。範囲を広げて、徹底的に調べろ」


「了解しました」


だが、その後も、ロシア軍の姿は現れなかった。



約1ヶ月が経過し、ミンスク近くの小村、レスナヤまで部隊は進軍をした。

その間、補給部隊は順調に東進を続け、カール本隊まで残り1週間ほどという計算だった。だが、一つ懸念があった


ロシア軍が、いない。


まったく、いない。


小競り合いも、偵察部隊との接触も、何もない。ただ、焼かれた村だけが続いていた。十二の村を通過したが、すべてが灰になっていた。人の痕跡は一切なく、食料も水も得られなかった。補給部隊は自らの物資を消費しながら進むしかなかった。

兵士たちの間に、不安が広がり始めていた。


「なあ、これ……おかしくないか?」


「ロシア軍はどこにいるんだ?」


「まるで、見えない何かに追われてるみたいだ……」


囁き声が、夜営地に広がっていく。

レーヴェンハウプトは天幕の中で地図を見つめていた。彼の表情は、日に日に険しくなっていた。


「ハウプトさん」


副官のクラウスが入ってきた。


「兵たちが動揺しています。何か、言葉を……」


「……分かってる」


レーヴェンハウプトは溜息をついた。

彼自身も、不安だった。

これは、何かが間違っている。戦術的に、戦略的に、何もかもが常識から外れている。


ロシア軍は、なぜ攻撃してこない?

なぜ、村を焼くだけで済ませている?

なぜ、こんなにも静かなのか?


「罠だ」


レーヴェンハウプトは呟いた。


「これは、罠だ。だが……どんな?」


彼は地図上の自分たちの位置を確認した。すでに、リガから三百キロ以上進んでいる。カール本軍までは、あと二百キロ程度。


「引き込まれてるのか? それとも……」


その時、天幕の外で声が上がった。


参謀が馬を寄せてきた。その声は、震えていた。


「何か……おかしいです」


「……ああ」


レーヴェンハウプトも感じていた。

空気が、変わった。

霧の向こうから、何かが来る。


「全軍停止」


彼は静かに命令した。

隊列が止まる。一万二千の兵士が、息を殺して静まり返った。

風が、止んだ。

そして——

霧の向こうから、音が聞こえてきた。

低い、重い、規則的な音。

足音だ。

大軍の足音。

地面が、微かに震えている。


「……何だと」


レーヴェンハウプトは剣の柄に手をかけた。


「全軍、戦闘配置! 荷車を後方へ! 歩兵は前方に展開、三列横隊! 砲兵は即座に砲列を敷け!」



霧が、ゆっくりと晴れ始めた。

そして——

スウェーデン軍の兵士たちは、目の前の光景に息を呑んだ。

黒い軍勢。

地平線まで続く、黒い人の波。

整然と並ぶ歩兵の列。無数の槍。旗。砲列。

二万。いや、三万を超えるかもしれない。


「……一体どこからこんな」


副官が呻いた。


レーヴェンハウプトは、黙ってその光景を見つめていた。

そして——彼は、その中央に"それ"を見た。

一際高く、黒い軍馬に跨る男。

金色の刺繍が施された軍服。群臣に囲まれた、明らかな中心。

レーヴェンハウプトは双眼鏡を覗いた。

その瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。


顔が、見える。

鋭い目。長い顎髭。

だが——その目には、冷徹な計算があった。

感情がない。

まるで、盤上の駒を動かしているかのような。


レーヴェンハウプトは、背筋が凍るのを感じた。


(この男は——)


カールと、同じ。

いや——もっと、冷たい異質な誰か。


「……ピョートル」


レーヴェンハウプトは呟いた。


「ツァーリ……ピョートル一世だ」


ロシア皇帝が、自ら戦場に立っている。

周囲の幕僚たちが、ざわめいた。


「ツァーリだと……?」


「まさか、皇帝自らが……?」


だが、レーヴェンハウプトは瞬時に理解した。

ピョートルは気まぐれでこんなことなどしない。徹底的にスウェーデン本軍と戦わずして潰す気でいるのだと。


「……なるほどな」


レーヴェンハウプトは苦く笑った。


「くそったれめ、俺たちはまんまと嵌められたみたいだ、なぁツァーリ様よぉ……」


彼は剣を抜き、高く掲げた。


「全軍!耳を傾けろ!」


彼の声が、静寂を破った。


「敵は多く、俺たちは劣勢だ!だが、敵の王自らが我々の前に立っている! それは何を意味する?」


兵士たちが、彼を見つめた。


「それは、我々が——それだけ重要だということだ! この補給が、それだけ恐れられているということだ!」


レーヴェンハウプトの声は、力強かった。


「俺たちは逃げない! 我々は戦う! そして——必ず、陛下のもとへこの荷を届ける!」

兵士たちの目に、光が戻った。


「守れ! 一台たりとも、敵に渡すな!」


そして——

ロシア軍の砲撃が、始まった。


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